うちの近くでは、アブラゼミとクマゼミが主で、それ以外のセミの声はあまり聞けません。8月下旬になれば、ツクツクボウシが鳴き出しますが、今年はまだあまり鳴いていません。
昨日、弥勒山の方に行ったら、珍しくヒグラシがたくさん鳴いていました。それも1匹だけではなく、少なくとも3匹以上いたようです。
先月、南木曽岳
に登ったときはずっとヒグラシが鳴いていました。キツツキが木をつつく音も間近で聞こえました。
今回は『幻影』第13章です。これでやっと3分の1です。原稿用紙換算では、600枚以上になります。
13
卑美子の一門のタトゥーコンベンションの日が来た。
その日はミドリ、ケイ、ルミ、美奈の四人組は出勤し、仕事が上がった後、一緒にタクシーで栄まで行った。会場のバーの名前を言ったら、運転手は知っていた。有名なバーだそうである。もう一〇月も下旬だった。美奈はつい先日、二一歳の誕生日を迎えたばかりだった。誕生日には、仲のいい三人がささやかなお祝いをしてくれた。美奈の誕生日だけではなく、仲間の誕生日はみんなで食事会をすることにしている。先月はルミの誕生会を行った。ルミの星座は乙女座だ。
地下の会場の入り口でチケットを渡して中に入ると、もわっとする暑さとともに、すさまじい音楽が響いた。CDによる演奏だが、上等なオーディオ機器、とりわけ大きなスピーカーから流されるロックの音響はすさまじかった。
会場にはまだおのおののブースで、タトゥー、刺青の実演をしている彫り師もいた。
「先生、今日はお招きくださり、ありがとうございます」
美奈は卑美子を捜して挨拶した。
「最近、仕事が忙しくなって、なかなかスタジオに挨拶にも行けず、すみません」
「よく来てくれましたね。あ、さくらさんですね。お久しぶり」
卑美子はルミを本名で呼んだ。
「ときどきお仕事見せていただき、ありがとうございました。腰の蘭の花、すごく気に入ってます」とルミも卑美子に挨拶した。
美奈は初めて卑美子に会うミドリとケイを、「お店の先輩です」と紹介した。
卑美子の横に、若い女性がいた。
「こちらは最近アシスタントとしてうちに来ているトヨです」と卑美子はその女性を紹介した。髪が短く、ボーイッシュでかわいい感じの女性だった。ルミや美奈より少し年上、というところだろうか。
トヨは美奈が胸に紫の牡丹を入れてしばらくしてから、弟子として入門した。だからもう入門して、五ヶ月になる。タトゥーの勉強をする傍ら、アシスタントとして卑美子の仕事を手伝っている。
卑美子に弟子入りする前、トヨは卑美子に腕や背中にタトゥーを彫ってもらい、卑美子に憧れて弟子入りを願い出た、という。
卑美子は何度も断ったが、トヨの熱心さに根負けし、また多忙になってきて、電話番や客の接待などの手伝いも欲しいと思っていたので、最初は弟子というよりアシスタントとして、トヨを受け入れたのだった。何よりも、自慢の長い髪をばっさり切ってまで、弟子入りの決意を示した、トヨの心意気に打たれた。
「トヨです。美奈さんのことは先生から聞いてます。よろしくお願いします」
トヨと紹介された女性は四人に名刺を渡して挨拶をした。
「実は私、弟子入りする前、お客として背中に彫りに来たとき、一度美奈さんに会っているんですよ」
「そうなんですか? 私、全然覚えてないです」
「美奈さんがトイレに行こうと、裸で施術室を出てきたときです。あの頃は髪を長く伸ばしていたので、感じが違って見えたかもしれませんが」
トヨがそう説明すると、美奈の記憶がよみがえった。
「ああ、あのときの方ですね。あのときは失礼しました。でも、初めての出会いが、おしっこ漏れちゃう、だなんて、いやだわ、私」
美奈は頬を赤らめた。傍らで聞いていたミドリたちが笑った。
「まだ完成前でしたが、美奈さんの背中を見せてもらって、きれいだな、ととても感動しました。それを見て、やっぱり私が弟子入りする人は卑美子先生しかいない、と思ったものですよ」
「そうですよ。トヨがうちに押しかけてきたのは、美奈ちゃんにも責任の一端があるんですよ」と卑美子は笑いながら横から口をはさんだ。
