最近は梅雨のような天気です。一昨日から昨日にかけては、近畿から東海にかけて大雨
で、大きな被害もありました。
うちの近くも、一昨日の夜、すごい雷
で、何度も間近で落雷があり、大音響が鳴り響きました
。
まだしばらく不安定な天気が続くということで、南木曽岳
のリベンジに行くのはまだ先になりそうです。先月、取材で行った南木曽岳は、大変辛い目に遭ったので、今度は楽しい
登山にしたいと思っています。
今回は『幻影』第12章です。
12
久しぶりに卑美子から電話があった。一〇月下旬に、卑美子が所属する彫波一門でタトゥーコンベンションを行うので、見に来ないか、という誘いだった。タトゥー雑誌ではよく全国各地のタトゥーコンベンションの模様を紹介し、美奈もそれらの記事を何度も読んでいるが、参加したことはなかった。おもしろそうなので、一度見てみたいとは思っていた。一〇月下旬といえば、まだずいぶんと先のことだ。
その日は日曜日で、仕事がある、と言ったら、明け方までやっているから、仕事が終わってから来るといい、と卑美子は答えた。もしよかったら、お店の人でタトゥーに興味がある人も誘ったらどうか、と卑美子は言った。
「さくらちゃんもコンベンション、興味を持っているんじゃないですか。来る人の分、チケット用意しておきますから、早めに人数教えてくださいね」
さくらとはルミの本名である。美奈は卑美子が親友のルミのことも配慮してくれたことがうれしかった。
タトゥーコンベンションの話をすると、ルミだけでなく、ミドリとケイも行ってみたい、と言った。日曜日は四人とも出勤だから、仕事が終わったら一緒に行きましょう、ということになった。場所は栄のバーを借り切って行うとのことだった。
「はい、ミクちゃん、ご指名だよ」
接客が済んで、待機室に戻ろうとしたとき、フロントの沢村から声がかかった。電話で予約があったそうだ。
「加藤さん。ちょうど接客中だったから、八時半からになると言っておきました。それまでしばらく休んでいてね」
沢村は予約の時間を少し遅めにして、休憩の時間を与えてくれた。沢村はコンパニオンに対し、いろいろ配慮してくれるので、コンパニオンたちの間で、評判がよかった。
「加藤さんって、安藤さんのことね」と美奈は声に出さずに呟いた。
客との個人的付き合いがだめなら、もう客としては来ないから、電話してほしい、と携帯電話の番号を教えてもらっていた。しかし、その後、ケイたちに忠告され、安藤には連絡していなかった。
先輩たちに注意されただけではなく、千尋の霊が、会わないでほしい、と言っているように思われたのが、気にかかっていた。
いつまで経っても連絡がないので、しびれを切らして、来店したのだろうか。
客はやはり安藤だった。安藤はあれから一ヶ月以上経つのに連絡がないので、待ちきれなくなって店に来たと言った。盆休みが終わって間もない頃だった。
もっともオアシスは盆の期間も、店は休みにならなかった。休暇を取るコンパニオンが多く、手薄になるので、美奈は休みなしで出勤していた。
盆の頃、実家の寺から帰ってくるように言われたが、暑い時期で、いれずみを隠し通すことができないと思い、美奈はやむを得ず、お盆休みには友達と旅行に行くので帰れないと、嘘をついた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい、電話もしなくて」
「ひどいじゃないですか。僕は毎日毎日一日千秋の思いで美奈さんからの電話を待っていたのに」
個室に入ったので、安藤は店での源氏名のミクではなく、美奈と本名で呼んだ。
「すみません。実はあれから、あまりにもうれしいのが顔に出てしまって、先輩たちにばれちゃって、とっちめられたんです。それで連絡しにくくなったんです」
美奈は弁解した。
