今回発見された文字は草仮名よりはるかに洗練され、4文字程度を流れるように続けて書く「連綿体(れんめんたい)」を取り入れるなど、後世の書法に匹敵する完成度という。
藤原良相は、皇族以外で初めて摂政となった藤原良房(よしふさ)の弟。漢文や仏教に造詣の深い教養人だったといわれる。豪壮な邸宅は「百花亭」と呼ばれ、清和天皇も訪れて桜の宴を開いたとされる。
仮名(かな)とは、漢字をもとにして日本で作られた文字のことで、一般には平仮名と片仮名のことを指す。表音文字の一種であり、基本的に1字が1音節をあらわす音節文字に分類される。漢字に対して和字(わじ)ともいう。ただし和字は和製漢字を意味する事もある。日本は本来固有の文字を持たず、中国大陸より文章を記す文字として漢字が伝わった。しかし漢字で記される中国の古典文、すなわち「漢文」は当然ながら中国語に基づいて記されており、音韻も構文も異なる言語である日本語を文章として表記するものではなかった。この「漢文」を日本語として理解するために生れたのが「漢文訓読」である。地名や人名などの日本語の固有名詞は、漢字をそのまま使ってもその音を書き記すことはできない。そこで使われたのが「借字」(しゃくじ)であった。これはたとえば「阿」という漢字が持つ本来の意味を無視して、この漢字から「ア」という音だけを抽出し、日本語の音に当てるという方法で、これにより借字で表記した語を交えた「漢文」が日本において作られるようになった。この借字を俗に「万葉仮名」とも呼ぶ。このような表記法は、仮借(かしゃ)の手法に基づき日本以外の漢字文化圏の地域でも古くから行なわれているもので、中国でも漢字を持たない異民族に由来する文物に関しては、音によって漢字を割り当てていた。邪馬台国の「卑弥呼」という表記などがこれに当たる。漢字を借字として日本語の表記に用いるのならば、理屈の上からはどんな内容でも、どれほど長い文章でも日本語で綴ることは可能であった。しかしそのようにして書かれた文章は見た目には漢字の羅列であり、はじめてそれを読む側にとっては文のどこに意味の区切りがあるのかわからず、非常に読みにくい。したがって借字でもって日本語の文をつづることは、韻文である和歌でもっぱら用いられた。和歌なら五七五七七というように五音や七音に句が分かれており、それがたいてい文や言葉の区切りとなっているので、和歌であることを前もって知っておけばなんとか読むことができたからである。
正倉院所蔵の奈良時代の公文書のなかには、ほんらい「多」と書くところを「夕」、「牟」と書くのを「ム」と書くというように、漢字の一部を使ってその字の代わりとした表記が見られ、また現在の平仮名「つ」に似た文字が記されたりもしている。この「つ」に似た文字は漢字の「州」を字源にしているといわれるが、このように漢字の一部などを使って文字をあらわすことは、のちの平仮名・片仮名の誕生に繋がるものといえる。
やがて仏典を講読する僧侶の間で、その仏典の行間に漢字の音や和訓を示す借字などを備忘のために書き加える例が見られるようになるが、この借字が漢字の一部や画数の少ない漢字などを使い、本来の漢字の字形とは違う形で記されるようになった。行間という狭い場所に記すためには字形をできるだけ省く必要があり、また漢字で記される経典の本文と区別するためであった。これが現在みられる片仮名の源流である。この片仮名の源流といえるものは、文献上では平安時代初期以降の用例が確認されているが、片仮名はこうした誕生の経緯から、古くは漢字に従属しその意味や音を理解させるための文字として扱われていた。
また漢文訓読以外の場では、借字から現在の平仮名の源流となるものが現れている。これは借字としての漢字を草書よりもさらに崩した書体でもって記したものである。その平仮名を数字分の続け字すなわち連綿にすることによって意味の区切りを作り出し、長い文章でも綴ることが可能となった。これによって『土佐日記』などをはじめとする仮名(平仮名)による文学作品が平安時代以降、発達するようになる。
ただし平安時代の平仮名の文は全て平仮名だけで記されていたわけではなく、「源氏」だとか朝廷の官職名などの漢語はたいてい漢字のままで記されていた。これはそれら漢語を平仮名で表記する慣習が当時なかったことによる。現代の「コミュニティ」や「アップロード」といった外来語由来のいわゆるカタカナ語が、「こみゅにてぃ」「あっぷろーど」などと平仮名では通常表記されないのと同じ事情である。また文章の読み取りを容易とするために、漢語ではない日本語も必要に応じて漢字で表記された。漢字は平仮名の文を補うものであった。片仮名においても、漢文訓読から助詞などを借字で漢字の語句のあいだに小さく書き添える形式が古くに生まれていたが、それら借字で記した助詞が片仮名となり、『今昔物語集』に見られるような漢字片仮名まじりの文として発展していった。