トヨは今は客の接待を主に行いながら、タトゥーの絵の勉強などをしているそうだ。卑美子が仕事をしているとき、客の許可を取って、卑美子が彫るところを見学させてもらうことも多い。自分の太股などでタトゥーを彫る練習もしているという。
「タトゥーってほんと難しいです。線もきれいに引けず、かすれたり歪んだりするし、色を入れればむらむらだし。先生に憧れてこの世界に飛び込んだけど、私って、タトゥーの才能あるのかしらって、よく不安になります」
トヨは卑美子は普通に絵を描くように、手際よく簡単に彫っているように見えるが、いざ実際自分がやってみると、タトゥーを彫ることがいかに難しいかを話した。
「自分で自分の太股に彫るなんて、痛そう」とルミが顔をしかめながらトヨの話を聞いていた。
「でも、最近トヨはぐんとうまくなってきたので、今は練習台になってくれる人を探して、彫らせてもらっているのですよ」と卑美子が補足した。
「それじゃあ、私、トヨさんに何か彫ってもらおうかしら」と美奈は練習台になることを申し出た。
「だめですよ。先生がきれいに彫ってくれたのに、そのそばに私の拙(つたな)い絵なんて、とても彫れません」
トヨは謙遜して、美奈の申し出を辞退した。
「トヨさんの名前は、やっぱり邪馬台国(やまたいこく)の女王からきているのですか?」と美奈はトヨに尋ねた。
「ええ、そうなんです。卑美子先生の弟子、ということで、卑弥呼の後、女王になった台与(とよ)からつけてもらったんです。でも、美奈さん、歴史詳しいですね」
「いえ、たまたま卑美子先生のことがあって、邪馬台国のことを調べたから知っていただけです」と美奈は謙遜した。
「ミク、というのは美奈さんのお店での名前ですか?」
今度はトヨが美奈の名前のことを話題にした。トヨは美奈たちの仕事について、おおよその察しがついているようだった。
「実は私も先生のところに行く前、同業者だったんですよ。だから、私よりすごいいれずみした人がいる、という噂は聞いてました。それが美奈さんだったんですね」
「難しいことを言ってないで。ここではタトゥーが入っている人は、脱ぐことがルールなんですよ。さあさ、あなたたちも自慢のタトゥーを見せてやってください」
話が一段落ついたところで、卑美子はおどけた言い方で、タトゥーを披露することを勧めた。
周りには多くの男女が下着や水着姿になっていて、タトゥーを披露していた。
「ミク、脱ぎなよ」とルミが促した。
「先輩からどうぞ、脱いでください」
「だめよ。私のタトゥーなんて、ミクに比べると、恥ずかしくって」
「でも、卑美子先生が渾身の力を込めて彫ってくれた蘭の花ですよ」
「何ごたごた言ってるの? 譲り合ったりしないで、二人とも、早く脱いでお披露目しなさいよ」とリーダー格のミドリが命じた。
二人はおどおどしながら服を脱ぎ、水着姿になった。裸にされることを予想して、あらかじめ下着の代わりに、水着を着込んでいた。職業柄、裸になるのは慣れているはずなのに、タトゥーコンベンション会場の熱気に少し物怖じした。
二人が水着姿になると、多くの人の目を引きつけた。
「わ、すげえ」
男も女も美奈の全身のいれずみに引かれ、二人の周りに集まってきた。あちこちでフラッシュが光った。何人もの人が「一緒に写真写させて」と言って、二人と並んだ。
「パンツも脱いじゃって」と注文する人も多かった。
『タトゥーワールド』というタトゥー専門誌の女性カメラマンがやってきて、名刺を渡し、「写させてもらえますか?」と言った。タトゥーワールドは、美奈もときどき買うことがある。ルミもその雑誌を知っていた。日本各地のタトゥーコンベンションの状況をたくさんの写真で紹介していた。
「本に出ちゃうんですか?」
「はい、ぜひ掲載させてください。見事なタトゥーですね。女性では文句なく今日のナンバーワンですよ。卑美子先生の作品ですか」
「はい。私のは全身すべて卑美子先生です。彼女の腰の蘭の花も卑美子先生です」
「あ、これも素晴らしいですね。あなたのもお願いします」とカメラマンの長谷川はルミにも挨拶した。
結局長谷川に押し切られ、二人は他の見物客にじゃまされない場所に連れていかれて、キヤノンのEOS20Dで、何十枚もの写真を撮られた。ミドリとケイも一緒についてきた。
