海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(46) 海江田信義書簡(11)

2008-11-25 11:28:52 | 歴史
 とにかく、春山は何に、また誰に遠慮しなければならなかったのか知らないが、海江田が語った海江田の真実を聴いていることだけは確かだ。その真実は、春山一人だけでなく、かれと一緒に海江田邸に行き、海江田の「幕末維新」の話を聴いた仲間もいたのだから、その話は仲間内で伝えられ、語り継がれていった可能性はある。要するに、それらの話が『直話』であり、『口演』だったということだろう。まさか昭和3年刊の『海軍史』の編著者が、明治39年に亡くなった海江田から直接話を聴いたということではないだろう。かつて直接聴いていたとして、全く、ありえないことではないだろうが、海江田が、かれのいう「真実」を語ったとしても、事実をありのままに語っていたという保障はどこにもない。ただ、『海軍史』の書き手は、『実歴史伝』には、ほとんど何も書かれていなかったので、語り継がれた話を総合し、その参考文献として、やや苦し紛れに、『・・・直話』や『・・・口演』などを挿入したのだろう。
 そうとでも考えなければ、海江田のいう「真実」が、明かされることはなかったであろう。
 
 さて、海江田の『幕末維新実歴史伝』が出版された翌年の明治25年から、のちに『史談会速記録』として出される、幕末維新の事件等についてのインタビューが始まっている。そして、この年の12月に、久光の歴史編纂事業に従事した市来四郎が、薩摩藩の関係者を代表して、「生麦事件」および翌年の「薩英戦争」について話をしているが、そこで市来は2度にわたり、奈良原繁が兄の助太刀をしたと聞いていると言っているのである。
 一体、『海軍史』の編著者は、これを読まなかったのだろうか。読まなかったはずはないとすれば、なぜその記録を無視したのだろうか。その当時、奈良原繁をはじめ、事件関係者はすべて物故しており、事件から60年以上も経過していたというのに。
 私は敢えて言う。『海軍史』や『縣史』を書いた歴史家が、もっと歴史や過去に対して謙虚な人物たちだったら、こんな杜撰な記録は残さなかったのではないか、と。これは言いすぎだろうか。
 かれらは、生麦事件同様、事実を曖昧にしてしまった。私は、もし事実がわからなくなってしまったのなら、わからなくなったとして、その記録を載せるべきだった、と思う。明確な根拠も提示できないのに、奈良原喜左衛門がリチャードソンを斬り、海江田信義がかれを介錯したなどと書くべきではなかったのだ。それが歴史に対する誠実な態度であるし、誠実な歴史家であるのだと私は言いたい。



コメントを投稿