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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

新作

2012-08-11 17:20:59 | 日記
 『幻影2 荒原の墓標』の校正が終わり、新作を手がけています。

 一つは以前にもお話しした『ミッキ』の続編、『ミッキ それから』、もう一つは『永遠の命』です。

 『ミッキ それから』は原稿用紙換算500枚ぐらいの長編になりそうです。『永遠の命』は短編の予定ですが、ひょっとしたら『宇宙旅行』程度の中編になるかもしれません。

 自作のデスクトップパソコンが2台とも壊れたので、今はノートパソコンで執筆をしています。この原稿もノートパソコンで打っています。

 性能としては、昨年春モデルなので、5年以上前の2台よりは高性能で、省電力なのですが、画面が狭く、解像度も低いです。

 自作パソコンだったので、ケースは今までのものを流用し、マザーボードやCPUを最新のものに変えるつもりです。

 本がもう少し売れるまで、作るのを我慢するつもりです。

 次作『幻影2 荒原の墓標』は多少自信作ですので、このブログを読んでくださっている方がもし買ってくださると、とても嬉しいです。9月末発売の予定です。書店にはあまり並ばないので、Amazonなどで注文していただければと思います。


パソコン起動しました

2012-08-10 18:38:08 | 小説
 パソコン、3日ぶりに起動しました。動いたといっても、一時的なことで、またすぐ起動しなくなると思います。前のパソコンもそうでした。基本的には、もう安心しては使えません。いつだめになるか、予想がつきません。ただ、動くうちに、必要なデータだけはバックアップしておこうと思います。重要なデータは、すでにDVDなどに保存してありますが。

 明日から天気が下り坂になるというので、弥勒山などに行きました。最近、年のせいか、以前は短いと思っていた道が、長く感じられるようになりました。弥勒山を内津峠側に下り、すぐのところから、林道に出る道があります。以前は、その道は短く感じましたが、最近はこんなに長い道だったかな、と思うようになりました。

 子供のころ、当時住んでいた家の前の路地が非常に長く感じられましたが、成長してから、こんなに短い道だったのかと思ったことがありました。今はその逆です。

 今回は『幻影』第11章を掲載します。



             11

 加藤は美奈の常連客となった。月に二度は美奈を訪れる。しかし、その後千尋の霊は現れなかった。それで、千尋の死に加藤が関係しているという疑いは、徐々に薄れていった。それに比例して、美奈の加藤への傾倒が大きくなっていった。
 店は客との恋愛を禁じている。美奈もプロのコンパニオンとしての自覚を持ち、仕事は仕事として割り切っていた。だが、なぜか加藤には美奈の堅固なプロ意識でも抵抗できない何かを感じた。魅力というのでもない。加藤より、ずっと魅力がある顧客は何人もいた。セックスパートナーとして、さらに相性がいい男性もいた。にも関わらず、加藤だけに惹かれていった。

 何度目かの来店のとき、加藤は、「ミクちゃん、君はいつまでもこの仕事を続けるつもりか?」と美奈に尋ねた。客からこの種の質問をされたのは初めてだった。
「いつまでも、ということはないですけど。身体もきついし、いつかは辞めて、自分をもっと大切にできる生活を始めたいと思っています。ただ……」
「ただ、なに?」
「こんな全身にいれずみしちゃって、堅気としての生活ができるかどうか。もちろん好きでしたことだから、いれずみしたことは後悔してないけど」
 美奈はつい本音を漏らした。
「よかったら、僕と結婚してくれないか? 僕はうだつが上がらない、しがない公務員だけど、ミクちゃんを平凡な主婦として、幸せにしてあげることぐらいはできると思う」
「加藤さん、公務員なの?」
「ああ、市の行政職員として、市役所に勤めている」
「でも、公務員って、綱紀が厳しいんでしょう? こんな私でもいいの?」
「もちろんさ。僕はミクちゃんの人柄が好きなんだ。こんな商売、あ、ごめんなさい。差別する気はないんだけど、夜の仕事をしている割りには、純情で優しくて。僕はまだそう何度もミクちゃんと会ったわけではないけど、そのぐらいはわかるよ」
「でも私、まだ二〇歳だし、すぐに結婚しようというつもりはないです」
「今すぐにとは言わない。しばらくは恋人として付き合えばいい。当分はこの仕事を続けてくれてもかまわない。でも、これからは店でだけでなく、個人的にも会ってくれないか?」
「でも、お店ではお客さんと店以外のところで付き合うことは、禁じられています」
「君は堅いな。ならば僕はもう店には来ない。店に来なければ、客ではないだろう。それなら、恋人として、大手を振って会えるじゃないか」
「少し考えさせてください」
「ああ、いいですよ。後で僕の電話番号、教えるから、決心ついたら、電話してください。でも、僕を失望させないでくださいよ。これっきりもう連絡なしだなんて。あ、そうそう、僕、加藤と名乗っていたけど、本当の名前は安藤なんだ。安藤茂。普通の安藤に、しげるはくさかんむりの茂。ミクちゃんの本名もよかったら教えてくれないか?」
 美奈は加藤の本名をこのとき知った。そして、美奈も本名を明かした。これまで店の中で、本名を聞いてきた客はいなかった。客はいっときのアバンチュールとして楽しんでいるから、コンパニオンに本名を訊こうとはしなかった。彼らには、ミクちゃんで十分だったのだ。もちろん客が本名など、明かすはずもない。中にはあまり遊び慣れていない人が、つい本名を名乗ってしまうことはあっても、素性を明かすことはしなかった。また、美奈の方からも決して訊かなかった。
 美奈は初めて安藤に唇を許した。これまでプロのコンパニオンとして、セックスはしても、唇だけは許さなかった。身体は許しても、心は許さなかった。
 待機室に戻ると、休憩中だったケイが、「あら、ミク、ご機嫌そうね。さっきのお客さんと何かいいことあったの?」と訊いた。
「え、いえ、別に何も……」
「隠したってだめよ。ミク、すぐ顔に出ちゃうんだから。よっぽどいい思いできたのね。相性ばっちりだったり」
「いやだぁ、ケイさんったら、エッチ」
 ミクは顔を赤らめて、五歳年上の気のいい先輩のお尻を軽くはたいた。
 美奈は気分がよかった。安藤の言葉に酔っていた。本当に結婚してくれるのかしら。結婚なんてことは、つい数十分前までは、まったく頭になかった。全身にいれずみをした風俗業の女が、堅気の男性と結婚できるとは考えていなかった。
 安藤は本気で言ったのだろうか。ただからかっているだけではないのか?
 あまりのぼせていると、あれは冗談だよ、と言われたとき、大きく落ち込んでしまう。まだ仕事中なのだし、気を引き締めていかなければ、と美奈は自分を戒めた。

