今回は『幻影』第9章を掲載します。
この部分には“ハンミョウ”という昆虫が登場します。ミドリっぽい金属的な光沢がある、美しい虫です。ハンミョウは、人が歩いて行く方向に飛んで逃げていき、まるでおいでおいでをしているように見えます。それで、“ミチシルベ”とか“ミチオシエ”といわれるようです。
『幻影』の本の表紙カバーは、出版社より依頼を受け、私が写した写真
を使うことになりました。そのために、物語の舞台になったところを写真を写しに回りました。『ミッキ』と『幻影2 荒原の墓標』の表紙カバーは私がイラストを描きました
。
担当者から、物語に出てくるハンミョウなんかどうですか、とアドバイスをされ、さっそくみろくの森にカメラ
を持って行ったのですが、結局出会うことができませんでした
。
その後何十回とみろくの森を歩きましたが、一度もハンミョウを見ていません。写真を撮るために行った前年までは、よく見かけましたが、その後全く見られなくなりました。いったいどうなってしまったのでしょうか?
結局、表紙カバーの写真は、知多半島の野間大坊の近くの、漁村の夕暮れ風景を使いました。出版社の方が選んだのですが、『幻影』のタイトルにはよく合っていると思います。
カメラのことですが、この前、弥勒山
に登ったとき、水を飲もうと立ち止まったら、たくさんのかんす(名古屋弁で蚊のことです)に襲われ、追い払おうとしたとき、うっかり愛用のオリンパスE-500を落とらかいて(落として)しまいました
。
一瞬青くなりましたが、レンズや本体に少し傷をつけてしまったとはいえ、動作に問題はありませんでした
。もう6年ほど使っている古いカメラ
ですが、使いやすいのでまだまだ現役で使っています
。
9
翌日、美奈は珍しく早朝に目を覚ました。オアシスでの勤務で夜遅くなるので、最近美奈は朝寝坊になっていた。マルニシ商会に勤めていたころは、朝は六時に起床していた。もう体調は戻っていた。昨日はあまり食べていなかったから、朝、目が覚めたとき、ひどい空腹を感じた。すぐにトーストと野菜サラダで朝食を摂った。
何となく気分がよかった。時間も早いし、久しぶりに近くの山に登ってみようと思った。
ザックにコッフェル、ガスストーブ、水と食料などを詰めて、美奈は出発した。
山といっても、玄関を出て、歩いて四〇分で登山口の細野キャンプ場に着く。それから登り始め、春日井市の最高峰、標高四三七メートルの弥勒山(みろくさん)の山頂を踏んで、家に帰るまで、四時間を見込んでおけば十分だった。登山口まで車を使えば、さらに一時間短縮できる。
途中、登山道を歩いているとき、小さなハエのような虫が、一〇匹以上も顔の周りにまとわりつくのが鬱陶しかった。この虫には防虫スプレーはあまり効果がなかった。インターネットで調べたら、メマトイという小さなハエのようだった。メマトイというのは、そういう名称の虫がいるのではなく、顔の周りをうるさく飛び回る、小型のショウジョウバエ科のハエの総称だそうだ。メマトイが顔の周りにまとわりつくのは、涙の中のタンパク質を舐めるためだという。目に入ると、東洋眼虫という寄生虫を媒介されることがあるので、注意が必要だ。メガネはメマトイが目に入るのを、ある程度防ぐ効果がある。
以前、深呼吸したとき、鼻孔からメマトイが入り込み、びっくりしたことがあった。すぐ鼻をかんだが、虫は出てこなかった。ハエのような虫が気管の中に入り込み、後から体調を崩したりしないかしら、と不安になった。しばらくして口の中に異物を感じたので、ティッシュペーパーに吐き出したら、先ほど鼻孔から吸い込んだメマトイだった。そのときはちょっといやな気分になった。
鬱陶しい虫さえいなければ、つい鼻歌でも歌い出してしまいそうな、快適な山歩きだ。歩いているとけっこう汗をかく。ときには思いっきり汗をかくのも気持ちいい。細野キャンプ場がある登山口から、沢に沿って、おおたに大谷やま山手前の鞍部に出る。そこから大谷山四二五メートルを越えて弥勒山に向かう。稜線まで出ると、顔につきまとうメマトイもぐっと少なくなってくる。樹林であまり眺望はないコースだが、緑の中を歩くのは、楽しかった。
もう少し早い時期なら、稜線上のあちこちで、ギフチョウが優雅に舞っている姿を見ることができた。
弥勒山登頂の道は少し急な登りだ。階段状になっていて、一定の歩幅を強制されるのが辛い。美奈は階段を避けるため、なるべく道の端の方を歩き、自分のステップを確保した。