「とにかく、一度外で会って、食事でも一緒にしませんか?」と安藤は誘った。
「お客さんと外で会うのはまずいんです。個人的に会うのは、禁じられていますし」
「君もわからない人だな。だから、ソープ嬢と客の関係ではなく、僕たちは純粋な恋人同士、と考えてください。僕は真剣なんです」
「わかりました。近いうちに必ず連絡します」
「いや、近いうち、ではなく、今、ここで日時等決めましょう。美奈さんの休みは月水金でしたね。でも、金曜日は出勤することも多いから、明日の水曜日の夜、一緒に食事、どうですか? 場所は名古屋駅や栄では、ひょっとして知った人の目につくかもしれないので、ちょっと遠いけど、藤が丘はどうです? しゃれた居酒屋が何軒もあります。居酒屋、といっても、けっこう雰囲気のいい店ですよ」
藤が丘は名古屋の東の端で、かつては豊かな緑に囲まれていたが、今では若者の街として人気がある。地下鉄東山線の終点の街で、さらに愛知万博(愛・地球博)に合わせて、藤が丘から万博会場を経由して、愛知環状鉄道の八草駅まで、日本初のリニアモーターカーの路線が敷かれた。藤が丘の街は、まだ会期中の愛知万博に行く人で、連日ごった返している。今は特に夏休みで、平日でも来場する人たちが増えているそうだ。愛知万博には、美奈もルミたちいつもの四人で、二度見に行った。終わるまでにもう一度見に行こう、と約束している。
二人は夜六時に地下鉄藤が丘駅で待ち合わせることにした。
予想していたことだが、美奈が深夜帰宅し、寝る前に大好きなモーツァルトのピアノ協奏曲二三番を聴き、くつろいでいたら、千尋が現れた。いつもはベッドに入り、うとうとしているときに現れるのだが、運転中に緊急の警告メッセージを送ってくれたとき以外、覚醒しているときに現れたのは初めてだった。リラックスしていて、いわゆるアルファー波状態になっているときだ。千尋はやはり悲しそうな表情をしていた。
「千尋さん、あなた、安藤さんの昔の恋人だったんですか? それで私が千尋さんの恋人を取り上げるようなことになるのが、悲しいのですか?」
しかし千尋は悲しそうな顔をするばかりで、何も答えない。
「お願い、千尋さん、何か答えて。この前のように、テレパシーで何か言って。もし、どうしても、ということなら、私安藤さんとのことは、諦めます。まだ今なら安藤さんと別れられると思うんです」
美奈は心の中で訴えた。今なら安藤のことを忘れることができる。けれども、これ以上深入りすると、たぶん美奈は安藤と別れることができなくなってしまうだろう。
美奈の脳裏に、ひょっとしたら千尋は安藤に殺されたのかもしれない、という考えが浮かんだ。もし千尋がはっきりそう言えば、今なら安藤を見限ることもできる。だが、更に安藤への傾倒が深まれば、もう自分の意志ではどうにもならなくなってしまいそうだ。
千尋の返事次第では、「明日」の食事は行かないでおこうと美奈は考えた。
しかし、千尋は何も言わずに消えた。
美奈は時間ぎりぎりまで行こうか行くまいかを迷った。千尋は何も言わなかったが、千尋と安藤が過去に恋人同士だったことは間違いない。安藤は千尋の死に関係しているのだろうか、と考えた。それでもまさか殺人ではないだろう、と思いたかった。
愛する人の子供を宿して、新しい命の誕生を喜んでいたとき、突然千尋が病気か事故で亡くなった。それが真相ではなかろうか。
安藤は初めてオアシスに来たとき、ホームページにある美奈の騎龍観音の写真に惹かれて指名した、と言った。最初はおそらくかつての恋人、千尋とよく似た騎龍観音のいれずみに惹かれて指名したのだろう。ひょっとしたら、安藤が魅了されたのは、美奈自身ではなく、背中のいれずみなのかもしれない。それとも、同じいれずみがあることから、千尋の代用として美奈を「愛して」くれているだけなのだろうか?