 仕事を上がってから、「ねえ、ちょっと飲みに行かない?」とケイが仲のいいミドリ、ルミと美奈に声をかけた。
 名古屋駅の近くに、午前三時まで営業しているバーがある。ときどきケイたちは仕事が終わってから、そこに飲みに行く。美奈もあまり飲めなくても、みんなと話す雰囲気が好きで、よく一緒について行く。最近は勤務終了後、四人で終夜営業のファミレスに行くことも多くなってきた。
「今日はミクにいいことがあったみたいだから、何があったのか、白状させないと」
「そんなことじゃないんですぅ」
「はは、赤くなってる。ミクは隠し事しても、すぐ顔に出るからだめだよ」とルミが言った。
 四人はタクシーで名古屋駅前の馴染みのバーに向かった。まだ一時過ぎだから、二時間近くは話ができる。
 四人は席に案内された。美奈は甘い酒が好きなので、いつもフルーツ果汁入りの酎ハイなどを頼む。ビールは苦みが合わなかった。他の三人も思い思いの酒を注文した。
「さて、今日は何があったの?」とさっそくケイが話を切り出した。
「相性抜群のお客さんと、天国に行っちゃったとか?」と言って、ミドリはアハハと笑った。四人のうちではミドリが最年長で二七歳だった。ケイは二五歳、ルミは二二歳だ。二〇歳の美奈はいちばん年下である。
 面長で一七〇センチを超える長身のケイに対し、ミドリは丸顔で、肉付きのいい体格をしていた。ルミは美奈と同じように、小柄だった。ルミのほうが少し背が高い。
 美奈はオアシスでは、この三人の先輩と特に仲がいい。入店後一年半足らずでトップクラスの指名数を得られるようになったミクは、先輩のコンパニオンたちに妬まれることも多かった。背中に騎龍観音のいれずみを入れてから、陰で「メガネ観音」と蔑まれて呼ばれることもあった。
 その中でも、この三人はミクをかわいがってくれた。初めての出勤の日、最初に会ったマキとも仲がよかったが、マキは半年ほど前に店を辞めていた。
 三人の先輩にいろいろ問い詰められ、とうとう美奈は、お客さんから結婚してくれないか、と言われたことを白状した。酒にも酔ってきた。
「ああ、やっぱりね。そんなことかと思ったわ」
「でも、そんな話、真に受けちゃあ、だめ」
「あんた、からかわれてんのよ。下手に引っかかると、もてあそばれて、さんざん貢がされて、それでポイ、よ。ソープレディーはお金を貯めてる、と思われてるから」
「お客さんとは、絶対にだめとは言わないけど、よく考えなきゃだめだよ。やっぱり、恋愛相手は、商売とは関係ないところで探したほうがいいよ」
 みんなは口々に言った。
「ミドリったら、郷里の静岡に熱々の彼氏がいるのよ。知ってた? その人も仕事と関係ないところで見つけたんだから」とケイがすっぱ抜いた。
「そんなこと、ここで出さないでよ」
 ミドリがちょっと顔を赤らめた。
「とにかく何かあったら、私たちに絶対相談してね。ミクはこの業界に入って、まだ一年半も経ってないんだから、怖さが十分わかってないのよ。全身にいれずみがあるから、結婚は難しいかな、なんてミク、よく言っているけど、それで甘い結婚という言葉についふらふら、と来ちゃったんじゃない?」と経験がいちばん長いミドリが助言した。オアシスではケイもミドリとほぼ同期だが、ミドリには以前に、他店で働いていた経験があった。
「ありがとうございます。そうですよね。まだ五回しか会ったことがないお客さんなのだし、どういう人かわからないのに、のぼせちゃった私が馬鹿でした。しっかりしなきゃ」
「そうそう、しっかりしなきゃね。本当に、この業界のことは私たちのほうがよく知っているんだから、やばそうなことがあったら、絶対言ってね。それから、店長にはこんなこと言えないけど、玲奈さんなら信頼できる人だから、私たちでは手に負えないときは、玲奈さんに相談するのがいいよ」
 ケイのその言葉が結論となり、この話題はそれまでとなった。後は酒をすすり、軽い食事をしながら、閉店まで取り留めのない話になった。