頂上は絶景とまではいかなくても、かなり景色がいい。空の透明度がいい冬の日には、真っ白に雪化粧をした白山、乗鞍、御岳、中央アルプス連峰、恵那山などを望むことができる。南アルプスは主要な山が、ちょうど恵那山の大きな山体に隠されてしまって、南部の山並みしか見ることができない。
弥勒山頂の四阿(あずまや)からは、名古屋方面を始め、広大な濃尾平野が望める。名古屋駅方面の高層ビル群も手に取るようだ。平野の向こうは鈴鹿山脈、養老の山並み、伊吹山、さらには遠く奥美濃の山々までが一望の下だ。午後になると、伊勢湾が日光を反射してきらきら輝くので、そこが海だと知れる。美奈は山に行くとき、いつも携帯している高倍率ズームのデジタルカメラを取り出して、何枚も写真を撮った。
ただ、その日は霞がかかっていて、遠くの山並みがあまりよく見えなかった。
平日にもかかわらず、弥勒山の頂上には、中高年の登山者が多い。仕事を定年などで辞めた後、趣味として登山を楽しむ人には、手軽に登れる山だった。道樹山(どうじゅさん)から大谷山を経て、弥勒山に至るコースは、樹林の中で、あまり展望には恵まれないとはいえ、安全で自然が多く残っており、歩いていて楽しいコースだ。
弥勒山の頂上でガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れて飲む。持参したスナック菓子や果物をつまむ。これがまた楽しかった。水が多い時期には、途中の沢の水を沸かしてコーヒーを淹れることもある。
帰りは弥勒山を通り越してしばらく下った道を左に折れ、数分下って、林道に出た。
大きな休憩所を過ごして歩いていくと、先ほど登った弥勒山を見上げる地点に着いた。頂上にある四阿が見える。低山とはいえ、堂々とした山容だ。
五年前の東海豪雨で弥勒山の山肌の一部が崩落した。山頂付近から広範囲に樹木が削り取られ、痛々しい爪痕を残した。その後、植林などの復旧工事が行われた。今ではずいぶん樹林が生長し、豪雨の傷跡もあまり目につかなくなった。
林道を歩いていると、ときどき金属のような光沢がある、きれいな虫に出会った。身体が緑や黒、オレンジ色などに輝いている。その虫に近づくと、なぜか美奈が歩いていこうとする方向に飛んでいく。まるでおいでおいでをしているようだ。ハンミョウという名前の昆虫で、道を歩いている人の道案内をしているようなので、みちしるべともいうそうだ。
朝早く家を出れば、午前中に家に戻ることができ、一日が有効に使える。しかし、暑い時季なので、家に着くと汗だくだ。ちょっと汗くさいので、シャワーを浴びて、着替えをした。美奈は女性であるだけに、体臭にはかなり気を遣っていた。そのとき、胸の牡丹の花を、そっとシャワーの水で洗ってやった。まだ彫って二日しか経っていないので、少しじゅくじゅくしている。明日には乾燥するだろう。
少し前、美奈は仲がいい、ミドリ、ケイ、ルミを誘って、四人の公休日に、猿投山(さなげやま)に登山をした。
勤務を終えた四人は、高蔵寺の美奈の家に泊まった。
翌朝、美奈の車で麓の雲興寺(うんこうじ)まで行き、そこから頂上を往復した。途中、コンビニに寄って、弁当や菓子、飲み物を買った。
美奈としては初歩的な山と思い、猿投山を選んだのだが、他の三人にはきつかったようだ。最初は弥勒山を始めとする、多治見との県境の山にしておけばよかったと、後悔もした。そちらの山のほうが、歩く距離も短く、登りも楽だ。せっかく登山の楽しさを知ってもらおうと思って、猿投山に誘ったのに、苦しい、辛いという思い出しか残らなかったら、残念だ。
美奈は猿投山は何十回も登り、幾種類もの登山道を知っている。この日は東海自然歩道のコースになっている登山道より、短くて楽な道を選んだ。
駐車場で、最初にストレッチなど、簡単な準備運動をした。雲興寺の近くの登山口から登り始め、しばらく沢沿いの急な道を登った。山頂付近の休憩所に着いたら、美奈以外の三人が、「ここでちょっと休もう」と言って、座り込んでしまった。コンビニで買った飲み物を飲みながら、菓子をつまんだ。
それから下りの道が続いた。せっかく稼いだ高度を、どんどん下ってしまう。
「頂上って、まだずっと先でしょう? せっかく登ったのに、また降りちゃうの?」
美奈のすぐ後ろを歩いていたミドリが、不満げに言った。
「すみません。今日のコース、けっこう上り下りがあるんです。でも、こんなに下るのはここだけですから」
美奈はコース上に一山越えがあるのは自分の責任かのように謝った。
