blue deco design lab

昔の美術作品群をついにデジタル化!

この度、昔アメリカのニューヨークで過ごしたハイスクール時代に描き溜めた美術作品のデジタル化が完了した。実家で保管してある当時の作品を引っ張り出し、改めて1枚1枚デジタル写真で取り込み、それを纏めて、2冊のミニ写真集として纏めた。



実は大学時代に一度同じ試みとしているが、当時はまだデジタル写真では無かった為、実物を撮影して写真として現像し、その写真を紙に貼ってオリジナル原稿を作成し、大学の卒業論文の製本を発注した業者に原稿を渡してハードカバーのポートフォリオ集を作成したのだ。これはこれで味があっていいのだが、やはりデジタル化したいという思いを長年もっており、今回ついに制作に踏み切ったのだ。







( 4歳の時に初めて描いた絵)

今回、このデジタル化を行うにあたり、改めて昔のアート作品を引っ張り出す中で、色々と当時のことが思い出された。

アメリカのNYで過ごしたハイスクール時代は、最も多くのことを学び、吸収した期間だったかもしれない。そして、美術に対する興味が覚醒したのもこの頃だ。僕は小学生の頃から漫画やアニメが大好きで、自分でも漫画を描いていた。また、好きな漫画家も(小学生にしてはかなり渋い趣味であったが)、少年ジャンプとかのいわゆる当時の小学生が大好きだった作品も押さえつつ、本当にのめり込んだのは手塚治虫と横山光輝という、2大巨匠の漫画だった。時代を超えて普遍的であった両巨匠の作品群を読み漁り、お年玉とお小遣いの殆どを二人の漫画を買うのに費やしたが、今でも当時集めた漫画たちを大事にコレクションしている。当時は、両巨匠の漫画タッチを真似て、僕も漫画をたくさん描いていて、大人になったら漫画家になりたいと、(当時は真面目に)思うようになっていたのが今でも懐かしい。



さて、前置きが長くなったが、そんな漫画家志望であった僕が、中学2年の時にアメリカNYに転居する。その時は、アメリカに行ってしまえば、漫画家の夢は諦めなければいけないのかと思い、(当時は真面目に)絶望したのを良く覚えている。しかし、この漫画に対する興味と情熱があったからか、NYに行ってからもアメリカ人の日本漫画が好きな友人と英語の漫画(『Zero』というロボットヒーロー作品)を描いたりしていたものだ。今でこそ日本のAnimeやMangaは海外で市民権を得ているが、当時はまだまだマイノリティーも甚だしい時代だった。



そして、この延長戦上でハイスクールの美術クラスに入り、ここで運命的な美術教師、ナタリー・シファーノ先生と出会う。シファーノ先生のクラスを受けて、様々な題材で絵を描いていて気が付いたことに、漫画を描いてきたことでかなり基本的な美術のテクニックが既に身に付いていたということ、それに加え、アメリカ人には無い感性や発想がユニークとして受け入れられ、僕の作品がかなり評価されたことで大きな自信になったのを良く覚えている。美術クラスでは、Pen & Inkと呼ばれた白黒の”ペン画”を主に得意としていたが、これはまさに漫画用の製図ペンでケント紙に漫画を描くプロセスにとても似ており、まさに応用出来るのであったのが幸いした。この結果、当時描いたマンハッタンの夜景作品が、ニューヨーク美術教師協会賞を受賞することが出来た。



この美術クラスでは、その後様々な作品を描き、またクラスの遠足でマンハッタンのMOMA(近代美術館)、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館、メトロャ潟^ン美術館など、世界的な名立たる美術館で多くの有名作品の実物を観賞するという、なんとも恵まれた環境にあったことで、大いに刺激を受けた。中でもMOMAの近代美術やャbプアートにハマり、頻繁に通ったものだ。当時はちょうどあのキース・へリングがリアルタイムでマンハッタンのあちこちでGrafittiを描いていた時代で、風景画よりも頭の中の想像を絵にしたクリエイティブなものが大好きになり、ピカソ、アンディー・ウォーホール、ロイ・リキテンシュタイン、エッシャーなどの作品が大好きになったものだ。そしてこれら巨匠作品を忠実に模写することで、改めて巨匠の偉大さも痛感することが出来た。この頃には僕のャbプアート好きが高じて、漫画制作からすっかり美術制作にシフトすることになっていたのである。



教師協会賞をとった作品もそうだったが、ニューヨークの街並みを描いた作品も多く手掛けていた。



そんな多感なハイスクール時代に描いた作品はたくさんあったが、今回デジタル化したのは計130点ほど。作品集としては、『My Early Works 1』と『My Early Works 2』というタイトルで2冊作成し、それぞれ60点以上を収録。



1冊目は主にメ[トレート(人物画)を収録した。当時から僕が大好きだったブルース・リー、松田聖子、ジョン・マッケンロー、ヒッチコック、当時アメリカのティーンに絶大な人気を誇っていた女優のモリー・リングウォルドやバージニア・マドセンなど多くの人物をペン画で模写していた。水彩画や油絵などはあまり好んで描かなかったものの、松田聖子とブルース・リーのものはかなりサイズも大きく、今でも結構気に入っている。漫画を描いていた頃のタッチの作品なども結構ある。



また、前にもブログで取り上げたが、自分の理想の女性を描いた『Ideal Girl』というハイスクール時代後期の作品では、奇しくもその後大人になってから熱狂的なファンとなった少女時代のユナにそっくりな作品を描いていたりして、この頃から自分の好みが既に形成されていたと思うと、なかなか興味深いものがある。



2冊目は主に人物画以外の作品で、こちらもかなりユニークな作品が多いが、当時美術クラスで与えられたテーマに沿って描いたもの、被写体をベースに模写したもの、全くの想像・妄想から描いたものなど多岐にわたる。



思い出深いのは、ハロウィンに地元の教会で企画・開催したお化け屋敷イベント『The Crypt』用の宣伝ポスターや、学校内出版物『Oneirata』の挿絵や英文学クラスの教材であった『オデッセイ』のイメージイラストなど。そして学校のバザーで配った、スクールマスコットの蜂(Bee=Yellow Jacket)キャラクターの缶バッジ用イラストなど、どれも懐かしい作品ばかりである。



また、以前にもブログに書いたが、当時はテニス、そしてマッケンローにどっぷりハマっており、テニスやマッケンローを題材にした作品を多く手鰍ッていた。



その中でも、マッケンローと、ライバルであったイワン・レンドルそれぞれのオリジナルウェアデザインが交差するアート作品を制作し、当時暫くの間ハイスクール入り口付近の廊下に展示されていた。これも結構思い出深い作品である。



また当時アメリカでは空前の忍者ブームが巻き起こり、日本のカルチャーにも注目が集まり始めていた時期であり、僕も日本人であることを意識する機会が多かった。そんな環境の中で産まれたのが、日本の特徴をある意味パロディー・作品群。中でも歌舞伎ビジネスマンや、舞子さん・富士山・自動車・エレクトロニクスなどを盛り込んだコテコテのジャパニーズ作品なども、今となってはかなり思い出深い。



最近では多くのキャラスト(キャラクターイラスト)を描いており、昔のような美術作品や漫画は描いていないが、自分の作画ヒストリーを振り返るとなかなか面白いものがある。今回デジタル化を行ったことで、過去作品のデジタルポートフォリオ化、デジタルアーカイブ化が出来たこと自体大変意義深いが、と同時に改めて自分自身の作品や当時の状況などを振り返ることで、また新たな絵本制作に向けてモチベーションを高める良い機会となった。

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