海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(48) 海江田信義書簡(13)

2008-11-27 11:35:11 | 歴史
 前回、歴史家の歴史の捉え方の話で終わったが、このことに関して、かなり戸惑った経験がある。いや今でも戸惑っているというか、自分で確認していないので何ともいえないむず痒さのようなものを感じている。それは、次のような話である。
私は、古本屋をしながら生麦事件を追っているとき、歴史家の歴史論文なるものを読まざるを得なくなってしまった。そのときまで、歴史研究者の論文など読んだこともなかったので、最初かなり抵抗を感じたし、それは何点か読んだ後でも変わらなかった。
 ところがある日、店の棚にあった毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』を読んでみて、その抵抗がなくなった。というより、ひどく感銘を受けたのである。論文というのは、こうでなくっちゃあ、と。
 もちろん、純粋な学術論文というより、最初から本にしようとしていたからか、一般読者も意識し、より砕いた文章を心がけたのだろう。しかし、そういうことより、資料の提示の仕方やその解説を含め、論旨に淀みがなく、確信に満ちているので、すぐに次の章へと駆り立てられるのだ。そして、一気に読み終えさせられ、なるほどそうに違いない、と思わせるのである。
 当時、鹿児島における西郷の「遣韓論」を、うるさく、苦々しく思っていた私が、これを読んで、そうか、論拠はここにあったのか、と妙に感心したことを覚えている。そして、少し救われたような気になったのも事実である。つまり、鹿児島人も全く根拠なくして、「遣韓論」を唱えていたわけではなかったのか、と。これなら、少しは許せる、と。

 しかしながら、私が静岡に移って、田村貞雄氏や原口清氏らが主宰している「明治維新史談会」に入り、毛利氏の『明治六年政変の研究』の話をすると、田村氏は、あれは間違っていると、言下に否定したのである。




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