下りきったところに大きなトイレがあったので、交替で用を済ませた。
この先、右に行けば東海自然歩道の正規のコースとなる。しかし美奈は逆の方向へ歩いた。自然歩道のルートは大回りになるので、美奈が知っている何種類ものルートのうち、いちばん短いルートを採用した。それでも最初にミドリが、それからケイがへばってしまった。元気だったルミも途中で音をあげた。
みんなを励ましながら、美奈は歩いた。ときどき休憩してはおやつを配った。
美奈の赤いザックは、山頂でカップ麺やコーヒーを作るため、四人分の水を運び、かなり重かった。歩く予定のコースには、水場がなかった。
休憩のとき、ケイはずっしりと重い美奈のザックを持ってみて、驚いた。
「ミク、あんた、こんな重いザックを持ってたの? 華奢(きゃしゃ)に見えるのに、強いのねえ。小さな身体の、どこからそんなパワーが出るのかしら。やっぱり安産型のこの大きなお尻かな。なんといっても、龍がいるんだから」と、龍の頭が入っている美奈のお尻を軽くたたいて、感心した。
「いや、ケイさんのエッチ」と美奈は笑いながら抗議した。
ミドリとルミも美奈のザックを持ってびっくりした。
「ミクはこんな重いザック背負っているんだもん。私たちだって、頑張らないとね」
ケイが二人を励ました。
標高六二九メートルの猿投山の山頂は、樹林に覆われ、展望はなかった。それでも、みんなは登頂を喜び合った。汗だくの身体に、風が心地よかった。三脚とセルフタイマーを利用して、美奈のデジタルカメラで、四人の登頂記念写真を撮った。
山頂のテーブルで美奈は湯を沸かし、カップラーメンやコーヒーを作った。山で飲む本格的なコーヒーに、みんな喜んでくれた。
「せっかく山で運動したのに、おなかが空いて、たくさん食べちゃう。こんなに食べたんじゃ、ダイエットにならないや」
体重を気にしているミドリがぼやいた。
「登山でダイエット、なんて考えると、やっぱり辛いから、まずは山を楽しむ、という気持ちで登るのがいいですよ。食べるのも楽しみの一つですから。運動しているから、食べてもそんなに太ることはないですし」
美奈は登山を楽しむことを強調した。
「そうよね。せっかくおいしく食べられるんだから、食べることも楽しまなくっちゃ」
食べることが大好きなルミが賛成した。
しばらく食事やコーヒータイムで英気を養った。
休憩の後、荷物を頂上に置いたまま、東の宮まで往復した。頂上から東の宮までは、一五分の道のりだ。途中にカエルにそっくりな形をした、大きな岩があった。
東の宮の裏の、こんもりと高くなっている山頂は、頂上より二メートル高い、猿投山の最高地点だった。
四人はせっかく来たのだからと、ほんの一登りで到達できる、最高地点に立った。樹木に囲まれて、まったく眺望がきかないが、最高地点に立っただけで四人は満足だった。
もう少し先に、展望がいい場所がある、と美奈はみんなを誘ったが、三人とも、今日はここまでにしよう、と乗り気ではなかった。
下りは登りより足を痛めたり、転倒したりしやすいので、美奈は注意を促した。美奈は下りのときに、安定した歩き方ができる姿勢などを示して見せた。また、下りはゆっくりと、歩幅を小さくして歩くよう指導した。
帰路は正規の東海自然歩道を歩いたので、行きよりは少し遠回りになった。
最後に、疲れた筋肉を解きほぐすために、軽くストレッチ運動をした。
下山後、みんなは「疲れたけど、楽しかった。また誘ってね。ミク、一人で重い荷物を背負って、本当にご苦労様」とねぎらってくれ、美奈は山に連れてきてよかったと思った。
「日頃、いかに運動不足か、よくわかったわ。たまには山にでも登らなきゃね。私の郷里の静岡は、高い山がいっぱいあるけど、自分の足で登ったことがないから」と、四人の中でいちばん年長のミドリが言った。
美奈はみんなを車で家まで送る、と申し出た。しかし、三人は、ミクも疲れているのだから、瀬戸の駅まででいいよ、と美奈を気遣った。美奈は三人を名鉄尾張瀬戸駅で降ろした。
翌日、店で会ったとき、三人は足が痛いと言っていた。
「翌日すぐ痛くなるのは、若い証拠ですよ」と美奈は三人に言ってやった。
弥勒山から戻って少し休憩してから、店に電話して、「昨日休んだので、今日代わりに出勤しましょうか?」と尋ねたところ、店長が出て、「やあ、ミクちゃんか。身体はもういいのかね。出てもらえるのなら、助かるよ」と言った。
「では、いつもの遅番のシフトで入ります」
美奈は軽く食事を済ませて、すぐに車で家を出た。まだ早いのだが、千尋が住んでいたマンションに寄ってみるつもりだった。
