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日本を創った人々4 坂本竜馬

2012-12-06 11:08:45 | うんちく・小ネタ

船中八策と大政奉還

 

Photo

 

図1 一介の素浪人、坂本竜馬の写真。無血革命を成し遂げた男

 

 

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春獄・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に提示した。それは以下の八項目であった。

 

  1. 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
  2.  

  3. 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事(議会開設)
  4.  

  5. 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事(官制改革)
  6.  

  7. 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事(条約改正)
  8.  

  9. 古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事(憲法制定)
  10.  

  11. 海軍宜ク拡張スベキ事(海軍の創設)
  12.  

  13. 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事(陸軍の創設)
  14.  

  15. 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事(通貨政策)

 

以上の八項目は「船中八策」として知られることになる。長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

 

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保一蔵、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎らが代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、その後、6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

 

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。

 

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運んだ。10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。 一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。翌14日に明治天皇に上奏。15日に勅許が下された。

 

ここで問題となるのは第一条である。1192年源頼朝は鎌倉の幕府を開設し、天皇からの影響を退ける為に、革新的な政教分離を図った。 これから800年を経て旧に戻ってしまった。船中八策の前後の経緯をできるだけ詳しく示したが、返す返すも残念である。第二次世界大戦に至る経緯も大政奉還がなければどうなっていたか分からない。竜馬のあたまの中には眼前のドサクサに眼が行き、まだ政教分離という重要な概念が生まれていなかったと考えられる。確かに、大政奉還によって無血革命を実現した。これも大きな成果であることは間違いない。しかし、日本という国の歴史の中で、折角実現した頼朝による政教分離が霧消し、800年の逆戻りが太平洋戦争へと突き進んでしまった。今、衆議院選挙の真っ最中である。行く末を間違えないようにしたい。