海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(42) 海江田信義書簡(7)

2008-11-20 11:08:12 | 歴史
 このあと小松帯刀が神奈川宿の休憩を取りやめ、戸塚宿に直行すべきだと言ったのに対し、海江田は、神奈川宿に休憩すべきだという話が続いている。もう生麦事件の具体的な話などどこにも出てこないのである。

 さて、次に載せるのは、現在ではあまり取り上げられていないが、久光一行が勅使・大原重徳(しげとみ)卿に従い、江戸に向かい、久光らが建議した要求を幕府に差出し、それらを飲むように交渉するが、幕府はのらりくらりと返事を延ばす。そこで、痺れを切らした海江田や奈良原喜左衛門らが、小松、中山、大久保らに、腕に自信のある有志の者が江戸城へ出向き、閣老たち出てくるのを見計らって脅しのデモンストレーションをかけようではないかと談じるのである。そして、それが実行に移されてしばらくすると、幕府は、久光らが建議した、一橋慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政治総裁職にという要求を承認したという。『・・・実歴史伝』では、非常に長い部分だが、かなりの部分を省略して以下に掲載する。

 是時海江田並に奈良原喜左衛門は、這回(しゃかい=これまで)の勅旨を拒まんとすを聞き、窃(ひそか)に相謀(あいはかる)所あり、乃(すなわ)ち小松、中山並に大久保に謂て曰く、勅使入府以来日を歴(ふ)ること既に二旬、而して幕府の奉荅(答)甚た因循にして、竟(つい)に空(むなし)く今日に及べリ、且つ頃日余輩が耳朶に触るゝ所に依るときは、幕府は到底勅旨の条件一条だも遵奉するの色なしといへり(略)・・・・・
 請ふ足下等前論の決意を以て、暫く之を忍び、ここに両三日間を待つべしと。海江田曰く足下の所見太(はなは)た好し矣、敢て貴意に従はん、因て余輩は後挙の参考として、閣老退営の形状を一見せんと欲す。大久保等曰く、亦可なり、請ふ慎んで亡状を加ふる勿れと。海江田、奈良原乃ち各々強腕勇驍(ゆうぎょう)の壮夫を意指して、之を誘(いざ)なひしに(略)・・・

 もうこれ以上書いても誰も読みそうもないと思えるようになったので、途中だがここまでにする。ここは海江田がもっとも自慢したかった話の一つだとしても、自分も喜左衛門も関わったとされる生麦事件には1頁も費やさなかったのに、ここでは9頁にわたって詳細に描写しているのだ。もうよか、というまでに。