そのマンションはすぐ見つかった。
千尋が住んでいた部屋を訪問すると、やはり家主の名前は違っていた。
インターホンのチャイムボタンを押すと、スピーカー越しに、「何の用ですか?」と女性の声に問われた。
「私、木原というものですが、今日は突然お伺いして、申し訳ありません。この部屋、お宅様の前に、橋本さんという方が住んでいたと思うのですが、その方、どこに行かれたかご存じありませんか?」
「さあ、うちは不動産屋さんから聞いてこのマンションを紹介してもらったので、前の住人のことは知りませんね。そういうことは、管理人さんにでも訊いてください」
新しい住人の女性が答えた。
「その管理人さんは、どちらにみえますか」
「このマンションの一階の、一〇一号室ですよ」
「ありがとうございました」
美奈はその部屋の主婦に礼を言った。
美奈はその階の他の部屋も回ってみた。しかし留守なのか、どの部屋もインターホンを押しても、反応がなかった。美奈は一階の管理人室に向かった。
六〇歳過ぎぐらいの女性の管理人に尋ねると、「橋本さんですか。あのきれいな人ですね。確かにいましたが、二年近く前に引っ越しましたよ。結婚でもされたんじゃないですか? 男がいる、という噂も聞きましたから」と答えた。
「どちらに越されたか、わかりませんか?」
「さあ、特に行き先は聞いていませんからね」
「男の人がいる、ということですが、どんな方かご存じないですか?」
「さあね。わたしゃ、噂を聞いただけで、会ったわけじゃあありませんからね。橋本さんの部屋は五階だったから、その男と一緒に部屋に入るところを見たわけじゃないし、二人が一緒に歩いている場面を見たわけでもないからね」
「引っ越したときに頼んだ運送屋さんはわかりませんか?」
「そんなことまで、いちいち覚えてませんよ。一年半以上も前のことですからね」
管理人は自分の怠慢ではない、と弁解しているような口ぶりだった。
運送屋がわかれば、一年半ほど前に引っ越した橋本さんの転居先を教えてもらえませんか、と問い合わせることができるかもしれない。
しかし、今はプライバシー問題がやかましく、警察や弁護士でもなければ、教えてもらえない可能性は高い。区役所に問い合わせても、同じことだろう。今は住民票などを、第三者には閲覧させてくれないと聞いている。美奈は千尋の勤めていた会社名を管理人に尋ねたが、知らないと突っぱねられた。主人なら聞いていたと思うけど、今は外出をしている、とのことだ。捜査権のない素人の限界、というところか。
「そういえば、橋本さんは引っ越すから、家具はもういらなくなるので、何か欲しいものがあれば、持っていってくれ、と言ってましたね。私や近くの部屋の人で、テレビとか冷蔵庫とかステレオなんかをもらいました。まだ新しくて、十分使えるものでしたよ。だから、引っ越しのとき、荷物はそんなになかったんじゃないのかな」
これではまったくらち埒があかなかった。まもなく出勤の時間なので、今日はこれまでにして引き上げることにした。
オアシスに行ったら、ケイとルミは公休日だが、ミドリが出勤していた。
「あら、ミク、今日は休みの日じゃなかった? 昨日具合がわるいと聞いたけど、大丈夫なの?」とミドリは気遣った。
「ありがとうございます。もうよくなったので、昨日の代わりに出勤しました」
勤務時の衣装に着替えると、胸の新しい紫紺の牡丹が目立ってしまった。これまで胸には何も入っていなかったので、余計目についた。
「まあ、また新しいタトゥーを入れたのね」とミドリが間近に来て、美奈の左乳房に描かれた牡丹を見つめた。まだ針を刺した傷が十分治癒していなくて、本来の美しさからは程遠かった。
その後しばらく、千尋の幽霊は現れなかった。
この部分には“ハンミョウ”という昆虫が登場します。ミドリっぽい金属的な光沢がある、美しい虫です。ハンミョウは、人が歩いて行く方向に飛んで逃げていき、まるでおいでおいでをしているように見えます。それで、“ミチシルベ”とか“ミチオシエ”といわれるようです。
『幻影』の本の表紙カバーは、出版社より依頼を受け、私が写した写真



担当者から、物語に出てくるハンミョウなんかどうですか、とアドバイスをされ、さっそくみろくの森にカメラ


その後何十回とみろくの森を歩きましたが、一度もハンミョウを見ていません。写真を撮るために行った前年までは、よく見かけましたが、その後全く見られなくなりました。いったいどうなってしまったのでしょうか?