千尋はそんな安藤について、美奈本人を真剣に愛しているわけではないから、やめておきなさい、と警告を発しているのかもしれない。
でも、一度会ってみよう。もし千尋の代用でしかないなら、そのときはそのときだ。もう一年半も男性を接客する仕事をやってきて、うわべだけにはだまされないだけの眼識は持っているつもりだ。
美奈はそう考えて、行くことにした。
藤が丘には地下鉄で行った。地下鉄といっても、上社、本郷と藤が丘の三駅は高架の上にある。改札口を出たら、そのすぐ前の金属パイプの椅子に腰掛けて、安藤は待っていた。今日は役所を定時の五時一五分に出た、と言った。
「あれ、美奈さん、君、ふだんはメガネかけてるの?」と安藤が訊いた。美奈は銀色のメタルフレームのメガネをかけていた。化粧はあっさりしたものにして、服もどちらかといえば地味なものを選んだ。
「ええ、実は私、ど近眼のメガネ女子なの。お店では最初、コンタクトレンズしてたけど、何度も落として、なくしちゃったから、もうしなくなりました」
「店の中は薄暗いから、なしだと不便じゃないですか?」
「もう慣れてますから」
「近視だと、ぼやけて僕の顔も美男に見えるわけか」
「いいえ、安藤さんだけはお顔を間近で拝見させていただきましたから」と言って、美奈は顔を赤らめた。唇を許したのは、安藤だけだ、ということをほのめかした。
「メガネの美奈さんも、知的な雰囲気でいいですね。とてもソープ嬢だなんて、思えない」
「いやですわ。外ではお店の話はもうなしにしましょう」
ときどき安藤が無神経にソープ嬢という言葉を使うことに対しては、美奈は抵抗を感じた。お客さんとしてならともかく、恋人というからには、その言葉は慎んでほしい。
「やあ、ごめんごめん。以後、気をつけるよ」と安藤は謝った。
地下鉄の駅を出て、駅前のバスターミナルに出た。
地下鉄東山線の沿線は、オアシスがある西部より、東の名東区の発展が著しい。二、三〇年前までは東部丘陵地として緑が多かったが、今はマンションなどが多く建ち、大きな街となっている。
藤が丘は、交通量が多い名古屋長久手線や東名高速道路、東名阪自動車道から少し離れているので、落ち着いたたたずまいだ。
美奈は東山公園や星ヶ丘ぐらいまでは行ったことがあるが、地下鉄が高架になっている部分まで来るのは、初めてだった。愛知万博を見に行ったときは、四人で車に乗り合わせて行ったので、藤が丘の街は経由していない。
美奈は初めての街だから、少し歩いてみたいと、安藤に提案した。二人は夜の藤が丘の街をしばらく散歩した。藤が丘は思っていたよりこぢんまりとした街だった。
安藤はAという居酒屋の個室を予約しておいた。藤が丘は大学への通学バスの発着地でもあり、学生が多い街だが、その居酒屋にも大学生のコンパらしいグループが二、三組あった。万博の帰りに立ち寄る人も多い。
「今日の君は大学生といっても、十分通用するよ」
個室に落ち着いて、安藤は言った。
今日の美奈は服装もおとなしく、タトゥーはまったく見えないので、普通の若い女性だった。耳や小鼻のピアスもそれほど違和感はなかった。
安藤は飲み放題のコースで予約をしていた。
「本当は高級なフランス料理にでも招待したかったけど、あいにく給料日前でしてね。今回はこれで勘弁してください」
安藤はここでミスを犯している。N市職員は給料日が一八日であり、その日は給料日前ではない。一般の会社の給料日は二五日や月末が多いので、つい給料日前、と言ってしまった。安藤は市の給料日のことを知ってはいたが、無意識のうちに口から出てしまったのだろう。以前美奈が勤めていたマルニシ商会も、給料日は二五日だった。
美奈は、マルニシ商会に勤めていた頃、取引先の学校で、事務職員から、県職員の給料日は一六日、市は一八日と聞いたことがあった。美奈も「公務員さんは早めにお給料がもらえて、いいですね」と対応していた。しかし、このときは公務員の給料日のことは、まったく頭になかった。もし気づいていたなら、安藤に対して、不信感を抱いていたかもしれない。
「いいえ、私もこんな雰囲気、好きですから。ときどき気のあったお店の人たちと飲みに行きます」
