書簡の内容に入らず、どんどん脇道に入っていくようだが、鹿児島の歴史の栄光と挫折の悲惨さはともかく、まだまだこの時期の海江田のことは語らなければなるまい。何度も言うが、海江田を語らずして奈良原兄弟は語れないのだから。
ところで、海江田は、明治24年、『維新前後実歴史伝』という口述筆記本を出している。私は、拙著で功なり名とげた人物の回顧談という言い方をしたが、前出のかれの書簡からもほんの少し垣間見られるように、海江田自身はどうも「功がなった」という感じはなかったようだ。おそらく、そういう不満が、幕末維新の「自慢話」を他に先んじて語った理由のように思える。
では、このかれの「自伝」で、生麦事件をどう語っているかというと、ほとんど何も語っていないのである。もちろん、最低限の客観的描写はしている。
先頭の駕籠に乗っていた海江田の横を、馬に乗った4人の外人が通り過ぎ、そのうち3人(うち1人は女子)が戻ってきて、2人は腰辺りから血を流して逃げて行く。もう1人の男は、馬から落ちて、路傍に倒れ、腰から流れてくる血をぬぐっている。それで、行列は一時騒然としていたが、駕籠の中にいた久光公は泰然自若としていた、などと語らせているだけだが。
何が典拠なのかよくわからないが、のちに非番の供頭であり、路傍に横たわってあえいでいるリチャードソンを介錯した人物といわれている海江田が、かれの「自伝」では、そんなことには全くふれていないばかりか、奈良原喜左衛門の名前なども一切出していないのである。現場の責任者の1人として、事件の真相を詳しく知っている人物でありながら。
なぜ、これほどあからさまに編集を加えなければならなかったのか、あるいは削除しなければならなかったのか。
それは、この事件を詳しく語ることが、現存者に迷惑がかかるからに他ならなかったからである。それでは、当時、生麦事件と関係の深い現存者とは誰なのだろうか。とどのつまり、日本鉄道会社の社長だった奈良原繁しかいないのである。
ところで、海江田は、明治24年、『維新前後実歴史伝』という口述筆記本を出している。私は、拙著で功なり名とげた人物の回顧談という言い方をしたが、前出のかれの書簡からもほんの少し垣間見られるように、海江田自身はどうも「功がなった」という感じはなかったようだ。おそらく、そういう不満が、幕末維新の「自慢話」を他に先んじて語った理由のように思える。
では、このかれの「自伝」で、生麦事件をどう語っているかというと、ほとんど何も語っていないのである。もちろん、最低限の客観的描写はしている。
先頭の駕籠に乗っていた海江田の横を、馬に乗った4人の外人が通り過ぎ、そのうち3人(うち1人は女子)が戻ってきて、2人は腰辺りから血を流して逃げて行く。もう1人の男は、馬から落ちて、路傍に倒れ、腰から流れてくる血をぬぐっている。それで、行列は一時騒然としていたが、駕籠の中にいた久光公は泰然自若としていた、などと語らせているだけだが。
何が典拠なのかよくわからないが、のちに非番の供頭であり、路傍に横たわってあえいでいるリチャードソンを介錯した人物といわれている海江田が、かれの「自伝」では、そんなことには全くふれていないばかりか、奈良原喜左衛門の名前なども一切出していないのである。現場の責任者の1人として、事件の真相を詳しく知っている人物でありながら。
なぜ、これほどあからさまに編集を加えなければならなかったのか、あるいは削除しなければならなかったのか。
それは、この事件を詳しく語ることが、現存者に迷惑がかかるからに他ならなかったからである。それでは、当時、生麦事件と関係の深い現存者とは誰なのだろうか。とどのつまり、日本鉄道会社の社長だった奈良原繁しかいないのである。