平仮名は漢字から作られたものであるが、なかには現在の平仮名そのままの文字のほかに、それとは違う漢字を崩して作られたさまざまな異体字がある。現在この異体字の平仮名を変体仮名と称するが、片仮名にも古くは現在とは違った字体のものがあった。平仮名による文は変体仮名も交えて美しく書くことが求められ、それらは高野切などをはじめとする古筆切として残されている。こうした異体字をふくむ平仮名と片仮名は明治時代になると政府によって字体の整理が行われ、その結果学校教育をはじめとする一般社会において平仮名・片仮名と呼ばれるものとなった。このふたつは現代の日本語においてもそれぞれ重要な役割を担っている。 和歌は文の長さが三十一字と限られており、子供が仮名の手ほどきを受ける教材としては手ごろなものであった。その数ある和歌の中から「なにはづ」と「あさかやま」の歌が「てならふ人の、はじめにもしける」といわれたのは、実際この2首が古い由緒を持った歌らしいこと、また一方では同じ句や同じ仮名が繰り返し出てくることがあげられる。「なにはづ」の歌は「さくやこのはな」という句が二度もあり、「あさかやま」も「やま」や「あさ」という仮名が二度出てくる。同じ言葉や仮名を繰り返すほうが子供にとっては内容を覚えやすく、また同じ文字を繰り返し書き記すことにもなる。
しかし当時の仮名はただ書ければよいというものではない。『源氏物語』の「若紫」の巻には、まだ幼女の紫の上を光源氏が引き取りたいと紫の上の祖母である尼君に申し入れると、「まだ難波津(なにはづ)をだにはかばかしうつゞけ侍らざめれば、かひなくなむという返事をされるくだりがある。まだ「なにはづ」の歌もまともに書けないような幼い娘なので、源氏の君のお相手にはならないでしょうと断られたのであるが、「はかばかしうつゞけ侍らざめれば」とは仮名を連綿としてうまく書きこなせないということである。仮名は文字として覚えるだけではなく、その仮名を連綿で以って綴れるようにするのが当時の仮名文字の習得であった。これは単なる美観上のことだけではなく、上で触れたように自分の書いたものを人に読み取らせるためには、仮名の連綿は書式の上でも必要なことだったのである。都合のなかったはずの仮名遣いとは別に現れたのが、藤原定家の定めた仮名遣い、いわゆる定家仮名遣であった。しかし定家が仮名遣いを定めた目的は、それを多くの人に広めて仮名遣いを改めようとしたなどということではない。定家は当時すでに古典とされた『古今和歌集』をはじめとする歌集、また『源氏物語』や『伊勢物語』などの物語を頻繁に書写していたが、それは単に書き写すだけではなく、内容を理解し、また自分が写した本を自分の子孫も読んで理解できるようにと心がけた。その手立てのひとつとして仮名遣いを定めたのである。つまりそれまでは多かれ少なかれ表記の揺れがあった仮名遣いを、自分が写した本においてはこの意味ではこう書くのだと規範を定め、それ以外の意味に読まれないようにしたのであった。たとえば当時いずれも[wo]の音となっていた「を」と「お」の仮名はアクセントの違いによって書き分けるよう定めており、これによって「置く」は「をく」、「奥」は「おく」と書いている。その結果定家の定めた仮名遣いは、音韻の変化する以前のものとは異なるものがあったが、定家は自分が写した本の内容が人から見て読みやすい事に腐心したのであって、仮名遣いはその一助として定められたに過ぎない。定家の定めた仮名遣いはその後、南北朝時代に行阿によって増補された。それが歌人定家の権威もあって、定家仮名遣と称して教養層のあいだで広く使われたが、明治になると今度は政府によって歴史的仮名遣が定められ、これが広く一般社会において用いられた。そして第二次大戦後は現行の現代仮名遣いが一般には用いられている。しかし現代仮名遣いはおおむね1字1音の原則によって定められているとされる。現代仮名遣いにもその以前からあった仮名遣いと同様に、発音には拠らずに書きあらわす例が定められているのがわかる。「続く」は「つづく」と書くが、「つずく」と書くように定められてはいない。蝶々は「ちょうちょう」と書くが「ちょおちょお」や「ちょーちょー」は不可とされる。現代仮名遣いとは実際には、歴史的仮名遣を実際の発音に近づけるよう改め、「続く」や「蝶々」のような例を歴史的仮名遣と比べて少なくしただけのものである。