「それじゃあ、『とりあえずビール』で乾杯だ」と安藤はわざととりあえずビールという銘柄があるような言い方をして、美奈の生ビールが注がれたジョッキに自分のジョッキを当てた。美奈はビールは苦手だったが、最初の一杯は時間をかけて飲み干した。
「美奈さんは今どこに住んでいるのですか?」と安藤は尋ねた。
「私は高蔵寺ニュータウンの団地です。安藤さんは?」
「僕は南区の方です。工業地帯の近くで、空気がわるいので、そのうち転居したいと思っていますが。高蔵寺だと、緑も多く、空気がきれいなイメージですね」
「はい、山が近くて、ときどき運動のため登っています。四〇〇メートルぐらいの低い山ですが、なかなかいいですよ。一度一緒に登りませんか」
「んー、あの辺だと、多治見との県境の山か。残念ですが、僕は山登りは苦手でしてね。高いところが、ちょっと」
安藤は山登りと聞いて、一瞬顔がこわばった。
「え、安藤さんは高所恐怖症なんですか? でも、そんなに高いといった感じじゃないから、大丈夫ですよ。私の友達も、猿投山に登って、最初はきついと音をあげていたのが、今では山のよさに気づいて、ときどき一緒に登ってます」
二人はお互いのことについて、いろいろ話をし合った。
安藤がいれずみに興味を持ったのは、やくざ映画を観て、いれずみを背負った主人公たちのかっこよさに憧れたからだ、ということは、以前聞いていた。しかし自分自身の身体に入れるつもりはない、と言った。公務員という仕事の関係で、いれずみは絶対に入れられない。
「それなら、私みたいに全身に入っている女と結婚しても大丈夫なんですか? さんざん遊ばれて、いざとなったら、いれずみしてる女とは結婚できない、と捨てられるのはいやです」
美奈はわざと絡んでみた。でも、そのことはしっかり確認しておきたかった。
「その点は信用してほしい。僕自身には彫れないから、代わりに女房に彫らせたい、と前からずっと思っていたんです。だから美奈さんは、僕にとっては理想の女性なんだ」
「何だか私より、背中の観音様に恋してるみたいですね」
美奈はちょっとすねたように言った。
「そんなことないですよ。何度も言っていますが、僕は美奈さんの人柄が好きなんです。いれずみをした女性には何人も会ったことがありますが、僕は美奈さんしか考えられない」
千尋さんはどうだったんですか? と美奈は訊いてみたかったが、それだけは決して口にしてはいけないと思った。
「美奈さんは外出するときは、いつも長袖なのですか?」と安藤は話題を変えた。
「去年は夏でも長袖でしたが、今年は自宅の近所では半袖のこともありました」
半袖だと、どうしても肘の近くに彫ってある牡丹のタトゥーが袖からはみ出て、見えてしまう。昨年はまだマルニシ商会に勤めていたので、タトゥーを隠すために、暑い時季でも外出のときは長袖の服を着ていた。今年は三月末日でマルニシ商会を退社したこともあり、あまり隠そうという意識がなくなったので、特に暑いときには、半袖の服で出かけることもあった。
「タトゥーがちらちら見えると、近所の人に何か言われませんか?」
「そうですね。私はあまり言われたことはありませんでした。団地だと、お互い無関心の人が多いですから。近所のよく知っている人には、びっくりされたこともありましたが」
美奈は近所に住んでいて、よく顔を合わせる人たちには、きちんと挨拶をしていた。美奈は近所でも真面目な礼儀正しい女性だと思われていたので、初めて腕のタトゥーを見て、驚く人が多かった。
「それ、どうしたのですか?」と尋ねられれば、美奈は「きれいなので、ファッションのつもりで入れました」と笑顔で答えていた。中には子供には見せたくない、と言って、美奈を遠ざける人もいた。けれども多くの人たちは、最初こそ少し驚きはしたものの、美奈が挨拶をすれば、あまり気にせずに挨拶を返してくれた。
近所の店で買い物をするときには、レジの人に、袖から覗いている牡丹の花のことで、「きれいですね。それ、本物のタトゥーなのですか?」などと声をかけられることもあった。
結局、近所の人たちには、美奈がタトゥーをしていることを知られてしまった。それでも一部の人を除いて、これまでどおり接してくれた。
しかし、特に暑いときでなければ、できるだけ長袖の服を着るように心がけている。
