海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(40) 海江田信義書簡(5)

2008-11-18 11:37:42 | 歴史
 書簡の内容に入らず、どんどん脇道に入っていくようだが、鹿児島の歴史の栄光と挫折の悲惨さはともかく、まだまだこの時期の海江田のことは語らなければなるまい。何度も言うが、海江田を語らずして奈良原兄弟は語れないのだから。
 ところで、海江田は、明治24年、『維新前後実歴史伝』という口述筆記本を出している。私は、拙著で功なり名とげた人物の回顧談という言い方をしたが、前出のかれの書簡からもほんの少し垣間見られるように、海江田自身はどうも「功がなった」という感じはなかったようだ。おそらく、そういう不満が、幕末維新の「自慢話」を他に先んじて語った理由のように思える。
 では、このかれの「自伝」で、生麦事件をどう語っているかというと、ほとんど何も語っていないのである。もちろん、最低限の客観的描写はしている。 
 先頭の駕籠に乗っていた海江田の横を、馬に乗った4人の外人が通り過ぎ、そのうち3人(うち1人は女子)が戻ってきて、2人は腰辺りから血を流して逃げて行く。もう1人の男は、馬から落ちて、路傍に倒れ、腰から流れてくる血をぬぐっている。それで、行列は一時騒然としていたが、駕籠の中にいた久光公は泰然自若としていた、などと語らせているだけだが。
 何が典拠なのかよくわからないが、のちに非番の供頭であり、路傍に横たわってあえいでいるリチャードソンを介錯した人物といわれている海江田が、かれの「自伝」では、そんなことには全くふれていないばかりか、奈良原喜左衛門の名前なども一切出していないのである。現場の責任者の1人として、事件の真相を詳しく知っている人物でありながら。
 なぜ、これほどあからさまに編集を加えなければならなかったのか、あるいは削除しなければならなかったのか。
 それは、この事件を詳しく語ることが、現存者に迷惑がかかるからに他ならなかったからである。それでは、当時、生麦事件と関係の深い現存者とは誰なのだろうか。とどのつまり、日本鉄道会社の社長だった奈良原繁しかいないのである。

続「生麦事件」(39) 海江田信義書簡(4)

2008-11-17 11:18:34 | 歴史
 奈良原繁などの手紙と比較しても一目瞭然。最初からつっけんどんで、ぶっきらぼうな挨拶文である。そして、すぐ用件に入っているのだ。他の別人に宛てた海江田書簡を読んでいないので、断定はできないが、上司に反抗して免官になるくらいだから、明治以降は大体だれに対してもこんな調子だったのではないだろうか。それにしても思い出すのは、かれの鹿児島における評判の悪さである。というより、ほとんど無視されていたのには驚かされたことがある。
 鹿児島市内の旧有村家の住まいがあった場所に、鹿児島市の観光課が設置した案内板があるが、そこには長男だった海江田の名前はなく、桜田門外の変で散った次男の雄助と3男の次左衛門の名前が紹介されているだけなのである。
 私はこれを見たとき不思議に思った。もちろん、二人の兄弟は有名だが、有村俊斉すなわち海江田信義は有名ではないのだろうか、と。
 そのころの私は、奈良原喜左衛門、喜八郎(幸五郎・繁)兄弟の鹿児島における痕跡を追っていた。当然、海江田も奈良原兄弟とは深い関係があるので、そのままにしてはおけなかった。そこで調べていくと、まさかとは思ったが、広告会社のコピーライターが作った文面を、鹿児島大学の有名な歴史学の先生が承認していたということがわかった。そうしているうちに、たまたまその近くに、「三方限(さんほうぎり)名士顕彰碑」を見つけ、そこの案内板にも海江田の名前がないのに気がついたのである。そこには、私が初めて目にする名前や、読めそうもない名前の人物が大勢載っていたのにも関わらず、である。
 私は、県立図書館へ行って、この昭和10年に造られた顕彰碑の記録はないかと検索すると、「三方限名士略伝」という小冊子があった。これを借り出して見ると、この顕彰碑に名前のある人物たちの略伝が書かれていたのだ。ところが、そもそもここに海江田の名前がないのである。どうもやはり、既に戦前の鹿児島の古老たちに、枢密院顧問官・子爵海江田信義は無視されていたのである。

 これを単なるつまらないミスだという人がいたら、そういう人たちは鹿児島の歴史を知らないのである。幕末から明治10年に至る鹿児島の歴史の栄光と悲惨を。


続「生麦事件」(38) 海江田信義書簡(3)