 バーを出た後、四人は二四時間営業の喫茶店に行った。七月の夜明けは早かった。梅雨の真っ最中の時季だが、この日は晴れていた。美奈も飲酒したので、車の運転ができず、中央本線の始発の時間まで待って、電車で帰ることにした。車は店の近くに借りている駐車場に置いておけばよい。

 自宅に戻った美奈は、ざっとシャワーを浴びてから、すぐ布団に潜った。そのまま昼近くまで眠っていた。起きてから、またシャワーを浴びた。少し頭がふらふらした。二日酔いかしら。私もすっかりオヤジギャルしているな、と古い言葉で自嘲した。
 その日は日曜日で、もうしばらくしたら出勤しなければならない。美奈は平日は火曜日、木曜日に出勤している。土日は続けて勤務だった。隔週で金曜日にも出勤しているので、そうなると四日連続の勤務となる。
 昨夜は車を店の近くの駐車場に置いてきてしまったので、今日は電車で通勤する必要があった。出勤する頃には、雨が降り出していた。

 その夜だった。久しぶりに千尋の霊が現れた。今度も何も言わず、悲しそうな顔をして、ときどきだめだめ、と言うように首を振っていた。
 千尋の霊に対する恐怖感はまったくなかったが、いったい千尋は何を訴えたいのだろうか、わからなかった。自動車事故から助けてくれたときは、はっきりと「危ないからスピードを落としなさい」と頭に響くように言ったのだ。これはテレパシーというものかもしれないけれど、千尋は何もしゃべれないわけではないはずだ。
「もし何か伝えたいことがあれば、言ってください」と美奈は頭の中で話しかけたが、千尋はただ悲しそうな顔でときどき首を横に振るだけだった。しかし、目は明らかに何かを訴えたがっていた。
 しばらくして、千尋は消えた。
 ひょっとして安藤と何か関係があるのだろうか。安藤から結婚の話をされたのは一昨日だった。だが昨夜は四人で飲みに行き、眠っていないので、今夜何かを告げたくて現れたのかもしれない。安藤が付き合っていた赤いバラのタトゥーの女性とは、やはり千尋のことなのだろうか。私に以前の恋人だった安藤さんと付き合わないでほしい、と言っているのだろうか、と美奈は考えた。

またパソコン壊れました

2012-08-07 14:21:05 | 小説
 以前、執筆用のパソコンが壊れ、古いパソコンを復活させたということを書きましたが、その古いパソコンも壊れました。症状は前と同じで、カラカラ音がして、BIOSの表示画面で何度でもリセットがかかります。新作の構想をしようと、パソコンのスイッチを入れましたが、何度もリセットして、ついに起動しませんでした

 大事なデータはDVDやUSBメモリー、ノートパソコンにバックアップを取ってあるので、大丈夫ですが。

 昨夜は夕立があったおかげか、久々に室温が30℃を切り、明け方29℃でした。ぐっすり眠れました。でも、それでも25℃の熱帯夜の基準をはるかに超えてますね


 今回は『幻影』第10章を掲載します。霊と客の加藤の関係がどうなのか、少しずつ物語が動いていきます。





           10

 最近ミクの人気が上がり、店のナンバーワンの座をも窺わんとする位置に立っていた。ミクに関しては、タトゥーはマイナスにはならなかった。タトゥーはミクの大きな武器になっていたが、それ以上にミクの人柄が好かれたのだった。
 また、ときにはメガネが役に立つこともある。メガネ男子、メガネ女子、という言葉が流行したせいか、接客のとき、たまにメガネをかけた女性を相手にしたい、と希望する客がいる。ふとしたきっかけで、実は私、強度の近視なんです、と客に告白することがある。すると、中には接待のときにはメガネをかけてみて、という男性もいる。インテリっぽい真面目な女の子がタトゥーをしているのが、ミスマッチで楽しいのだそうだ。そのときはメガネもアイテムとして利用する。だから美奈がよく使用する個室には、小道具として以前使用していたメタルフレームと、赤縁の二つのメガネが置いてある。
 指名客が増え、収入はいちだんと増えたが、身体もきつかった。
 ナンバーワンコンパニオンになるより、仕事が楽になるほうがいい、と考えることもある。
 しかし生真面目な美奈は、仕事に手を抜くことをしないので、客の評価はますます高まった。