ただ写真を撮られるだけではなく、いろいろインタビューされた。どこで彫ったか、彫ってみてどう思ったか、周りの反応はどうだったか、彫って不便に思ったことはあるのか、これから増やすつもりはあるか、などである。二人の言葉はICレコーダーに記録された。
美奈の背中の写真は、全裸の状態で写された。日本全国に自分のお尻丸出しの写真が出回ってしまうのか、と思うと、さすがに恥ずかしい、という気分になった。
「いいえ、素晴らしい作品だから、全然恥ずかしいことなんてないですよ。本当に見事な作品です。ルミさんの蘭や蝶々もすてきです」と長谷川は二人のタトゥーを賞賛した。
「もしよろしかったら、後日別の場所で撮らせてもらいたいのですが、連絡先を教えてもらえますか?」
長谷川は尋ねた。美奈はどうしようか迷ったが、自分の携帯電話の番号を伝えた。
「すっごーい。ミク、これで全国区ね」とルミが叫んだ。
「私のタトゥーも雑誌に載るよね」
「はい、蘭の花も蝶々も、ぜひとも載せたいです。でも、卑美子先生は素晴らしい才能をお持ちですね。東海地区の女性アーティストの中では、文句なくナンバーワンです。男性彫り師を含めても、間違いなくトップクラスですよ」
ルミの胸の蝶も、有名なアーティストの作品で、素晴らしいですよ、と長谷川が言った。
このコンベンションの記事が載るのは、来年三月中旬発売の号の予定とのことだ。美奈のタトゥーの写真が、家族の目に触れるとまずいとも思ったが、タトゥー専門誌は、まだ限られた読者しかいないので、実家に知られることはないだろう。
雑誌の取材から解放されると、また会場にいた人たちの被写体にされた。ある程度撮影に付き合うと、もう服を着た。会場内は、裸になる人も多いので、暖房がきつかった。服を着ると少し暑い。今度は他のタトゥーを入れている人を見学する側に回った。
時間が経つに従って、観客もだんだん減っていった。
午前五時に会は終了した。しかし一〇月下旬の朝は、まだ暗かった。
歩きながら話していては寒いから、ちょうど通りかかった深夜営業の喫茶店に入った。
「何だか変な気分になっちゃった。タトゥーがあるのが当たり前で、ないと気が引けるような、そんな倒錯の世界に行ったみたい」
喫茶店で落ち着くと、開口一番、ケイが感想を述べた。
「私も小さいの、入れてみようかな。私も入れたくなっちゃった」
ケイはルミや美奈のタトゥーを見ているうちに、自分の肌にもきれいな絵を刻んでみたい、と思うようになっていた。ケイはもともとボディピアスに興味を持っており、タトゥーが好きになる素地はあった。
「私はコンベンションは楽しかったけど、自分に入れようとまでは思わないわ」とミドリが言った。
「入れるともう一生消せないから、よく考えたほうがいいですよ。レーザーで消える、なんてよく言われますが、実質完全には消えませんから」と美奈は注意を促した。一時の勢いで、安易に入れるべきではない、とたしなめた。
「レーザーは傷跡もケロイド状になって残ることもある、といいますしね」とルミが引き継いだ。
「でも、私は絶対後悔しないつもりだけど。まあ、これ以上増やすことはやめたほうがいいかなーとは思ってはいます。今のままで満足してるし。でも、そう言いながらも、思い切って背中一面にやっちゃいたいな、という気持ちがあるのも否定できないかな。私、前から背中に彫るんなら、天女にしようと決めているんです」
「ミクはどう? まだ何か入れる気あるの?」とケイが訊いた。
美奈はこれ以上はもう入れないようにしようかとも考えていたが、もっとたくさん彫ってみたいという気持ちも強かった。タトゥーは一つ入れると、またどんどん増やしたくなってしまう魔性があるとよく言われる。まさに美奈はその魔性に魅入られていた。
ケイに訊かれ、もう一つぐらいは増やしてみてもいいかな、と思った。それで、「そうですね。足首なんかに、何か彫ってみようかな、とも考えていますが」と答えた。
「もし、彫りに行くなら、私も連れてって。ミクが彫ってもらっているとこ、一度見てみたい。ルミは何度か見に行ったんでしょう」
美奈は近いうちに卑美子に予約を入れ、そのときケイも一緒に行くことになった。
