海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(49) 海江田信義書簡(14)

2008-11-28 11:07:51 | 歴史
 毛利氏が、『明治六年政変の研究』を出版後、専門の研究者たちの間で、原口清氏を代表者(会長?)とする「明治維新研究会」(?)の会合(学会?)が京都で開かれた際、田村貞雄氏は、毛利氏のこの著作を、毛利敏彦氏の目前で批判し、原口氏も賛同したというのである。そして、これに対して毛利氏は、その場で、何の反論もしなかった(できなかった?)ので、もう私の論(征韓論)で、決着がついたと思っていたというのである。
 田村氏は、取り上げた資料の解釈も一方的だし、だいたい、大久保の資料など時期が違うものを自分の都合のいいところにもってくるなど、でたらめも甚だしいという。あまり正確には覚えていないが、素人はだませても、専門家の間では、話にならないとも言っていた。
 私は、自分の読みの甘さ、いい加減さを指摘されたような気になって、やや戸惑ったが、ああ、これが、海音寺潮五郎いうところの関東の学者の説云々かと、妙に感心もした。つまり、西郷びいき(遣韓論者)の海音寺は、田村氏のような研究者が圧倒的に多い関東(鹿児島以外)に住んでいたので、そういう皮肉な書き方で、憂さを晴らしていたのかもしれない。
 私も、ずーと鹿児島にいて、鹿児島の歴史に批判的だったにも関わらず、鹿児島の空気に慣らされていたわけだ。だから、田村氏の論は、むしろ新鮮で、手元に『明治六年政変の研究』があったら、もう一度それを紐解き、照合したいと思ったが、残念ながら処分しているので、それもできそうもなかった。というのは、古書価も高いし、こちらの図書館にも在庫していなかったのである。だから、この本のことを憶い出すと、何か隔靴掻痒を感じるのである。

 ともかく、歴史研究者の間では、より多くの資料を提示し、その資料の解釈が分かれる場合は、より多くの賛同者がいないと定説とはなっていかないようだ。だから、私が感心した毛利氏の「遣韓論」は、どうも鹿児島以外では、多数の支持を得ていないようである。



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