 先ほど接客を終え、オアシスの待機室で休憩していたら、フロントの沢村から、「ミクちゃん、ご指名だよ。加藤さん」と連絡が入った。
「立て続けでご苦労さんだけど、三〇分ぐらいで来れるそうだから、準備しておいてね」
 指名してくれたのは加藤だった。
「加藤さん、ご指名、ありがとうございます。よろしくお願いします」
 ミクは加藤の左腕を取り、しなだれかかるような仕草で、個室まで案内した。
「ご覧の通り、私、最近新しいタトゥーを入れたんです。胸に、紫紺の牡丹です」
 個室へ行くまでの間に、ミクは前回加藤に会った翌日に、新しいタトゥーを入れたことを話した。
 最近ミクは店ではコンタクトレンズをつけていない。店内は照明が抑えてあり、薄暗く、よく見えないが、もう十分慣れているので、あまり不便は感じなかった。
 部屋に入ると加藤は開口一番、「ミクちゃん、その胸の牡丹、似合ってるよ」と褒めた。
「ミクちゃんには赤が似合うと思ったけど、紫も渋くていいよ」
「たとえお世辞でも、うれしいです」
「お世辞なもんか。赤だとかわいい、って感じだけど、紫はシックな雰囲気だ。昔付き合っていた子は、胸に赤いバラを入れていたけど」
「あら、加藤さんのモトカノ、タトゥーしてたんですか?」
「あ、いらんこと言っちゃった。今のは忘れてくれ。今の僕にはミクちゃんが最高なんだから、昔の彼女の話なんか、今の雰囲気にはそぐわないよ。わるかった」
 加藤とは二度目であったが、彼に対し、前回感じなかったフィーリングのよさを感じた。
 美奈は接客のとき、仕事とは割り切れず、つい相手に感情移入してしまうことが多い。それが店のナンバーワンを窺うミクの人気の秘密であった。しかしそれは個室の中だけのことであり、外までそれを持ち越すことはしなかった。だが、加藤に対しては淡い危険信号を感じた。ひょっとしたら、これは恋愛感情にまで高まってしまうのではないかという。
 美奈も年頃の女性であり、優しい恋人が欲しい、すてきな恋愛をしてみたい、と思う。それでも仕事と恋愛は切り離して考えたかった。だから仕事上の接待客とは、店外では恋愛感情を持たないよう、自分に戒めていた。それは原則的には客との恋愛を禁じる店の方針でもあった。客はあくまで客であり、決して恋愛対象ではなかった。
 美奈は加藤に惹かれそうになる自分を叱った。

 オアシスの営業時間は午前〇時までだった。しかし仕事がそれまでに終わる、ということではない。閉店間際に指名が入れば、営業時間終了後でも、接客が終わるまで縛られる。それがダブルともなれば、店をあがるのは、午前一時過ぎになる。
 愛車の赤いミラを運転し、家に着くのは、遅いときには夜中の三時近くになってしまう。
 最近美奈は、ぐっすり眠るため、少しだけ酒をたしなむようになった。ときどき仲がいいミドリたちに、飲みに行こうと誘われることもあるが、家で飲むのは仕事があった日のみにしている。仕事でけっこう無理をしている身体なので、肝臓をいたわるためにも、公休日は飲まないようにしている。

 その日も家に着いたのは夜中の二時近かった。接客で何度も入浴するので、仕事があった日は、よほど汗でもかかなければ、もう風呂には入らない。少しだけワインを飲んで、歯磨きしたら、ベッドに入る。空腹のときは、軽く菓子などをつまむこともある。
 うとうとしかけたときだった。胸に何かが覆い被さったような、胸苦しさを感じた。そして金縛り。
「千尋さん?」と美奈は声を出した。前に命を助けられているので、恐怖は感じなかった。足元が白くぼんやり光り、そしていつものように千尋が現れた。胸より下はぼんやりしているが、胸の赤いバラのタトゥーは、はっきり見える。
 千尋は何か言いたげな顔をしていた。
「千尋さん、何なの? 何か言いたいことがあるの?」美奈は問いかけた。
 しかし千尋は何も言わなかった。この前は頭の中に、「危ないから、スピードを落としなさい」という声が響いた。はっきりした女性の声だった。それは頭の中に直接語りかけた声であり、耳から届いた声ではなかった。
 今回も何か千尋からメッセージがあるかと待っていたが、何も聞こえてこなかった。最初に現れたときは悲しそうな顔をしていた。その次は、助けてくれたことにお礼を言うと、にっこり笑って消えていった。そして今日は何か言いたげな、それでいて悲しそうな表情だった。
 赤いバラのタトゥーの印象がなぜか鮮明に脳裏に焼き付いていた。
 赤いバラから、千尋の背中の騎龍観音を連想した。腕や太股にかけての牡丹の花はないが、図柄はほとんど美奈と同じだ。龍の胴体は、卑美子が手描きで、直接肌に下絵を描いたので、多少の違いがあるが、ざっと見ただけでは、ほとんど違いはわからなかった。
 一度幽霊になった千尋の背中も見てみたいと思った。幽霊のタトゥーを見る、というのも、おかしな感じがするのだが。
 そういえば、加藤が以前付き合っていた女性にも、胸に赤いバラが彫ってあったと言っていた。そう思い出した瞬間、頭に電流が流れたような感じがした。
 初めて千尋が美奈の前に現れたのは、最初に加藤を接客した日の夜中だった。そして今日、正確に言えばもう昨日になるが、加藤を接客した。加藤が以前付き合っていた女性には、胸に赤いバラがあったという。
「ひょっとして、加藤さんが前に付き合っていた人とは、千尋さんのことではないかしら」
 最近タトゥーも若い女性にファッションとして受け入れられ、気軽に入れられるようになってきている。胸に赤いバラを入れている女性も少なくはないだろう。だからそれが千尋だと断定することはできない。でも、加藤を接客した後、二度とも千尋が現れた、という現実は無視できない。まさか、千尋の死と加藤は、何か関係があるのではなかろうか? 千尋はそのことを言いたかったのではないだろうか?
「千尋さん、あなたが言いたいことは、そのことなの?」
 美奈は心の中で千尋に問いかけた。しかし千尋は何も答えなかった。ただ、悲しそうな顔をしていた。やがて千尋の姿は消えた。