「でも、入れるときはその場の勢いでやるんじゃなく、よく考えてからにしてくださいね。入れたら、人生変わっちゃうことだってあり得るんだから。私の場合は子供のころから、ずっと入れたいと思い続けていましたが」
昨日、弥勒山の方に行ったら、珍しくヒグラシがたくさん鳴いていました。それも1匹だけではなく、少なくとも3匹以上いたようです。
先月、南木曽岳

今回は『幻影』第13章です。これでやっと3分の1です。原稿用紙換算では、600枚以上になります。
13
卑美子の一門のタトゥーコンベンションの日が来た。
その日はミドリ、ケイ、ルミ、美奈の四人組は出勤し、仕事が上がった後、一緒にタクシーで栄まで行った。会場のバーの名前を言ったら、運転手は知っていた。有名なバーだそうである。もう一〇月も下旬だった。美奈はつい先日、二一歳の誕生日を迎えたばかりだった。誕生日には、仲のいい三人がささやかなお祝いをしてくれた。美奈の誕生日だけではなく、仲間の誕生日はみんなで食事会をすることにしている。先月はルミの誕生会を行った。ルミの星座は乙女座だ。
地下の会場の入り口でチケットを渡して中に入ると、もわっとする暑さとともに、すさまじい音楽が響いた。CDによる演奏だが、上等なオーディオ機器、とりわけ大きなスピーカーから流されるロックの音響はすさまじかった。
会場にはまだおのおののブースで、タトゥー、刺青の実演をしている彫り師もいた。
「先生、今日はお招きくださり、ありがとうございます」
美奈は卑美子を捜して挨拶した。
「最近、仕事が忙しくなって、なかなかスタジオに挨拶にも行けず、すみません」
「よく来てくれましたね。あ、さくらさんですね。お久しぶり」
卑美子はルミを本名で呼んだ。
「ときどきお仕事見せていただき、ありがとうございました。腰の蘭の花、すごく気に入ってます」とルミも卑美子に挨拶した。
美奈は初めて卑美子に会うミドリとケイを、「お店の先輩です」と紹介した。
卑美子の横に、若い女性がいた。
「こちらは最近アシスタントとしてうちに来ているトヨです」と卑美子はその女性を紹介した。髪が短く、ボーイッシュでかわいい感じの女性だった。ルミや美奈より少し年上、というところだろうか。
トヨは美奈が胸に紫の牡丹を入れてしばらくしてから、弟子として入門した。だからもう入門して、五ヶ月になる。タトゥーの勉強をする傍ら、アシスタントとして卑美子の仕事を手伝っている。
卑美子に弟子入りする前、トヨは卑美子に腕や背中にタトゥーを彫ってもらい、卑美子に憧れて弟子入りを願い出た、という。
卑美子は何度も断ったが、トヨの熱心さに根負けし、また多忙になってきて、電話番や客の接待などの手伝いも欲しいと思っていたので、最初は弟子というよりアシスタントとして、トヨを受け入れたのだった。何よりも、自慢の長い髪をばっさり切ってまで、弟子入りの決意を示した、トヨの心意気に打たれた。
「トヨです。美奈さんのことは先生から聞いてます。よろしくお願いします」
トヨと紹介された女性は四人に名刺を渡して挨拶をした。
「実は私、弟子入りする前、お客として背中に彫りに来たとき、一度美奈さんに会っているんですよ」
「そうなんですか? 私、全然覚えてないです」
「美奈さんがトイレに行こうと、裸で施術室を出てきたときです。あの頃は髪を長く伸ばしていたので、感じが違って見えたかもしれませんが」
トヨがそう説明すると、美奈の記憶がよみがえった。
「ああ、あのときの方ですね。あのときは失礼しました。でも、初めての出会いが、おしっこ漏れちゃう、だなんて、いやだわ、私」
美奈は頬を赤らめた。傍らで聞いていたミドリたちが笑った。
「まだ完成前でしたが、美奈さんの背中を見せてもらって、きれいだな、ととても感動しました。それを見て、やっぱり私が弟子入りする人は卑美子先生しかいない、と思ったものですよ」
「そうですよ。トヨがうちに押しかけてきたのは、美奈ちゃんにも責任の一端があるんですよ」と卑美子は笑いながら横から口をはさんだ。
トヨは今は客の接待を主に行いながら、タトゥーの絵の勉強などをしているそうだ。卑美子が仕事をしているとき、客の許可を取って、卑美子が彫るところを見学させてもらうことも多い。自分の太股などでタトゥーを彫る練習もしているという。
