海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(24) 奈良原繁書簡(14)

2008-11-01 10:23:40 | 歴史
 そこで繁は、こんなことで閣下(大隈)を煩わすのは心苦しい限りだが、私もここ数年多事多難で、(懐状態も)どうしようもない状態になっている。恥を忍んでよろしく周旋をお願いしたいと、ほとんど哀願に近い。
 また、前回の大正4年の枢密院顧問官拝命願いの時と同様、甥の「田中君」という人物が出てきたが、書状を届けるのにどうして学者の「田中君」を使うのかよくわからない。何か政治的意味があったのだろうか。あるいは甥の「田中君」がそれを望んでいたのだろうか。大隈と近づきになっていれば、学者や学問の世界でも何かと好都合だから、と。

 前回の大正4年のころ、大隈は、第2次大隈内閣の総理大臣だったが、明治37年ころは、すでに第1次大隈内閣は経験していたものの、野に下っていたようだ。だから、こういう私的な頼み事もできたのかもしれないが、それにしても、である。
 書簡にもあったが、沖縄県知事もすでに13年目に入り、年俸も3,600円という一級俸をもらっている身分だった。それだけでなく、何度も付け加えなければならないが、日本一の収入がある知事と身内からも羨ましがられていたのである。何が多事多難だ、と言いたくなってしまう。
 確かに、前年、のちに男爵家を継ぐ三次と結婚することになる、元島津家家令・東郷重持の娘・亀尾(きお)と養子縁組をしたり、またこの年の夏、沖縄で一緒に住んでいたと思われる、二男から三男に戸籍変更された非嫡出子の幸彦が結婚している。それに第6高等学校の学生だった嫡男の三次が出席しているが、これは確かに多事だったかもしれない。しかしながら、多難という事例は見当たらない。
 むしろ多難だったのは、この年2月にロシアと宣戦布告した日本国のほうだった。
 繁のいう多難は、時々か絶えずかわからないが、かれの内面をかき乱す無意識だった。自分は兄喜左衛門を犠牲にして生きている、という。