雷雨

2012-08-06 21:07:23 | 日記
 今日の午後、久しぶりに雷雨がありました。かなり激しい雷雨で、夜のNHKのニュースで、名古屋と春日井の様子を紹介していました。ローカルではなく、全国のニュースです。

 あれだけ雨が降り、熱せられた屋上が雨で冷やされ、少し涼しくなりました。

 このところ連日、夜中でも30℃を大きく上回っていたから、寝苦しくて寝不足気味でした。今夜は久しぶりによく眠れるかもしれません

 ちなみに今の部屋の温度は30.4℃で、夜中は30℃を下回りそうです。それでも25℃をはるかに上回る熱帯夜でしょうが

ハンミョウ

2012-08-02 19:10:39 | 小説
 今回は『幻影』第9章を掲載します。

 この部分には“ハンミョウ”という昆虫が登場します。ミドリっぽい金属的な光沢がある、美しい虫です。ハンミョウは、人が歩いて行く方向に飛んで逃げていき、まるでおいでおいでをしているように見えます。それで、“ミチシルベ”とか“ミチオシエ”といわれるようです。

 『幻影』の本の表紙カバーは、出版社より依頼を受け、私が写した写真を使うことになりました。そのために、物語の舞台になったところを写真を写しに回りました。『ミッキ』と『幻影2 荒原の墓標』の表紙カバーは私がイラストを描きました

 担当者から、物語に出てくるハンミョウなんかどうですか、とアドバイスをされ、さっそくみろくの森にカメラを持って行ったのですが、結局出会うことができませんでした

 その後何十回とみろくの森を歩きましたが、一度もハンミョウを見ていません。写真を撮るために行った前年までは、よく見かけましたが、その後全く見られなくなりました。いったいどうなってしまったのでしょうか?

 結局、表紙カバーの写真は、知多半島の野間大坊の近くの、漁村の夕暮れ風景を使いました。出版社の方が選んだのですが、『幻影』のタイトルにはよく合っていると思います。
 
 カメラのことですが、この前、弥勒山に登ったとき、水を飲もうと立ち止まったら、たくさんのかんす(名古屋弁で蚊のことです)に襲われ、追い払おうとしたとき、うっかり愛用のオリンパスE-500を落とらかいて(落として)しまいました

 一瞬青くなりましたが、レンズや本体に少し傷をつけてしまったとはいえ、動作に問題はありませんでした。もう6年ほど使っている古いカメラですが、使いやすいのでまだまだ現役で使っています



             


