海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(39) 海江田信義書簡(4)

2008-11-17 11:18:34 | 歴史
 奈良原繁などの手紙と比較しても一目瞭然。最初からつっけんどんで、ぶっきらぼうな挨拶文である。そして、すぐ用件に入っているのだ。他の別人に宛てた海江田書簡を読んでいないので、断定はできないが、上司に反抗して免官になるくらいだから、明治以降は大体だれに対してもこんな調子だったのではないだろうか。それにしても思い出すのは、かれの鹿児島における評判の悪さである。というより、ほとんど無視されていたのには驚かされたことがある。
 鹿児島市内の旧有村家の住まいがあった場所に、鹿児島市の観光課が設置した案内板があるが、そこには長男だった海江田の名前はなく、桜田門外の変で散った次男の雄助と3男の次左衛門の名前が紹介されているだけなのである。
 私はこれを見たとき不思議に思った。もちろん、二人の兄弟は有名だが、有村俊斉すなわち海江田信義は有名ではないのだろうか、と。
 そのころの私は、奈良原喜左衛門、喜八郎(幸五郎・繁)兄弟の鹿児島における痕跡を追っていた。当然、海江田も奈良原兄弟とは深い関係があるので、そのままにしてはおけなかった。そこで調べていくと、まさかとは思ったが、広告会社のコピーライターが作った文面を、鹿児島大学の有名な歴史学の先生が承認していたということがわかった。そうしているうちに、たまたまその近くに、「三方限(さんほうぎり)名士顕彰碑」を見つけ、そこの案内板にも海江田の名前がないのに気がついたのである。そこには、私が初めて目にする名前や、読めそうもない名前の人物が大勢載っていたのにも関わらず、である。
 私は、県立図書館へ行って、この昭和10年に造られた顕彰碑の記録はないかと検索すると、「三方限名士略伝」という小冊子があった。これを借り出して見ると、この顕彰碑に名前のある人物たちの略伝が書かれていたのだ。ところが、そもそもここに海江田の名前がないのである。どうもやはり、既に戦前の鹿児島の古老たちに、枢密院顧問官・子爵海江田信義は無視されていたのである。

 これを単なるつまらないミスだという人がいたら、そういう人たちは鹿児島の歴史を知らないのである。幕末から明治10年に至る鹿児島の歴史の栄光と悲惨を。