「タトゥーってほんと難しいです。線もきれいに引けず、かすれたり歪んだりするし、色を入れればむらむらだし。先生に憧れてこの世界に飛び込んだけど、私って、タトゥーの才能あるのかしらって、よく不安になります」
トヨは卑美子は普通に絵を描くように、手際よく簡単に彫っているように見えるが、いざ実際自分がやってみると、タトゥーを彫ることがいかに難しいかを話した。
「自分で自分の太股に彫るなんて、痛そう」とルミが顔をしかめながらトヨの話を聞いていた。
「でも、最近トヨはぐんとうまくなってきたので、今は練習台になってくれる人を探して、彫らせてもらっているのですよ」と卑美子が補足した。
「それじゃあ、私、トヨさんに何か彫ってもらおうかしら」と美奈は練習台になることを申し出た。
「だめですよ。先生がきれいに彫ってくれたのに、そのそばに私の拙(つたな)い絵なんて、とても彫れません」
トヨは謙遜して、美奈の申し出を辞退した。
「トヨさんの名前は、やっぱり邪馬台国(やまたいこく)の女王からきているのですか?」と美奈はトヨに尋ねた。
「ええ、そうなんです。卑美子先生の弟子、ということで、卑弥呼の後、女王になった台与(とよ)からつけてもらったんです。でも、美奈さん、歴史詳しいですね」
「いえ、たまたま卑美子先生のことがあって、邪馬台国のことを調べたから知っていただけです」と美奈は謙遜した。
「ミク、というのは美奈さんのお店での名前ですか?」
今度はトヨが美奈の名前のことを話題にした。トヨは美奈たちの仕事について、おおよその察しがついているようだった。
「実は私も先生のところに行く前、同業者だったんですよ。だから、私よりすごいいれずみした人がいる、という噂は聞いてました。それが美奈さんだったんですね」
「難しいことを言ってないで。ここではタトゥーが入っている人は、脱ぐことがルールなんですよ。さあさ、あなたたちも自慢のタトゥーを見せてやってください」
話が一段落ついたところで、卑美子はおどけた言い方で、タトゥーを披露することを勧めた。
周りには多くの男女が下着や水着姿になっていて、タトゥーを披露していた。
「ミク、脱ぎなよ」とルミが促した。
「先輩からどうぞ、脱いでください」
「だめよ。私のタトゥーなんて、ミクに比べると、恥ずかしくって」
「でも、卑美子先生が渾身の力を込めて彫ってくれた蘭の花ですよ」
「何ごたごた言ってるの? 譲り合ったりしないで、二人とも、早く脱いでお披露目しなさいよ」とリーダー格のミドリが命じた。
二人はおどおどしながら服を脱ぎ、水着姿になった。裸にされることを予想して、あらかじめ下着の代わりに、水着を着込んでいた。職業柄、裸になるのは慣れているはずなのに、タトゥーコンベンション会場の熱気に少し物怖じした。
二人が水着姿になると、多くの人の目を引きつけた。
「わ、すげえ」
男も女も美奈の全身のいれずみに引かれ、二人の周りに集まってきた。あちこちでフラッシュが光った。何人もの人が「一緒に写真写させて」と言って、二人と並んだ。
「パンツも脱いじゃって」と注文する人も多かった。
『タトゥーワールド』というタトゥー専門誌の女性カメラマンがやってきて、名刺を渡し、「写させてもらえますか?」と言った。タトゥーワールドは、美奈もときどき買うことがある。ルミもその雑誌を知っていた。日本各地のタトゥーコンベンションの状況をたくさんの写真で紹介していた。
「本に出ちゃうんですか?」
「はい、ぜひ掲載させてください。見事なタトゥーですね。女性では文句なく今日のナンバーワンですよ。卑美子先生の作品ですか」
「はい。私のは全身すべて卑美子先生です。彼女の腰の蘭の花も卑美子先生です」
「あ、これも素晴らしいですね。あなたのもお願いします」とカメラマンの長谷川はルミにも挨拶した。
結局長谷川に押し切られ、二人は他の見物客にじゃまされない場所に連れていかれて、キヤノンのEOS20Dで、何十枚もの写真を撮られた。ミドリとケイも一緒についてきた。
ただ写真を撮られるだけではなく、いろいろインタビューされた。どこで彫ったか、彫ってみてどう思ったか、周りの反応はどうだったか、彫って不便に思ったことはあるのか、これから増やすつもりはあるか、などである。二人の言葉はICレコーダーに記録された。
