海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(26) 奈良原繁書簡(16)

2008-11-03 11:18:41 | 歴史
(割書き部分)旧藩主之聟ニ而久敷東京之福澤塾江も致入学居(旧藩主のむこにて久しく東京の福澤塾にも入学致しおり) 一昨年福州江致同行候人ニ有之 (一昨年福州へ同行いたしそうろう人にこれあり)決して御面働之議論なといたす者ニ無之候(決してごめんどうの議論などいたす者にこれなきそうろう)
 
閣下江一度御目通仕度との事ニ御座候間(閣下へ一度お目通りつかまつりたくとの事にござそうろうあいだ) 拝謁仰付被下度(拝謁おおせつけくだされたく) 当月御差支も候ハバ何日ニ而も御都合之節御逢被下度(とうげつおさしつかえもそうろはば何日にてもご都合のせつお逢いくだされたく) 此段乍恐以?翰を奉拝願候(この段恐れながら?翰をもって拝願奉りそうろう) 以上

     二月十五日         奈良原繁

大隈重信様

 これは、前回の手紙の3年前の明治34年のものであるが、繁の面倒見のよさがよく出ている。自分を頼って来る者や縁故の人間に対しては、常にやさしいのだ。
 奈良原繁のとくに沖縄での悪評は、後世、沖縄最初の自由民権運動家としての謝花昇の評価が上がるにつれ、また謝花昇の華々しい前半生と、繁と対立した後半生の悲劇的な終幕との対比が強調されるにつれ、一層際立つようになったが、単に繁が中央政界の大物たちと強いパイプを持っていたから16年の長きにわたって沖縄県知事でありえたわけでなく、こうした手紙のような気配りもかなりしていたのである。
 尚、繁は明治32年に台湾経由で、清国へ出張旅行をしているが、随行した護得久朝惟は、その際、繁に気に入られたのだろう。
 次に、かれの仕事に関しての手紙だが、明治11年に安積疎水事業の総括として働き出して以来、一貫して明治政府の殖産興業政策に忠実だったことがわかる。年代ははっきりしないが、手紙の内容から、明治33年以降の沖縄県知事時代だったことは推定できる。