九時に居酒屋を出た。美奈は料金は割り勘で、と言ったが、男に恥をかかせないでください、と安藤が金を払った。
その後、近くの喫茶店に入った。美奈は少し酔っていた。安藤と一緒にいるのが、心地よかった。
安藤は、またときどき会ってください、と要求した。そして、美奈の携帯の電話番号を聞き出した。
美奈はその後ホテルにでも誘われるのではないか、と思ったが、この日はそのまま別れた。
地下鉄で、美奈が中央本線に乗り換える千種駅まで、一緒に行った。安藤は栄までの切符を買っていた。栄からは定期券が使える。栄で名城線に乗り換え、伝馬町まで行き、市バスに乗り換える、と説明した。名城線は前年に環状線になっていた。伝馬町なら、栄よりずっと手前の本山で乗り換えるほうが早いが、美奈は千種まで安藤と一緒にいたかった。
その夜、千尋が現れると思っていたが、現れなかった。
二週間後、また食事に誘われた。その日、美奈は仕事を離れて、安藤に身体を許した。美奈が仕事以外で身体を許したのは、これが初めてだった。
そのときも千尋は現れなかった。

うちの近くも、一昨日の夜、すごい雷


まだしばらく不安定な天気が続くということで、南木曽岳


今回は『幻影』第12章です。
12
久しぶりに卑美子から電話があった。一〇月下旬に、卑美子が所属する彫波一門でタトゥーコンベンションを行うので、見に来ないか、という誘いだった。タトゥー雑誌ではよく全国各地のタトゥーコンベンションの模様を紹介し、美奈もそれらの記事を何度も読んでいるが、参加したことはなかった。おもしろそうなので、一度見てみたいとは思っていた。一〇月下旬といえば、まだずいぶんと先のことだ。
その日は日曜日で、仕事がある、と言ったら、明け方までやっているから、仕事が終わってから来るといい、と卑美子は答えた。もしよかったら、お店の人でタトゥーに興味がある人も誘ったらどうか、と卑美子は言った。
「さくらちゃんもコンベンション、興味を持っているんじゃないですか。来る人の分、チケット用意しておきますから、早めに人数教えてくださいね」
さくらとはルミの本名である。美奈は卑美子が親友のルミのことも配慮してくれたことがうれしかった。
タトゥーコンベンションの話をすると、ルミだけでなく、ミドリとケイも行ってみたい、と言った。日曜日は四人とも出勤だから、仕事が終わったら一緒に行きましょう、ということになった。場所は栄のバーを借り切って行うとのことだった。
「はい、ミクちゃん、ご指名だよ」
接客が済んで、待機室に戻ろうとしたとき、フロントの沢村から声がかかった。電話で予約があったそうだ。
「加藤さん。ちょうど接客中だったから、八時半からになると言っておきました。それまでしばらく休んでいてね」
沢村は予約の時間を少し遅めにして、休憩の時間を与えてくれた。沢村はコンパニオンに対し、いろいろ配慮してくれるので、コンパニオンたちの間で、評判がよかった。
「加藤さんって、安藤さんのことね」と美奈は声に出さずに呟いた。
客との個人的付き合いがだめなら、もう客としては来ないから、電話してほしい、と携帯電話の番号を教えてもらっていた。しかし、その後、ケイたちに忠告され、安藤には連絡していなかった。
先輩たちに注意されただけではなく、千尋の霊が、会わないでほしい、と言っているように思われたのが、気にかかっていた。
いつまで経っても連絡がないので、しびれを切らして、来店したのだろうか。
客はやはり安藤だった。安藤はあれから一ヶ月以上経つのに連絡がないので、待ちきれなくなって店に来たと言った。盆休みが終わって間もない頃だった。
もっともオアシスは盆の期間も、店は休みにならなかった。休暇を取るコンパニオンが多く、手薄になるので、美奈は休みなしで出勤していた。
盆の頃、実家の寺から帰ってくるように言われたが、暑い時期で、いれずみを隠し通すことができないと思い、美奈はやむを得ず、お盆休みには友達と旅行に行くので帰れないと、嘘をついた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい、電話もしなくて」