結局、表紙カバーの写真は、知多半島の野間大坊の近くの、漁村の夕暮れ風景を使いました。出版社の方が選んだのですが、『幻影』のタイトルにはよく合っていると思います。
カメラのことですが、この前、弥勒山


一瞬青くなりましたが、レンズや本体に少し傷をつけてしまったとはいえ、動作に問題はありませんでした



9
翌日、美奈は珍しく早朝に目を覚ました。オアシスでの勤務で夜遅くなるので、最近美奈は朝寝坊になっていた。マルニシ商会に勤めていたころは、朝は六時に起床していた。もう体調は戻っていた。昨日はあまり食べていなかったから、朝、目が覚めたとき、ひどい空腹を感じた。すぐにトーストと野菜サラダで朝食を摂った。
何となく気分がよかった。時間も早いし、久しぶりに近くの山に登ってみようと思った。
ザックにコッフェル、ガスストーブ、水と食料などを詰めて、美奈は出発した。
山といっても、玄関を出て、歩いて四〇分で登山口の細野キャンプ場に着く。それから登り始め、春日井市の最高峰、標高四三七メートルの弥勒山(みろくさん)の山頂を踏んで、家に帰るまで、四時間を見込んでおけば十分だった。登山口まで車を使えば、さらに一時間短縮できる。
途中、登山道を歩いているとき、小さなハエのような虫が、一〇匹以上も顔の周りにまとわりつくのが鬱陶しかった。この虫には防虫スプレーはあまり効果がなかった。インターネットで調べたら、メマトイという小さなハエのようだった。メマトイというのは、そういう名称の虫がいるのではなく、顔の周りをうるさく飛び回る、小型のショウジョウバエ科のハエの総称だそうだ。メマトイが顔の周りにまとわりつくのは、涙の中のタンパク質を舐めるためだという。目に入ると、東洋眼虫という寄生虫を媒介されることがあるので、注意が必要だ。メガネはメマトイが目に入るのを、ある程度防ぐ効果がある。
以前、深呼吸したとき、鼻孔からメマトイが入り込み、びっくりしたことがあった。すぐ鼻をかんだが、虫は出てこなかった。ハエのような虫が気管の中に入り込み、後から体調を崩したりしないかしら、と不安になった。しばらくして口の中に異物を感じたので、ティッシュペーパーに吐き出したら、先ほど鼻孔から吸い込んだメマトイだった。そのときはちょっといやな気分になった。
鬱陶しい虫さえいなければ、つい鼻歌でも歌い出してしまいそうな、快適な山歩きだ。歩いているとけっこう汗をかく。ときには思いっきり汗をかくのも気持ちいい。細野キャンプ場がある登山口から、沢に沿って、おおたに大谷やま山手前の鞍部に出る。そこから大谷山四二五メートルを越えて弥勒山に向かう。稜線まで出ると、顔につきまとうメマトイもぐっと少なくなってくる。樹林であまり眺望はないコースだが、緑の中を歩くのは、楽しかった。
もう少し早い時期なら、稜線上のあちこちで、ギフチョウが優雅に舞っている姿を見ることができた。
弥勒山登頂の道は少し急な登りだ。階段状になっていて、一定の歩幅を強制されるのが辛い。美奈は階段を避けるため、なるべく道の端の方を歩き、自分のステップを確保した。
頂上は絶景とまではいかなくても、かなり景色がいい。空の透明度がいい冬の日には、真っ白に雪化粧をした白山、乗鞍、御岳、中央アルプス連峰、恵那山などを望むことができる。南アルプスは主要な山が、ちょうど恵那山の大きな山体に隠されてしまって、南部の山並みしか見ることができない。
弥勒山頂の四阿(あずまや)からは、名古屋方面を始め、広大な濃尾平野が望める。名古屋駅方面の高層ビル群も手に取るようだ。平野の向こうは鈴鹿山脈、養老の山並み、伊吹山、さらには遠く奥美濃の山々までが一望の下だ。午後になると、伊勢湾が日光を反射してきらきら輝くので、そこが海だと知れる。美奈は山に行くとき、いつも携帯している高倍率ズームのデジタルカメラを取り出して、何枚も写真を撮った。
