海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(41) 海江田信義書簡(6)

2008-11-19 09:57:52 | 歴史
 もし、実際の定説通り、最初にリチャードソンに斬りつけた人物が奈良原喜左衛門だったとしたら、どうして海江田は、繁に遠慮しなければならなかったのだろうか。すでに喜左衛門は亡くなっているのだし、定説通りなら、それは何度も語られた事実なのだから、もう弟などに遠慮する必要などないはずなのに。ましてや、海江田がリチャードソンに止めを刺したことが事実なら、なぜそれも言わなかったのだろうか。苦しんでいる異人の介錯をしてやったのだ、武士の情けとして、となぜ言えなかったのだろうか。
 おそらく、後者の話は筆記者にも語ったはずだ。しかしながら、本にする編集段階で、海江田はおかしいことに気がついた。介錯をしたのは自分だと語れば、では斬りつけたのは誰だという話になってくることを。つまり、どちらも曖昧にしておかないとここはおかしくなってくる、と。
 私がやや自信をもってこう語るのには、理由がある。だが、これはもう少しあとで話そう。その前に、話を少し元に戻すと、拙著では、海江田の『維新前後実歴史伝』の一部である「生麦事件」の部分を抜書きして示したが、ここではそれを控えた。それは『・・・実歴史伝』の漢字が難しすぎて、読みにくいと思ったからだが、考えてみれば、奈良原繁の読みにくい手紙なども載せたのだから、これは片手落ちではないだろうか。いや、不徹底だと考えるようになったので、ここにそれを掲載しようと思う。と同時に、拙著では載せなかったが、「生麦事件」の項と比較できる別の項目も合わせて掲載しようと思う。私が言う、「生麦事件」の項目がいかに編集、いや削除されているかを明示するために。
 では先ず、「生麦事件」の項から始める。
(一部漢字は、作れないものがあるので他に置き換えたものが多々ある)

・・・喝道(かつどう)して生麦村を過ぎんとす、時に海江田、轎(かご)に駕して儀仗(ぎじょう)の先導を為しつつありしが、會々(たまたま)外人四人(三人は男子一人は女子)並に馬に騎して前途より馳せ過るに逢ふ、しばらくありて又まっしぐらに後途より馳せ返る者あり、之を目撃するに先に過ぎたる外人三騎(二人は男子一人は女子)にして、中にも男子二人はどうして創傷を負ひたるにや、馬の躍るに従ふて鮮血淋漓(せんけつりんり)腰部より奔射しつつ、尚ほ鞭を加えて逃れ返り、其一人は既に馬上より斬り墜され、路傍の土畔に横臥して、手自から腰間の出血を拭ひつつあり、然して儀仗はこれまでの変事を見て一時騒然たりしが、久光公は輿上(こしじょう)に瞑目して神色自若たり・・・