海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(38) 海江田信義書簡(3)

2008-11-16 08:25:08 | 歴史
 さらに、明治21年には枢密顧問官、同25年には、第一次松方内閣の農商務大臣、翌年には伯爵の爵位を授与されている。ということは、この手紙は、佐野常民が子爵になった明治20年から伯爵になる明治28年までの間ということになるが、もう一つの年代の決め手として、「日本体育会」がある。これは、この書簡にも出てくる日高藤吉郎(栃木出身で西南戦争に従軍)が、明治24年8月、東京牛込区に「体育会」の名をもって創立したのが始まりだそうで、明治25年6月に「日本体育会」に名称を変えている。海江田がいつその副会長に就任したかわからないが、少なくともこの手紙は、明治25年6月から、明治28年の間に書かれたものと推定されるのである。
 海江田は、戊辰戦争では、東海道先鋒総督参謀となり、その後、刑法官判事、弾正大忠などという明治政府の要職に就くが、上司への反抗などで免職され、明治3年、廃藩置県前の奈良県知事として返り咲くも、翌年の廃藩置県後には解任されている。これより以後は、明治政府の枢要に入ることはなかった。それでも、野に放っていてはうるさいとばかり、明治14年には元老院議員などに任命されたりしているが、一層頑迷になっていたのか、伊藤博文などは、かれに外遊させて、その攘夷気質を改めさせようと必死になっている。
 たとえば、なかなか外遊を受け入れない海江田に、伊藤は奈良原繁を説得にあたらせてもいるのだ。それでも気乗りしない海江田は、最終的に誰に説得されたか忘れたが、明治20年、ヨーロッパへ旅立つ。人名辞典などでは、フランツ・フォン・シュタインに政治学を学ぶなどとなっているが、伊藤の薦めで何度か立憲君主制に基づくかれの政治学説を聴いただけだろう。ともかく、翌年には帰国しているのだから、腰をすえて学んでいたわけではなさそうだ。
 さて、国会が開かれた明治23年、海江田は繁らと一緒に貴族院議員に選出されているが、翌年には枢密顧問官という何か名誉職のような地位についている。それゆえ、前回私が言ったように、手紙の相手と同等の子爵という肩書きを並べるという、何かいじましい海江田の強気なプライドのようなものが見え隠れしたのである。相手方の佐野常民は、肥前出身だが、明治25年の第一次松方内閣では、たとえ1ヶ月間でも大臣を務めた明治政府内の実力者だったのだから。