2008-11-16 08:25:08 | 歴史
 さらに、明治21年には枢密顧問官、同25年には、第一次松方内閣の農商務大臣、翌年には伯爵の爵位を授与されている。ということは、この手紙は、佐野常民が子爵になった明治20年から伯爵になる明治28年までの間ということになるが、もう一つの年代の決め手として、「日本体育会」がある。これは、この書簡にも出てくる日高藤吉郎(栃木出身で西南戦争に従軍)が、明治24年8月、東京牛込区に「体育会」の名をもって創立したのが始まりだそうで、明治25年6月に「日本体育会」に名称を変えている。海江田がいつその副会長に就任したかわからないが、少なくともこの手紙は、明治25年6月から、明治28年の間に書かれたものと推定されるのである。
 海江田は、戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となり、その後、刑法官判事、弾正大忠などという明治政府の要職に就くが、上司への反抗などで免職され、明治3年、廃藩置県前の奈良県知事として返り咲くも、翌年の廃藩置県後には解任されている。これより以後は、明治政府の枢要に入ることはなかった。それでも、野に放っていてはうるさいとばかり、明治14年には元老院議員などに任命されたりしているが、一層頑迷になっていたのか、伊藤博文などは、かれに外遊させて、その攘夷気質を改めさせようと必死になっている。
 たとえば、なかなか外遊を受け入れない海江田に、伊藤は奈良原繁を説得にあたらせてもいるのだ。それでも気乗りしない海江田は、最終的に誰に説得されたか忘れたが、明治20年、ヨーロッパへ旅立つ。人名辞典などでは、フランツ・フォン・シュタインに政治学を学ぶなどとなっているが、伊藤の薦めで何度か立憲君主制に基づくかれの政治学説を聴いただけだろう。ともかく、翌年には帰国しているのだから、腰をすえて学んでいたわけではなさそうだ。
 さて、国会が開かれた明治23年、海江田は繁らと一緒に貴族院議員に選出されているが、翌年には枢密顧問官という何か名誉職のような地位についている。それゆえ、前回私が言ったように、手紙の相手と同等の子爵という肩書きを並べるという、何かいじましい海江田の強気なプライドのようなものが見え隠れしたのである。相手方の佐野常民は、肥前出身だが、明治25年の第一次松方内閣では、たとえ1ヶ月間でも大臣を務めた明治政府内の実力者だったのだから。


続「生麦事件(37) 海江田信義書簡(2)

2008-11-14 11:43:48 | 歴史
 いつになったらこんなくずし字を読めるようになれるのかなあ、と思うとつい投げ出したくなるような文字の羅列だったが、西ヶ谷氏はまだ読めるほうだという。まあ、読める人がそういうのだから、そうなのだろうが、まだ素人に毛が生えたようなレヴェルの私にはなかなか納得し難いものがあった。ただ、内容は明解で、わからないところはない。中には、何とか文字を追えても、何を言っているのかよくわからないのもあるのだから、そのほうがかえって始末が悪いのかもしれない。

 それでは、内容を追ってみよう。先ず、書かれた年代から特定すると、差出人も相手も子爵である。「おい、今お前は何をしているか知らんが、俺とお前は同等の爵位をもらっているんだからな」という差出人である海江田の強気な面が出ているといえなくもない。差し出された相手である佐野常民に、自分が副会長をしている日本体育会の賛助会員を依頼しているのに、何か強制的な意味合いが込められているような最後である。
 海江田は、明治17年の爵位制度(華族令)が始まった年に、子爵に列せられている。早い受爵だが、これは主として幕末期の、それも慶応3年12月9日の王政復古以後どれだけ朝廷に貢献したかがポイントになっているらしい。そういう意味でいえば、海江田は伯爵を授けられてもよさそうな活躍をしたが、戊辰戦争の際、長州の大村益次郎と対立し、明治2年の大村暗殺に関わったとも噂され、長州側から海江田の伯爵に反対があって子爵に降格されたらしい。真偽のほどはわからないが、ありえそうな話である。
 ところで、佐賀出身の佐野常民は明治20年に子爵になっているようだが、佐野の場合、幕末の貢献度というより維新以後の活躍によって爵位を得た組だろう。嘉永元年、大坂の適塾で学んだり、安政2年、幕府が創設した「長崎海軍伝習所」の第一期生だったりしている。が、その後は藩に呼び戻され、藩がオランダから購入した船の船将をしたり、慶応3年には、パリ万博に参加し、オランダに船を注文したり、各国事情を視察して翌年の明治元年に帰国している。それゆえ、海江田のような維新の貢献による受爵ではない。ただ明治期に入ると、同8年、元老院議員。同10年の西南戦争の際は、敵味方の区別なく戦傷者の治療にあたる「博愛社」を設立しようとしたりもしている。その後、明治13年には大蔵卿、同15年には元老院議長、また同20年には、「博愛社」を「日本赤十字」に改め、その初代社長に就任している。


