海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(43) 海江田信義書簡(8)

2008-11-21 10:22:33 | 歴史
 ましてや、明治期の漢学者のような編者に本を造らせているので、読みにくいことこの上ない。全くのホラ話ではないだろうが、最近、海江田らのデモンストレーションが取り上げられなくなったのは、ここに書かれている難しい漢字のせいで、忙しい作家たちはもう読まなくなったからではないだろうか、と思われるほどだ。話自体としては面白いのに。
 冗談はさておき、現在では、優柔不断な幕府側に要求を飲ませたのは、大久保らが大原卿の宿舎に出向いたとき、たまたま、老中らが大原卿のいる伝奏(てんそう)屋敷に訪ねてくる日だったので、もしまだ老中側が色よい返事をしないなら、この刀にかけて承諾させようと言ったからとなっている。大原卿と老中たちが話し合い中、大久保らが隣の部屋に待機し、大原卿が老中らのはっきりしない返事に語気を強めると、隣の部屋にいた大久保らがこれに呼応し、老中たちにかれらの存在を知らせるあの例の場面である(NHKの『篤姫』でもこの場面はあった)。これは、大久保自身が日記に書いているのだから、疑いなさそうだが、海江田の話も全くありえないことではなさそうだ。その証拠に、戦前の発行だが、その有効性が未だに信じられている『鹿児島縣史』第3巻には、この海江田の話も取り上げられているからだ。この『鹿児島縣史』も戦前に発行された本だから、やや難しい漢字が多いが、これも戦前の漢学に素養のある書き手が編纂に加わっているからだろう。だから、当然、海江田の『・・・実歴史伝』などもすらすらと読みこなし、これも可なりと、あの重厚な文体の『鹿児島縣史』に取り入れたのだろう。
ところが、あの権威ある『鹿児島縣史』では、海江田と江戸城へ出向き、デモンストレーションを掛けようとしたのは、奈良原喜左衛門ではなくて、奈良原繁なのだ。
 私は、これを最初に見出したとき、漫画の表現ではなないが、目が点にならざるを得なかった。そして、しばらく口を開けてポカンとしてしまったにちがいない。


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