「ひどいじゃないですか。僕は毎日毎日一日千秋の思いで美奈さんからの電話を待っていたのに」
個室に入ったので、安藤は店での源氏名のミクではなく、美奈と本名で呼んだ。
「すみません。実はあれから、あまりにもうれしいのが顔に出てしまって、先輩たちにばれちゃって、とっちめられたんです。それで連絡しにくくなったんです」
美奈は弁解した。
「とにかく、一度外で会って、食事でも一緒にしませんか?」と安藤は誘った。
「お客さんと外で会うのはまずいんです。個人的に会うのは、禁じられていますし」
「君もわからない人だな。だから、ソープ嬢と客の関係ではなく、僕たちは純粋な恋人同士、と考えてください。僕は真剣なんです」
「わかりました。近いうちに必ず連絡します」
「いや、近いうち、ではなく、今、ここで日時等決めましょう。美奈さんの休みは月水金でしたね。でも、金曜日は出勤することも多いから、明日の水曜日の夜、一緒に食事、どうですか? 場所は名古屋駅や栄では、ひょっとして知った人の目につくかもしれないので、ちょっと遠いけど、藤が丘はどうです? しゃれた居酒屋が何軒もあります。居酒屋、といっても、けっこう雰囲気のいい店ですよ」
藤が丘は名古屋の東の端で、かつては豊かな緑に囲まれていたが、今では若者の街として人気がある。地下鉄東山線の終点の街で、さらに愛知万博(愛・地球博)に合わせて、藤が丘から万博会場を経由して、愛知環状鉄道の八草駅まで、日本初のリニアモーターカーの路線が敷かれた。藤が丘の街は、まだ会期中の愛知万博に行く人で、連日ごった返している。今は特に夏休みで、平日でも来場する人たちが増えているそうだ。愛知万博には、美奈もルミたちいつもの四人で、二度見に行った。終わるまでにもう一度見に行こう、と約束している。
二人は夜六時に地下鉄藤が丘駅で待ち合わせることにした。
予想していたことだが、美奈が深夜帰宅し、寝る前に大好きなモーツァルトのピアノ協奏曲二三番を聴き、くつろいでいたら、千尋が現れた。いつもはベッドに入り、うとうとしているときに現れるのだが、運転中に緊急の警告メッセージを送ってくれたとき以外、覚醒しているときに現れたのは初めてだった。リラックスしていて、いわゆるアルファー波状態になっているときだ。千尋はやはり悲しそうな表情をしていた。
「千尋さん、あなた、安藤さんの昔の恋人だったんですか? それで私が千尋さんの恋人を取り上げるようなことになるのが、悲しいのですか?」
しかし千尋は悲しそうな顔をするばかりで、何も答えない。
「お願い、千尋さん、何か答えて。この前のように、テレパシーで何か言って。もし、どうしても、ということなら、私安藤さんとのことは、諦めます。まだ今なら安藤さんと別れられると思うんです」
美奈は心の中で訴えた。今なら安藤のことを忘れることができる。けれども、これ以上深入りすると、たぶん美奈は安藤と別れることができなくなってしまうだろう。
美奈の脳裏に、ひょっとしたら千尋は安藤に殺されたのかもしれない、という考えが浮かんだ。もし千尋がはっきりそう言えば、今なら安藤を見限ることもできる。だが、更に安藤への傾倒が深まれば、もう自分の意志ではどうにもならなくなってしまいそうだ。
千尋の返事次第では、「明日」の食事は行かないでおこうと美奈は考えた。
しかし、千尋は何も言わずに消えた。
美奈は時間ぎりぎりまで行こうか行くまいかを迷った。千尋は何も言わなかったが、千尋と安藤が過去に恋人同士だったことは間違いない。安藤は千尋の死に関係しているのだろうか、と考えた。それでもまさか殺人ではないだろう、と思いたかった。
愛する人の子供を宿して、新しい命の誕生を喜んでいたとき、突然千尋が病気か事故で亡くなった。それが真相ではなかろうか。
安藤は初めてオアシスに来たとき、ホームページにある美奈の騎龍観音の写真に惹かれて指名した、と言った。最初はおそらくかつての恋人、千尋とよく似た騎龍観音のいれずみに惹かれて指名したのだろう。ひょっとしたら、安藤が魅了されたのは、美奈自身ではなく、背中のいれずみなのかもしれない。それとも、同じいれずみがあることから、千尋の代用として美奈を「愛して」くれているだけなのだろうか?
