海鳴記

歴史一般

続「生麦事件(37) 海江田信義書簡(2)

2008-11-14 11:43:48 | 歴史
 いつになったらこんなくずし字を読めるようになれるのかなあ、と思うとつい投げ出したくなるような文字の羅列だったが、西ヶ谷氏はまだ読めるほうだという。まあ、読める人がそういうのだから、そうなのだろうが、まだ素人に毛が生えたようなレヴェルの私にはなかなか納得し難いものがあった。ただ、内容は明解で、わからないところはない。中には、何とか文字を追えても、何を言っているのかよくわからないのもあるのだから、そのほうがかえって始末が悪いのかもしれない。

 それでは、内容を追ってみよう。先ず、書かれた年代から特定すると、差出人も相手も子爵である。「おい、今お前は何をしているか知らんが、俺とお前は同等の爵位をもらっているんだからな」という差出人である海江田の強気な面が出ているといえなくもない。差し出された相手である佐野常民に、自分が副会長をしている日本体育会の賛助会員を依頼しているのに、何か強制的な意味合いが込められているような最後である。
 海江田は、明治17年の爵位制度(華族令)が始まった年に、子爵に列せられている。早い受爵だが、これは主として幕末期の、それも慶応3年12月9日の王政復古以後どれだけ朝廷に貢献したかがポイントになっているらしい。そういう意味でいえば、海江田は伯爵を授けられてもよさそうな活躍をしたが、戊辰戦争の際、長州の大村益次郎と対立し、明治2年の大村暗殺に関わったとも噂され、長州側から海江田の伯爵に反対があって子爵に降格されたらしい。真偽のほどはわからないが、ありえそうな話である。
 ところで、佐賀出身の佐野常民は明治20年に子爵になっているようだが、佐野の場合、幕末の貢献度というより維新以後の活躍によって爵位を得た組だろう。嘉永元年、大坂の適塾で学んだり、安政2年、幕府が創設した「長崎海軍伝習所」の第一期生だったりしている。が、その後は藩に呼び戻され、藩がオランダから購入した船の船将をしたり、慶応3年には、パリ万博に参加し、オランダに船を注文したり、各国事情を視察して翌年の明治元年に帰国している。それゆえ、海江田のような維新の貢献による受爵ではない。ただ明治期に入ると、同8年、元老院議員。同10年の西南戦争の際は、敵味方の区別なく戦傷者の治療にあたる「博愛社」を設立しようとしたりもしている。その後、明治13年には大蔵卿、同15年には元老院議長、また同20年には、「博愛社」を「日本赤十字」に改め、その初代社長に就任している。