続「生麦事件」(36) 海江田信義書簡(1)

2008-11-13 10:40:05 | 歴史
 では、先ず、西ヶ谷氏が所有している佐野常民宛海江田信義書簡を掲載する。
 (解読も西ヶ谷氏)

 謹啓。愈御安康之段為国家之奉賀候。
(いよいよご安康国家のため賀し奉りそうろう)
偖テ御依頼申上候本会之要旨ハ其節御送申上候
(さてご依頼申し上げそうろう本会の要旨はその節お送り申し上げそうろう)主意書ニ有之候通
(主意書にこれありそうろう通り)
一ハ国民全般之躰育ヲ図リ
(一つは国民全般の体育を図り)
一ハ国防上之強国ヲ計ランカ為メニ有之候。
(一つは国防上の強国を計らんがためにこれありそうろう)
因テ熟々本邦目下之状況ト宇内各国之形勢トヲ察スルニ
(よってつらつら本邦目下の状況と宇内各国の形勢とを察するに)
本会之拡張ハ実ニ必要中之必要ニシテ急務中之急務ト奉存候間
(本会の拡張は実に必要中の必要にして急務中の急務と存じ奉りそうろう間)何卒本会之主旨ニ御洞察セラレ賛助会員ニ御加入被成下度
(何卒本会の主旨にご洞察せられ賛助会員にご加入成し下されたく)
此段懇願仕候。敬具。
(この段懇願つかまつりそうろう)

追啓。右ニ付本会幹事長日高藤吉郎参上可仕筈ニ候間
 (右につき本会幹事長日高吉郎参上つかまつるべくはずにそうろう間)
仝人ヨリ詳細御聴取被下度此段申添■■■
(どう人より詳細お聴き取り下されたくこの段申し添え■■■)
九月九日
    日本躰育会副会長
    子爵海江田信義

子爵佐野常民殿


続「生麦事件」(35) 

2008-11-12 11:00:38 | 歴史
 前回、どうもわからない、という不本意な結果に終わってしまったが、考えてみれば、たかだか百数十年前の日本語の手紙を日本人が読めなくなっているというのは、情けないというか悔しいというか、どうしようもない断絶を感じてしまう。同じくずし字でも奈良原繁などはかなりましなほうで、というより達筆で正統的なくずし方だと思うので、私のような古文書解読を習い始めた者でもある程度内容はつかめるが、書いた人物によっては、かなり古文書に慣れている人でも悩まされるという。特に明治以降に個性的なものが多くなっているというのだ。私は、奈良原繁の子孫氏から、繁の四男である奈良原吉之助氏が、昭和10年代に書いたものを送ってもらったが、これもくずし字で、おまけに悪筆に近かったので、私ばかりか、かなりくずし字に慣れていた人をも悩ましたのである。ということは、戦前まで候文は当然のことながら、手紙などはくずし字が一般的だったのであろう。近代の歴史を勉強する人でも、先ず近世の古文書解読から始めなければならないとすれば、ご苦労さまと言いたい。

 閑話休題。奈良原繁の手紙は、幸いなことに、初心者の私でも比較的読み易く、この字のくずしだといわれればほぼ納得できるものがほとんどだが、海江田の手紙のコピーをもらったときは、唸ってしまった。最初の挨拶文から読めない。そして、解読文をもらったあとでも、どうしてこの文字がこう崩れていくのか説明を聞いてもよくわからなかったのである。
 奈良原繁と海江田信義の書簡をここに写真版で載せられないのは残念だが、繁と海江田は深い関係があるのだから、脱線ついでに、次回、この海江田の手紙を掲載してみたいと思う。海江田を知ることは、より繁を知るということにもつながっていくのだから。特に私は、明治20年代、海江田が何をしていたのかあるいは何を考えていたのか非常に興味をもっているのである。


続「生麦事件」(34) 奈良原繁書簡(24)