 翌日、美奈は珍しく早朝に目を覚ました。オアシスでの勤務で夜遅くなるので、最近美奈は朝寝坊になっていた。マルニシ商会に勤めていたころは、朝は六時に起床していた。もう体調は戻っていた。昨日はあまり食べていなかったから、朝、目が覚めたとき、ひどい空腹を感じた。すぐにトーストと野菜サラダで朝食を摂った。
 何となく気分がよかった。時間も早いし、久しぶりに近くの山に登ってみようと思った。
 ザックにコッフェル、ガスストーブ、水と食料などを詰めて、美奈は出発した。
 山といっても、玄関を出て、歩いて四〇分で登山口の細野キャンプ場に着く。それから登り始め、春日井市の最高峰、標高四三七メートルの弥勒山(みろくさん)の山頂を踏んで、家に帰るまで、四時間を見込んでおけば十分だった。登山口まで車を使えば、さらに一時間短縮できる。
 途中、登山道を歩いているとき、小さなハエのような虫が、一〇匹以上も顔の周りにまとわりつくのが鬱陶しかった。この虫には防虫スプレーはあまり効果がなかった。インターネットで調べたら、メマトイという小さなハエのようだった。メマトイというのは、そういう名称の虫がいるのではなく、顔の周りをうるさく飛び回る、小型のショウジョウバエ科のハエの総称だそうだ。メマトイが顔の周りにまとわりつくのは、涙の中のタンパク質を舐めるためだという。目に入ると、東洋眼虫という寄生虫を媒介されることがあるので、注意が必要だ。メガネはメマトイが目に入るのを、ある程度防ぐ効果がある。
 以前、深呼吸したとき、鼻孔からメマトイが入り込み、びっくりしたことがあった。すぐ鼻をかんだが、虫は出てこなかった。ハエのような虫が気管の中に入り込み、後から体調を崩したりしないかしら、と不安になった。しばらくして口の中に異物を感じたので、ティッシュペーパーに吐き出したら、先ほど鼻孔から吸い込んだメマトイだった。そのときはちょっといやな気分になった。
 鬱陶しい虫さえいなければ、つい鼻歌でも歌い出してしまいそうな、快適な山歩きだ。歩いているとけっこう汗をかく。ときには思いっきり汗をかくのも気持ちいい。細野キャンプ場がある登山口から、沢に沿って、おおたに大谷やま山手前の鞍部に出る。そこから大谷山四二五メートルを越えて弥勒山に向かう。稜線まで出ると、顔につきまとうメマトイもぐっと少なくなってくる。樹林であまり眺望はないコースだが、緑の中を歩くのは、楽しかった。
 もう少し早い時期なら、稜線上のあちこちで、ギフチョウが優雅に舞っている姿を見ることができた。
 弥勒山登頂の道は少し急な登りだ。階段状になっていて、一定の歩幅を強制されるのが辛い。美奈は階段を避けるため、なるべく道の端の方を歩き、自分のステップを確保した。
 頂上は絶景とまではいかなくても、かなり景色がいい。空の透明度がいい冬の日には、真っ白に雪化粧をした白山、乗鞍、御岳、中央アルプス連峰、恵那山などを望むことができる。南アルプスは主要な山が、ちょうど恵那山の大きな山体に隠されてしまって、南部の山並みしか見ることができない。
 弥勒山頂の四阿(あずまや)からは、名古屋方面を始め、広大な濃尾平野が望める。名古屋駅方面の高層ビル群も手に取るようだ。平野の向こうは鈴鹿山脈、養老の山並み、伊吹山、さらには遠く奥美濃の山々までが一望の下だ。午後になると、伊勢湾が日光を反射してきらきら輝くので、そこが海だと知れる。美奈は山に行くとき、いつも携帯している高倍率ズームのデジタルカメラを取り出して、何枚も写真を撮った。
 ただ、その日は霞がかかっていて、遠くの山並みがあまりよく見えなかった。
 平日にもかかわらず、弥勒山の頂上には、中高年の登山者が多い。仕事を定年などで辞めた後、趣味として登山を楽しむ人には、手軽に登れる山だった。道樹山(どうじゅさん)から大谷山を経て、弥勒山に至るコースは、樹林の中で、あまり展望には恵まれないとはいえ、安全で自然が多く残っており、歩いていて楽しいコースだ。
 弥勒山の頂上でガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れて飲む。持参したスナック菓子や果物をつまむ。これがまた楽しかった。水が多い時期には、途中の沢の水を沸かしてコーヒーを淹れることもある。
 帰りは弥勒山を通り越してしばらく下った道を左に折れ、数分下って、林道に出た。
 大きな休憩所を過ごして歩いていくと、先ほど登った弥勒山を見上げる地点に着いた。頂上にある四阿が見える。低山とはいえ、堂々とした山容だ。
 五年前の東海豪雨で弥勒山の山肌の一部が崩落した。山頂付近から広範囲に樹木が削り取られ、痛々しい爪痕を残した。その後、植林などの復旧工事が行われた。今ではずいぶん樹林が生長し、豪雨の傷跡もあまり目につかなくなった。
 林道を歩いていると、ときどき金属のような光沢がある、きれいな虫に出会った。身体が緑や黒、オレンジ色などに輝いている。その虫に近づくと、なぜか美奈が歩いていこうとする方向に飛んでいく。まるでおいでおいでをしているようだ。ハンミョウという名前の昆虫で、道を歩いている人の道案内をしているようなので、みちしるべともいうそうだ。
 朝早く家を出れば、午前中に家に戻ることができ、一日が有効に使える。しかし、暑い時季なので、家に着くと汗だくだ。ちょっと汗くさいので、シャワーを浴びて、着替えをした。美奈は女性であるだけに、体臭にはかなり気を遣っていた。そのとき、胸の牡丹の花を、そっとシャワーの水で洗ってやった。まだ彫って二日しか経っていないので、少しじゅくじゅくしている。明日には乾燥するだろう。