千尋はそんな安藤について、美奈本人を真剣に愛しているわけではないから、やめておきなさい、と警告を発しているのかもしれない。
でも、一度会ってみよう。もし千尋の代用でしかないなら、そのときはそのときだ。もう一年半も男性を接客する仕事をやってきて、うわべだけにはだまされないだけの眼識は持っているつもりだ。
美奈はそう考えて、行くことにした。
藤が丘には地下鉄で行った。地下鉄といっても、上社、本郷と藤が丘の三駅は高架の上にある。改札口を出たら、そのすぐ前の金属パイプの椅子に腰掛けて、安藤は待っていた。今日は役所を定時の五時一五分に出た、と言った。
「あれ、美奈さん、君、ふだんはメガネかけてるの?」と安藤が訊いた。美奈は銀色のメタルフレームのメガネをかけていた。化粧はあっさりしたものにして、服もどちらかといえば地味なものを選んだ。
「ええ、実は私、ど近眼のメガネ女子なの。お店では最初、コンタクトレンズしてたけど、何度も落として、なくしちゃったから、もうしなくなりました」
「店の中は薄暗いから、なしだと不便じゃないですか?」
「もう慣れてますから」
「近視だと、ぼやけて僕の顔も美男に見えるわけか」
「いいえ、安藤さんだけはお顔を間近で拝見させていただきましたから」と言って、美奈は顔を赤らめた。唇を許したのは、安藤だけだ、ということをほのめかした。
「メガネの美奈さんも、知的な雰囲気でいいですね。とてもソープ嬢だなんて、思えない」
「いやですわ。外ではお店の話はもうなしにしましょう」
ときどき安藤が無神経にソープ嬢という言葉を使うことに対しては、美奈は抵抗を感じた。お客さんとしてならともかく、恋人というからには、その言葉は慎んでほしい。
「やあ、ごめんごめん。以後、気をつけるよ」と安藤は謝った。
地下鉄の駅を出て、駅前のバスターミナルに出た。
地下鉄東山線の沿線は、オアシスがある西部より、東の名東区の発展が著しい。二、三〇年前までは東部丘陵地として緑が多かったが、今はマンションなどが多く建ち、大きな街となっている。
藤が丘は、交通量が多い名古屋長久手線や東名高速道路、東名阪自動車道から少し離れているので、落ち着いたたたずまいだ。
美奈は東山公園や星ヶ丘ぐらいまでは行ったことがあるが、地下鉄が高架になっている部分まで来るのは、初めてだった。愛知万博を見に行ったときは、四人で車に乗り合わせて行ったので、藤が丘の街は経由していない。
美奈は初めての街だから、少し歩いてみたいと、安藤に提案した。二人は夜の藤が丘の街をしばらく散歩した。藤が丘は思っていたよりこぢんまりとした街だった。
安藤はAという居酒屋の個室を予約しておいた。藤が丘は大学への通学バスの発着地でもあり、学生が多い街だが、その居酒屋にも大学生のコンパらしいグループが二、三組あった。万博の帰りに立ち寄る人も多い。
「今日の君は大学生といっても、十分通用するよ」
個室に落ち着いて、安藤は言った。
今日の美奈は服装もおとなしく、タトゥーはまったく見えないので、普通の若い女性だった。耳や小鼻のピアスもそれほど違和感はなかった。
安藤は飲み放題のコースで予約をしていた。
「本当は高級なフランス料理にでも招待したかったけど、あいにく給料日前でしてね。今回はこれで勘弁してください」
安藤はここでミスを犯している。N市職員は給料日が一八日であり、その日は給料日前ではない。一般の会社の給料日は二五日や月末が多いので、つい給料日前、と言ってしまった。安藤は市の給料日のことを知ってはいたが、無意識のうちに口から出てしまったのだろう。以前美奈が勤めていたマルニシ商会も、給料日は二五日だった。
美奈は、マルニシ商会に勤めていた頃、取引先の学校で、事務職員から、県職員の給料日は一六日、市は一八日と聞いたことがあった。美奈も「公務員さんは早めにお給料がもらえて、いいですね」と対応していた。しかし、このときは公務員の給料日のことは、まったく頭になかった。もし気づいていたなら、安藤に対して、不信感を抱いていたかもしれない。
「いいえ、私もこんな雰囲気、好きですから。ときどき気のあったお店の人たちと飲みに行きます」
「それじゃあ、『とりあえずビール』で乾杯だ」と安藤はわざととりあえずビールという銘柄があるような言い方をして、美奈の生ビールが注がれたジョッキに自分のジョッキを当てた。美奈はビールは苦手だったが、最初の一杯は時間をかけて飲み干した。
「美奈さんは今どこに住んでいるのですか?」と安藤は尋ねた。
「私は高蔵寺ニュータウンの団地です。安藤さんは?」
「僕は南区の方です。工業地帯の近くで、空気がわるいので、そのうち転居したいと思っていますが。高蔵寺だと、緑も多く、空気がきれいなイメージですね」