美奈の背中の写真は、全裸の状態で写された。日本全国に自分のお尻丸出しの写真が出回ってしまうのか、と思うと、さすがに恥ずかしい、という気分になった。
「いいえ、素晴らしい作品だから、全然恥ずかしいことなんてないですよ。本当に見事な作品です。ルミさんの蘭や蝶々もすてきです」と長谷川は二人のタトゥーを賞賛した。
「もしよろしかったら、後日別の場所で撮らせてもらいたいのですが、連絡先を教えてもらえますか?」
長谷川は尋ねた。美奈はどうしようか迷ったが、自分の携帯電話の番号を伝えた。
「すっごーい。ミク、これで全国区ね」とルミが叫んだ。
「私のタトゥーも雑誌に載るよね」
「はい、蘭の花も蝶々も、ぜひとも載せたいです。でも、卑美子先生は素晴らしい才能をお持ちですね。東海地区の女性アーティストの中では、文句なくナンバーワンです。男性彫り師を含めても、間違いなくトップクラスですよ」
ルミの胸の蝶も、有名なアーティストの作品で、素晴らしいですよ、と長谷川が言った。
このコンベンションの記事が載るのは、来年三月中旬発売の号の予定とのことだ。美奈のタトゥーの写真が、家族の目に触れるとまずいとも思ったが、タトゥー専門誌は、まだ限られた読者しかいないので、実家に知られることはないだろう。
雑誌の取材から解放されると、また会場にいた人たちの被写体にされた。ある程度撮影に付き合うと、もう服を着た。会場内は、裸になる人も多いので、暖房がきつかった。服を着ると少し暑い。今度は他のタトゥーを入れている人を見学する側に回った。
時間が経つに従って、観客もだんだん減っていった。
午前五時に会は終了した。しかし一〇月下旬の朝は、まだ暗かった。
歩きながら話していては寒いから、ちょうど通りかかった深夜営業の喫茶店に入った。
「何だか変な気分になっちゃった。タトゥーがあるのが当たり前で、ないと気が引けるような、そんな倒錯の世界に行ったみたい」
喫茶店で落ち着くと、開口一番、ケイが感想を述べた。
「私も小さいの、入れてみようかな。私も入れたくなっちゃった」
ケイはルミや美奈のタトゥーを見ているうちに、自分の肌にもきれいな絵を刻んでみたい、と思うようになっていた。ケイはもともとボディピアスに興味を持っており、タトゥーが好きになる素地はあった。
「私はコンベンションは楽しかったけど、自分に入れようとまでは思わないわ」とミドリが言った。
「入れるともう一生消せないから、よく考えたほうがいいですよ。レーザーで消える、なんてよく言われますが、実質完全には消えませんから」と美奈は注意を促した。一時の勢いで、安易に入れるべきではない、とたしなめた。
「レーザーは傷跡もケロイド状になって残ることもある、といいますしね」とルミが引き継いだ。
「でも、私は絶対後悔しないつもりだけど。まあ、これ以上増やすことはやめたほうがいいかなーとは思ってはいます。今のままで満足してるし。でも、そう言いながらも、思い切って背中一面にやっちゃいたいな、という気持ちがあるのも否定できないかな。私、前から背中に彫るんなら、天女にしようと決めているんです」
「ミクはどう? まだ何か入れる気あるの?」とケイが訊いた。
美奈はこれ以上はもう入れないようにしようかとも考えていたが、もっとたくさん彫ってみたいという気持ちも強かった。タトゥーは一つ入れると、またどんどん増やしたくなってしまう魔性があるとよく言われる。まさに美奈はその魔性に魅入られていた。
ケイに訊かれ、もう一つぐらいは増やしてみてもいいかな、と思った。それで、「そうですね。足首なんかに、何か彫ってみようかな、とも考えていますが」と答えた。
「もし、彫りに行くなら、私も連れてって。ミクが彫ってもらっているとこ、一度見てみたい。ルミは何度か見に行ったんでしょう」
美奈は近いうちに卑美子に予約を入れ、そのときケイも一緒に行くことになった。
「でも、入れるときはその場の勢いでやるんじゃなく、よく考えてからにしてくださいね。入れたら、人生変わっちゃうことだってあり得るんだから。私の場合は子供のころから、ずっと入れたいと思い続けていましたが」