2008-11-11 11:36:09 | 歴史
 前回、明治10年の繁書簡を2通続けて掲載するつもりだったが、2通目の明治10年2月6日付けの手紙は無理だとわかった。他のものよりくずし方が激しかったことと、全体として墨が薄いのではっきりしなかったのである。おまけに尚々書きの部分も長く、一部本文と入り乱れているように見え、手に負えなかった。言い訳がましいが、つまりはまだまだくずし字を読む力がないのである。だから、すでに掲載した書簡の解説と、未掲載書簡の大体の内容に言及することでお許しを願うしかない。
 さて、1月23日付の手紙では、「今日帰縣候」とあるが、私は、これは西南戦争が始まって間もない3月8日に、繁は勅使・柳原前光や随員・黒田清隆及び高島鞆之助らとともに軍艦で鹿児島港に入っていることと関係していると思っていた。要するに、1ヶ月以上も間があるが、それは大阪かどこかへ寄って、そこに長逗留しているうちに西南戦争が始まり、そこで勅使派遣ということが決まり、どんどん予定が遅れていったのだ、と。曖昧な記憶で申し訳ないが、当時木戸は大阪(か神戸?)にいたし、戦争が始まってからは、大久保も前線基地となった大阪に出向いていたはずだから、と思っていたのだ。
 ところが、もう1通の2月6日付書簡では、「午后御尋参楼仕度」という表現がある。ということは、この時点で、繁が鹿児島にいることはありえそうもないし、大隈が東京以外のところにいるならともかく、個人的住まいではないにしろ、東京のどこかの「何々楼」に居る大隈に会いたいと言っているのは間違いないのだ。では、1月23日付の「今日帰縣候」というのは、実際そうだったのだろうか。その日、船で鹿児島へ向かい、用件が済み次第東京に帰ってきたとしたら、矛盾しないだろうが、当時、13・4日前後で、鹿児島と東京を往復するのは困難だっただろう。まあ、晴天平穏で、船を貸切り、記録を目指すのならともかく。それにそれが可能だったとしたら、その辺りのことを手紙で触れてもよさそうだが、そんな記述は一切出てこない。尚々書きには、「華族銀行之儀可成速ニ御設立之方可致(?)とや」などと島津家家令らしい話題を出しているのだ。どうも何だかよくわからない。


続「生麦事件」(33) 奈良原繁書簡(23)

2008-11-10 11:03:32 | 歴史
 ただ、もし私の推定が間違っていたとしたら、次のことが考えられる。
 明治2年2月、繁が藩政から職を解かれる4日前の2月13日に、大久保が、久光上京を促す勅使・柳原前光とともに鹿児島入りしている。ということは、かれらがいつ東京に戻ったかはっきりしないが、いわばフリーになった繁が大久保らについて上京した可能性はありうるのである。このとき、久光は上京しなかったが、代わりに繁を上京させ、政府内に職を得させて、様子を探らせていたとも考えられるのだ。
 さらにこの当時、大隈は、大蔵大輔の地位にあり、「・・・資本金拝借之義過日御許可被成下候由・・・」などという手紙の内容とも矛盾しないこともない。
もっとも、やはり、まだ藩も解体していない明治3年中の「旧知事」(注)という表現も気になるし、政府内の仕事も深入りしすぎている感じがする。また、いくら大久保の紹介とはいえ、大隈との関係も早すぎる気がしないでもない。  
 戦前発行の『大隈重信関係文書』には、明治10年に出された繁の手紙が載せられているが、それはあくまでも、繁が島津家家令として、あるいは第五国立銀行頭取として、鹿児島と東京を往復していたと思われる明治6~9年の間に大久保を仲介者として関係が始まったから、と考えたいのである。
 では、次に明治10年と特定されている2通の繁書簡を読んでみたい。

(注)・・・『日本史総覧』の「明治前期要職一覧」を見ていたら、慶応4年の太政官制が布かれた段階で、刑法官知事、及び明治2年段階で、民部官知事などと呼ばれる職があったようだ。

「益御機嫌能被為渉 大慶奉存候。然者 拙者ニも時局之形勢ニ依り急ニ今日致帰県候ニ付(拙者にも時局の形勢により急に今日帰県 致しそうろうにつき)御暇乞参館可仕之処(おいとまごい参館つかまつるべくそうろうところ) 公私取紛(公私とりまぎれ) 不能其儀ニ候間 蒙御仁免を度此旨(その儀にあたわずそうろうあいだご仁免をこうむりたくこの旨) 一筆御断申上置候。以上
一月廿三日 奈良原繁
大隈重信様         (西ヶ谷氏解読文使用)

続「生麦事件」(32) 奈良原繁書簡(22)

