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日本を創った人々2-舟形送り火と慈覚大師

2012-08-13 13:35:28 | まち歩き

 北の窓を開ければ、雄大な船形送り火の火床が見える。今年も8月16日が巡って来た。京都では五山の送り火が点灯される日である。お盆に 冥土に帰る精霊を見送る送り火は「大文字」が最も良く知られ 送り火の代名詞になっているが、その他に「妙法」 「船形」や「 左大文字 」 それに、「鳥居形」がある。 このほか、享保2(1717)年の『諸国年中行事』と いう書物にはこの五山以外でも送り火がされていたと記されており市原野の 「い」、鳴滝の 「一」、西山の 「竹の先に鈴」、北嵯峨の「蛇」、観空寺 の「長刀」があったとされてる。 
 「船形」万燈籠送り火は西賀茂船山(標高は317m)京都市北区西賀茂船山にある。

 

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図1 送り火舟形。 五山の送り火の内、最も古いかも?

 

 「船形」は船山の麓にある西方寺開山の慈覚大師円仁(*) が承和6 ( 839 ) 年、唐からの帰路、暴風雨に遭い 南無阿弥陀仏と唱名を唱えたところ、暴風雨がおさまって無事お帰りできたという故事にちなむと伝えられて、その船を形どったのが始まりと されている。歴史と伝統維持は西賀茂船山麓にある西方寺 ( 浄土宗 )と船形万灯籠保存会を中心に維持されている。

 

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 *円仁は、延暦13年(794年)下野国都賀郡(栃木県下都賀郡)の豪族・壬生氏にうまれ、9歳から都賀郡小野の大慈寺の住職広智について修行を積み、大同3年(808年)、15歳で比叡山に登って伝教大師最澄の弟子となった。承和5年(838年)遣唐船で唐に渡り、山東省の赤山法華院や福建省の開元寺、中国仏教三大霊山に数えられる五台山で修行し、承和14年(847年)に帰国した。長安滞在中、唐の十五代皇帝武宗の仏教排斥にあい苦渋を強いられたが、円仁は、在唐9年間の紀行を日記「入唐求法巡礼行記」全4巻にまとめ、帰国後、当時の中国の有り様を克明に伝えた。当書は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄弉三蔵の「西遊記」とともに、三大旅行記として高く評価されている。帰国後、円仁は朝廷の信任を得、斉衡元年(854年)61歳の時に延暦寺の座主(江戸期までの大寺の住職の公称。官命により補任)となり、清和天皇に菩薩戒(大乗の菩薩としての心構えなるもの)を授けた。後に「金剛頂経疏」などを著したが、貞観6年(864年)に71歳で没した。その2年後の貞観8年(866)、生前の業績を称えられ、円仁に日本で初の大師号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられた。関東以北には、日光山、埼玉県川越市の喜多院、福島県伊達郡の霊山寺、松島の瑞巌寺、山形市の立石寺、岩手県平泉町の中尊寺、毛越寺、秋田県象潟町の蚶満寺、青森県恐山の円通寺など、慈覚大師が開祖(または中興)とされる寺が数多くあり、立石寺のある山形県においては、山形市の柏山寺や千歳山・万松寺、南陽市二色根の薬師寺など10を越える寺を開いている。これは、慈覚大師が天長6年(829年)から天長9年(832年)まで東国巡礼の旅に出、この折に、天台の教学を広く伝播させたことが大きな基盤となっている。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされる。浅草の浅草寺はそのひとつで、北海道にも存在する。

 

 因みに先のアメリカ大使エドウィン・ライシャワーは円仁の日記「入唐求法巡礼行記」全4巻を学位論文のテーマにして円仁の存在を世に広めた。

 

【追記】 円仁は偉大な人である。この船形万燈籠をはじめた人であるというのがひとつの大きな理由であるが、もっと重要な理由がある。そうではあるが、まずはこの点に触れておきたい。舟形万燈籠は、800年もの永きにわたって受けつがれてきている。一体そういうものが全国にどれほどあるのだろうか。「劇場国家にっぽん」ではそのようなイベントが数多く必要であると考えているのだが、このようなビッグイベントを演出できる演出家というものが現在どれほど全国に居るのであろうか。円仁のような演出家がはたして現在どれほど居るのであろうか。皆無であるかもしれないではないか。そう考えると、円仁は、ビッグイベントの演出家としても超一流の人物であったということができるのである。

 

 円仁が偉大な人物である第二の理由は、先にも述べたが、台密すなわち天台宗における密教の創設者であるということだ。ご承知のように、最澄は、天台宗における密教的要素の導入に努めたが、空海の協力が得られず失敗する。さまざまな悪霊のはびこる平安時代初期において密教的なものが社会から求められていたのであり、密教的要素の導入が不完全であった天台宗は、空海は東寺の真言宗の陰にかくれてもうひとつパッとしなかったのである。それを救ったのが円仁である。円仁が居なければ・・・・、おそらく・・・・・・比叡山延暦寺天台宗のその後の隆盛は到底おぼつかなかったのではないか。台密すなわち天台宗の密教は円仁に始まり、その延長線上に浄土教がある。浄土教といえば源信をすぐに思い出すのだが、実は、浄土教は前に述べたように円仁に始まるのである。源信は浄土教を不動のものに育て上げた。その後、法然のような異端児も出るけれど、観念念仏としての光明真言に傾倒する明恵が出てくる。誰あろう、この明恵こそ、今後世界的にもっとも注目されて然るべき宗教家ではなかろうかと思われる。浄土教の源流に円仁が居る。

 

 円仁が偉大な人物である第三の理由は、東北文化の源流に円仁が居るという点である。東北文化の一つの底流はいうまでもなく縄文文化だ。これに円仁の台密が加わり、現在の東北文化が生れた。東北文化を再発見し、東北文化の復興を図る必要がある。そのことが、前に述べたように、21世紀におけるわが国の「モノづくり」に繋がっていくはずである。「劇場国家にっぽん」は、前に述べたように、感動システムづくりである。そうであるならば、東北こそ国土づくりのフロンティアとしてさまざまな可能性を有しているのではないか。私は、今後、円仁をキーワードに東北文化を掘り起こさなければならないと考えている。21世紀におけるわが国の「モノづくり」を考える上でのひとつのキーワード・円仁・・・・、円仁はそういう未来に繋がる奥深さをもっている人である。

 

(http://www.kuniomi.gr.jp/より抜粋)