少し前、美奈は仲がいい、ミドリ、ケイ、ルミを誘って、四人の公休日に、猿投山(さなげやま)に登山をした。
 勤務を終えた四人は、高蔵寺の美奈の家に泊まった。
 翌朝、美奈の車で麓の雲興寺(うんこうじ)まで行き、そこから頂上を往復した。途中、コンビニに寄って、弁当や菓子、飲み物を買った。
 美奈としては初歩的な山と思い、猿投山を選んだのだが、他の三人にはきつかったようだ。最初は弥勒山を始めとする、多治見との県境の山にしておけばよかったと、後悔もした。そちらの山のほうが、歩く距離も短く、登りも楽だ。せっかく登山の楽しさを知ってもらおうと思って、猿投山に誘ったのに、苦しい、辛いという思い出しか残らなかったら、残念だ。
 美奈は猿投山は何十回も登り、幾種類もの登山道を知っている。この日は東海自然歩道のコースになっている登山道より、短くて楽な道を選んだ。
 駐車場で、最初にストレッチなど、簡単な準備運動をした。雲興寺の近くの登山口から登り始め、しばらく沢沿いの急な道を登った。山頂付近の休憩所に着いたら、美奈以外の三人が、「ここでちょっと休もう」と言って、座り込んでしまった。コンビニで買った飲み物を飲みながら、菓子をつまんだ。
 それから下りの道が続いた。せっかく稼いだ高度を、どんどん下ってしまう。
「頂上って、まだずっと先でしょう? せっかく登ったのに、また降りちゃうの?」
 美奈のすぐ後ろを歩いていたミドリが、不満げに言った。
「すみません。今日のコース、けっこう上り下りがあるんです。でも、こんなに下るのはここだけですから」
 美奈はコース上に一山越えがあるのは自分の責任かのように謝った。
 下りきったところに大きなトイレがあったので、交替で用を済ませた。
 この先、右に行けば東海自然歩道の正規のコースとなる。しかし美奈は逆の方向へ歩いた。自然歩道のルートは大回りになるので、美奈が知っている何種類ものルートのうち、いちばん短いルートを採用した。それでも最初にミドリが、それからケイがへばってしまった。元気だったルミも途中で音をあげた。
 みんなを励ましながら、美奈は歩いた。ときどき休憩してはおやつを配った。
 美奈の赤いザックは、山頂でカップ麺やコーヒーを作るため、四人分の水を運び、かなり重かった。歩く予定のコースには、水場がなかった。
 休憩のとき、ケイはずっしりと重い美奈のザックを持ってみて、驚いた。
「ミク、あんた、こんな重いザックを持ってたの? 華奢(きゃしゃ)に見えるのに、強いのねえ。小さな身体の、どこからそんなパワーが出るのかしら。やっぱり安産型のこの大きなお尻かな。なんといっても、龍がいるんだから」と、龍の頭が入っている美奈のお尻を軽くたたいて、感心した。
「いや、ケイさんのエッチ」と美奈は笑いながら抗議した。
 ミドリとルミも美奈のザックを持ってびっくりした。
「ミクはこんな重いザック背負っているんだもん。私たちだって、頑張らないとね」
 ケイが二人を励ました。
 標高六二九メートルの猿投山の山頂は、樹林に覆われ、展望はなかった。それでも、みんなは登頂を喜び合った。汗だくの身体に、風が心地よかった。三脚とセルフタイマーを利用して、美奈のデジタルカメラで、四人の登頂記念写真を撮った。
 山頂のテーブルで美奈は湯を沸かし、カップラーメンやコーヒーを作った。山で飲む本格的なコーヒーに、みんな喜んでくれた。
「せっかく山で運動したのに、おなかが空いて、たくさん食べちゃう。こんなに食べたんじゃ、ダイエットにならないや」
 体重を気にしているミドリがぼやいた。
「登山でダイエット、なんて考えると、やっぱり辛いから、まずは山を楽しむ、という気持ちで登るのがいいですよ。食べるのも楽しみの一つですから。運動しているから、食べてもそんなに太ることはないですし」
 美奈は登山を楽しむことを強調した。
「そうよね。せっかくおいしく食べられるんだから、食べることも楽しまなくっちゃ」
 食べることが大好きなルミが賛成した。
しばらく食事やコーヒータイムで英気を養った。
 休憩の後、荷物を頂上に置いたまま、東の宮まで往復した。頂上から東の宮までは、一五分の道のりだ。途中にカエルにそっくりな形をした、大きな岩があった。
東の宮の裏の、こんもりと高くなっている山頂は、頂上より二メートル高い、猿投山の最高地点だった。
 四人はせっかく来たのだからと、ほんの一登りで到達できる、最高地点に立った。樹木に囲まれて、まったく眺望がきかないが、最高地点に立っただけで四人は満足だった。
 もう少し先に、展望がいい場所がある、と美奈はみんなを誘ったが、三人とも、今日はここまでにしよう、と乗り気ではなかった。
 下りは登りより足を痛めたり、転倒したりしやすいので、美奈は注意を促した。美奈は下りのときに、安定した歩き方ができる姿勢などを示して見せた。また、下りはゆっくりと、歩幅を小さくして歩くよう指導した。
 帰路は正規の東海自然歩道を歩いたので、行きよりは少し遠回りになった。
 最後に、疲れた筋肉を解きほぐすために、軽くストレッチ運動をした。
 下山後、みんなは「疲れたけど、楽しかった。また誘ってね。ミク、一人で重い荷物を背負って、本当にご苦労様」とねぎらってくれ、美奈は山に連れてきてよかったと思った。
「日頃、いかに運動不足か、よくわかったわ。たまには山にでも登らなきゃね。私の郷里の静岡は、高い山がいっぱいあるけど、自分の足で登ったことがないから」と、四人の中でいちばん年長のミドリが言った。
 美奈はみんなを車で家まで送る、と申し出た。しかし、三人は、ミクも疲れているのだから、瀬戸の駅まででいいよ、と美奈を気遣った。美奈は三人を名鉄尾張瀬戸駅で降ろした。
 翌日、店で会ったとき、三人は足が痛いと言っていた。
「翌日すぐ痛くなるのは、若い証拠ですよ」と美奈は三人に言ってやった。