2008-11-09 09:39:35 | 歴史
小官ニも近年中都合を以今一度実地ニ相臨
尚確実之方法も設置度事ニ存罷在候
今般吉井少輔殿実地見分も有之候由ニ付
御帰之上者同人ヨリ模様御聞取被遣不行届
之廉も候ハバ小官江迄御通シ相願度奉存候
先者此段御礼申上度乍御妨毎之乱筆を以
奉得鳳意候 以上
五月四日        奈良原繁
大隈重信様

 慶応4年4月には、太政官制が布かれ、それに従事する役人は官員というようになったので、もし明治3年段階で、奈良原繁が行政官なり刑法官なりの仕事に従事していたなら、この小官もおかしくない。だが、今のところそういう事実は見出されていないのだ。「明治維新史談会」の田村貞雄氏にこの疑問をぶつけたところ、宮内庁書稜部に、未だ刊行されていないこの時期の官員名簿があり、一部コピーを持っているから調べてみようと言ってくれたので、今それを待っているところだが、私はないと考えている。
 どうも内容から判断すると、明治11年以降(16年ごろまで)の安積疎水事業に従事していたころではないか、と思われるのだ。
 それに、「旧知事」の「知事」は、明治4年の廃藩置県後、旧藩主らがほんの一時期任命された職のようだし、明治10年代に旧藩主を旧知事と言ったとしも何の不思議もない。「吉井少輔」(注)という官職だって、明治18年まで、内務卿、大蔵卿、あるいは内務大輔、大蔵大輔という地位があったのだから、明治10年代に、「吉井(友実)少輔」が出てきても何の不思議もないのである。
 とにかく、明治2年2月、鹿児島藩の側役を最後に藩政から身を退き、明治4年10月に鹿児島県庁に出仕を命じられるまで浪人の身だったと考えたい。
 そしてそう考えないと、その後の繁がまたまた久光とべったりとなり、島津家の家令となったり、島津家が実質的に経営していた第五国立銀行の頭取になったりしている理由がわからないのである。

(注)・・・『日本史総覧』の「明治前期要職一覧」では、吉井(友実)は明治17年7月8日(明治19年2月5日まで)に「宮内大輔」に任命されている。





続「生麦事件」(31) 奈良原繁書簡(21)

2008-11-08 11:16:53 | 歴史
 さて、今回の手紙は、日付のわかる一番最初のものであるが、これはいろいろと問題があるので、躊躇したところだ。一つは、私一人では解読できない文字が多すぎること。もう一つは、内容がはっきりしないのは勿論であるが、明治3年というのは、繁が失職中であるはずなのに、「小官」などという言葉が使われ、官職に就いて仕事をしているような内容であること、などの理由からである。何度も書いた記憶があるが、明治2年2月、戊辰戦争より帰国してきた下級兵士らによる藩政改革要求で、討幕軍の出兵に反対した門閥守旧派が藩政から退けられることになった。その中に奈良原繁も入っていたのである。そして、明治4年10月、県庁に出仕を命じられるまで、鹿児島で浪人の身だったのである。少なくとも、私の繁年表では。
 ところが、この明治3年の大隈宛繁書簡では、そんなことは全く関係ないような仕事の話なのだ。明治3年という年代特定は、明治44年の書簡(奈良原繁書簡18)と同様、疑問というほかないが、今のところそれを否定する自信もない。とにかく、読めない文字、自信のない文字が多すぎるが、解読を進めたい。読者の方で、解読に自信のある方は、ぜひ「大隈重信宛奈良原繁書簡」を検索して、早稲田大学図書館が提供する繁書簡を読み、ご教示戴ければこの上もなく有難い。

益御機嫌能被為渉恐悦御儀奉存候 
小官碌々奉職乍恐御放慮奉仰候 
然者兼月奉拝願置候 旧知事金正資本金拝借之儀
過日御許可被成下候由 早速旧知事ヨリ申来
おのつから御礼ニ茂参楼可仕候得共小官ヨリ
幾重ニも可然御礼申上候 申付候間左様
御含置被下度小生ニも当山之儀者初ヨリ
旧知事江も相進め着手ニ取付候未之事ニ而
誠ニ困難ニ存候処此節之拝借金ニ而大ニ
勢を得近々国益を生シ今日之報御恩を度
所存ニ而当山関係之者共江も厳敷意見申遣
置候間当世懇非常之大金拝借決而無用ニ属
候様之儀者為致不申候間御安堵被成下度
 (次回へ続く)