「はい、山が近くて、ときどき運動のため登っています。四〇〇メートルぐらいの低い山ですが、なかなかいいですよ。一度一緒に登りませんか」
「んー、あの辺だと、多治見との県境の山か。残念ですが、僕は山登りは苦手でしてね。高いところが、ちょっと」
安藤は山登りと聞いて、一瞬顔がこわばった。
「え、安藤さんは高所恐怖症なんですか? でも、そんなに高いといった感じじゃないから、大丈夫ですよ。私の友達も、猿投山に登って、最初はきついと音をあげていたのが、今では山のよさに気づいて、ときどき一緒に登ってます」
二人はお互いのことについて、いろいろ話をし合った。
安藤がいれずみに興味を持ったのは、やくざ映画を観て、いれずみを背負った主人公たちのかっこよさに憧れたからだ、ということは、以前聞いていた。しかし自分自身の身体に入れるつもりはない、と言った。公務員という仕事の関係で、いれずみは絶対に入れられない。
「それなら、私みたいに全身に入っている女と結婚しても大丈夫なんですか? さんざん遊ばれて、いざとなったら、いれずみしてる女とは結婚できない、と捨てられるのはいやです」
美奈はわざと絡んでみた。でも、そのことはしっかり確認しておきたかった。
「その点は信用してほしい。僕自身には彫れないから、代わりに女房に彫らせたい、と前からずっと思っていたんです。だから美奈さんは、僕にとっては理想の女性なんだ」
「何だか私より、背中の観音様に恋してるみたいですね」
美奈はちょっとすねたように言った。
「そんなことないですよ。何度も言っていますが、僕は美奈さんの人柄が好きなんです。いれずみをした女性には何人も会ったことがありますが、僕は美奈さんしか考えられない」
千尋さんはどうだったんですか? と美奈は訊いてみたかったが、それだけは決して口にしてはいけないと思った。
「美奈さんは外出するときは、いつも長袖なのですか?」と安藤は話題を変えた。
「去年は夏でも長袖でしたが、今年は自宅の近所では半袖のこともありました」
半袖だと、どうしても肘の近くに彫ってある牡丹のタトゥーが袖からはみ出て、見えてしまう。昨年はまだマルニシ商会に勤めていたので、タトゥーを隠すために、暑い時季でも外出のときは長袖の服を着ていた。今年は三月末日でマルニシ商会を退社したこともあり、あまり隠そうという意識がなくなったので、特に暑いときには、半袖の服で出かけることもあった。
「タトゥーがちらちら見えると、近所の人に何か言われませんか?」
「そうですね。私はあまり言われたことはありませんでした。団地だと、お互い無関心の人が多いですから。近所のよく知っている人には、びっくりされたこともありましたが」
美奈は近所に住んでいて、よく顔を合わせる人たちには、きちんと挨拶をしていた。美奈は近所でも真面目な礼儀正しい女性だと思われていたので、初めて腕のタトゥーを見て、驚く人が多かった。
「それ、どうしたのですか?」と尋ねられれば、美奈は「きれいなので、ファッションのつもりで入れました」と笑顔で答えていた。中には子供には見せたくない、と言って、美奈を遠ざける人もいた。けれども多くの人たちは、最初こそ少し驚きはしたものの、美奈が挨拶をすれば、あまり気にせずに挨拶を返してくれた。
近所の店で買い物をするときには、レジの人に、袖から覗いている牡丹の花のことで、「きれいですね。それ、本物のタトゥーなのですか?」などと声をかけられることもあった。
結局、近所の人たちには、美奈がタトゥーをしていることを知られてしまった。それでも一部の人を除いて、これまでどおり接してくれた。
しかし、特に暑いときでなければ、できるだけ長袖の服を着るように心がけている。
九時に居酒屋を出た。美奈は料金は割り勘で、と言ったが、男に恥をかかせないでください、と安藤が金を払った。
その後、近くの喫茶店に入った。美奈は少し酔っていた。安藤と一緒にいるのが、心地よかった。
安藤は、またときどき会ってください、と要求した。そして、美奈の携帯の電話番号を聞き出した。
美奈はその後ホテルにでも誘われるのではないか、と思ったが、この日はそのまま別れた。
地下鉄で、美奈が中央本線に乗り換える千種駅まで、一緒に行った。安藤は栄までの切符を買っていた。栄からは定期券が使える。栄で名城線に乗り換え、伝馬町まで行き、市バスに乗り換える、と説明した。名城線は前年に環状線になっていた。伝馬町なら、栄よりずっと手前の本山で乗り換えるほうが早いが、美奈は千種まで安藤と一緒にいたかった。
その夜、千尋が現れると思っていたが、現れなかった。
二週間後、また食事に誘われた。その日、美奈は仕事を離れて、安藤に身体を許した。美奈が仕事以外で身体を許したのは、これが初めてだった。
そのときも千尋は現れなかった。