 弥勒山から戻って少し休憩してから、店に電話して、「昨日休んだので、今日代わりに出勤しましょうか?」と尋ねたところ、店長が出て、「やあ、ミクちゃんか。身体はもういいのかね。出てもらえるのなら、助かるよ」と言った。
「では、いつもの遅番のシフトで入ります」
 美奈は軽く食事を済ませて、すぐに車で家を出た。まだ早いのだが、千尋が住んでいたマンションに寄ってみるつもりだった。
 そのマンションはすぐ見つかった。
 千尋が住んでいた部屋を訪問すると、やはり家主の名前は違っていた。
 インターホンのチャイムボタンを押すと、スピーカー越しに、「何の用ですか?」と女性の声に問われた。
「私、木原というものですが、今日は突然お伺いして、申し訳ありません。この部屋、お宅様の前に、橋本さんという方が住んでいたと思うのですが、その方、どこに行かれたかご存じありませんか?」
「さあ、うちは不動産屋さんから聞いてこのマンションを紹介してもらったので、前の住人のことは知りませんね。そういうことは、管理人さんにでも訊いてください」
 新しい住人の女性が答えた。
「その管理人さんは、どちらにみえますか」
「このマンションの一階の、一〇一号室ですよ」
「ありがとうございました」
 美奈はその部屋の主婦に礼を言った。
 美奈はその階の他の部屋も回ってみた。しかし留守なのか、どの部屋もインターホンを押しても、反応がなかった。美奈は一階の管理人室に向かった。
 六〇歳過ぎぐらいの女性の管理人に尋ねると、「橋本さんですか。あのきれいな人ですね。確かにいましたが、二年近く前に引っ越しましたよ。結婚でもされたんじゃないですか? 男がいる、という噂も聞きましたから」と答えた。
「どちらに越されたか、わかりませんか?」
「さあ、特に行き先は聞いていませんからね」
「男の人がいる、ということですが、どんな方かご存じないですか?」
「さあね。わたしゃ、噂を聞いただけで、会ったわけじゃあありませんからね。橋本さんの部屋は五階だったから、その男と一緒に部屋に入るところを見たわけじゃないし、二人が一緒に歩いている場面を見たわけでもないからね」
「引っ越したときに頼んだ運送屋さんはわかりませんか?」
「そんなことまで、いちいち覚えてませんよ。一年半以上も前のことですからね」
 管理人は自分の怠慢ではない、と弁解しているような口ぶりだった。
 運送屋がわかれば、一年半ほど前に引っ越した橋本さんの転居先を教えてもらえませんか、と問い合わせることができるかもしれない。
 しかし、今はプライバシー問題がやかましく、警察や弁護士でもなければ、教えてもらえない可能性は高い。区役所に問い合わせても、同じことだろう。今は住民票などを、第三者には閲覧させてくれないと聞いている。美奈は千尋の勤めていた会社名を管理人に尋ねたが、知らないと突っぱねられた。主人なら聞いていたと思うけど、今は外出をしている、とのことだ。捜査権のない素人の限界、というところか。
「そういえば、橋本さんは引っ越すから、家具はもういらなくなるので、何か欲しいものがあれば、持っていってくれ、と言ってましたね。私や近くの部屋の人で、テレビとか冷蔵庫とかステレオなんかをもらいました。まだ新しくて、十分使えるものでしたよ。だから、引っ越しのとき、荷物はそんなになかったんじゃないのかな」
 これではまったくらち埒があかなかった。まもなく出勤の時間なので、今日はこれまでにして引き上げることにした。

 オアシスに行ったら、ケイとルミは公休日だが、ミドリが出勤していた。
「あら、ミク、今日は休みの日じゃなかった? 昨日具合がわるいと聞いたけど、大丈夫なの?」とミドリは気遣った。
「ありがとうございます。もうよくなったので、昨日の代わりに出勤しました」
 勤務時の衣装に着替えると、胸の新しい紫紺の牡丹が目立ってしまった。これまで胸には何も入っていなかったので、余計目についた。
「まあ、また新しいタトゥーを入れたのね」とミドリが間近に来て、美奈の左乳房に描かれた牡丹を見つめた。まだ針を刺した傷が十分治癒していなくて、本来の美しさからは程遠かった。

 その後しばらく、千尋の幽霊は現れなかった。