海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(25) 奈良原繁書簡(15)

2008-11-02 08:35:31 | 歴史
 私は、奈良原繁を作家や芸術家のような生活破綻者だと言おうとしているわけではない。かれらの無意識のほとんどは、幼児期まで遡らなければならないが、繁の場合は、作家でも芸術家でもなく、曲がりなりにも16年間も知事を務められる堅実な生活者の面を持っている。しかし、金銭に関しては綱渡りをしているような生活である。
 もっとも収入があったと思われる時代に、十数年前の社長だった頃の利得を恥じも外聞もなく得ようとしている姿をみれば、誰もが奈良原繁をまともな金銭感覚の持ち主とは思うまい。かれは何か事業を起こそうとしている実業家でもなければ、経済人でもないのである。大正3年に松方正義に宛てた手紙の表現を借りれば、一介の役人に過ぎないのだ。一体、何に金を使っていたのだろうか。妾を養うためだろうか。あるいは、取り巻きを連れて毎日ドンチャン騒ぎをしていたからだろうか。70を過ぎた老人に前者はともかく、後者はありえたかもしれない。しかし、どうしてそう抑えが効かなかったのだろうか。ここがかれのもっともわかりにくいところなのであるが、もしかれが破滅型の芸術家なり小説家だったら、幼児期の問題に帰着しそうだが、かれの実際はどうかわからない。しかし私は、生麦事件の問題だけでも充分に一人の人間を破滅に追いやれると考えている。兄弟を犠牲にして、新しい時代の顕官であることの負い目あるいは自責の念は、もしかれが弱い性格の人間だったら、簡単にかれを押し潰していたであろう。
 だが繁は弱い性格の持ち主でもなかったし、通常は真っ当な部分が前面に出ていた。そうでなければ、かれのいう苦しい生活の中で、85歳の天寿を真っ当できるわけがない。
  
 それでは、次からはかれのまともな部分の書簡に触れていこう。むろんそういう手紙が多いのだが。

(尚々書部分)尚々過日一度御機嫌伺参館仕候得共(なおなお過日一度ご機嫌伺い参館つかまつりそうらえども)大勢之御来客と見請■(みうけ■) 別段御頼ミ申上候事柄も無之候ニ付御玄関ニ而御暇仕候 何連(いづれ)其内拝顔可奉■候
  益御機嫌能被為渉奉拝慶候(ますますごきげんよくわたらせられ、はいけい奉りそうろう)扨■■■以書面を■■ミ■奉存候得とも琉球人ニ而護得久朝惟(ごえくちょうい)と(以下割書き部分)