ただ、その日は霞がかかっていて、遠くの山並みがあまりよく見えなかった。
平日にもかかわらず、弥勒山の頂上には、中高年の登山者が多い。仕事を定年などで辞めた後、趣味として登山を楽しむ人には、手軽に登れる山だった。道樹山(どうじゅさん)から大谷山を経て、弥勒山に至るコースは、樹林の中で、あまり展望には恵まれないとはいえ、安全で自然が多く残っており、歩いていて楽しいコースだ。
弥勒山の頂上でガスストーブで湯を沸かし、コーヒーを淹れて飲む。持参したスナック菓子や果物をつまむ。これがまた楽しかった。水が多い時期には、途中の沢の水を沸かしてコーヒーを淹れることもある。
帰りは弥勒山を通り越してしばらく下った道を左に折れ、数分下って、林道に出た。
大きな休憩所を過ごして歩いていくと、先ほど登った弥勒山を見上げる地点に着いた。頂上にある四阿が見える。低山とはいえ、堂々とした山容だ。
五年前の東海豪雨で弥勒山の山肌の一部が崩落した。山頂付近から広範囲に樹木が削り取られ、痛々しい爪痕を残した。その後、植林などの復旧工事が行われた。今ではずいぶん樹林が生長し、豪雨の傷跡もあまり目につかなくなった。
林道を歩いていると、ときどき金属のような光沢がある、きれいな虫に出会った。身体が緑や黒、オレンジ色などに輝いている。その虫に近づくと、なぜか美奈が歩いていこうとする方向に飛んでいく。まるでおいでおいでをしているようだ。ハンミョウという名前の昆虫で、道を歩いている人の道案内をしているようなので、みちしるべともいうそうだ。
朝早く家を出れば、午前中に家に戻ることができ、一日が有効に使える。しかし、暑い時季なので、家に着くと汗だくだ。ちょっと汗くさいので、シャワーを浴びて、着替えをした。美奈は女性であるだけに、体臭にはかなり気を遣っていた。そのとき、胸の牡丹の花を、そっとシャワーの水で洗ってやった。まだ彫って二日しか経っていないので、少しじゅくじゅくしている。明日には乾燥するだろう。
少し前、美奈は仲がいい、ミドリ、ケイ、ルミを誘って、四人の公休日に、猿投山(さなげやま)に登山をした。
勤務を終えた四人は、高蔵寺の美奈の家に泊まった。
翌朝、美奈の車で麓の雲興寺(うんこうじ)まで行き、そこから頂上を往復した。途中、コンビニに寄って、弁当や菓子、飲み物を買った。
美奈としては初歩的な山と思い、猿投山を選んだのだが、他の三人にはきつかったようだ。最初は弥勒山を始めとする、多治見との県境の山にしておけばよかったと、後悔もした。そちらの山のほうが、歩く距離も短く、登りも楽だ。せっかく登山の楽しさを知ってもらおうと思って、猿投山に誘ったのに、苦しい、辛いという思い出しか残らなかったら、残念だ。
美奈は猿投山は何十回も登り、幾種類もの登山道を知っている。この日は東海自然歩道のコースになっている登山道より、短くて楽な道を選んだ。
駐車場で、最初にストレッチなど、簡単な準備運動をした。雲興寺の近くの登山口から登り始め、しばらく沢沿いの急な道を登った。山頂付近の休憩所に着いたら、美奈以外の三人が、「ここでちょっと休もう」と言って、座り込んでしまった。コンビニで買った飲み物を飲みながら、菓子をつまんだ。
それから下りの道が続いた。せっかく稼いだ高度を、どんどん下ってしまう。
「頂上って、まだずっと先でしょう? せっかく登ったのに、また降りちゃうの?」
美奈のすぐ後ろを歩いていたミドリが、不満げに言った。
「すみません。今日のコース、けっこう上り下りがあるんです。でも、こんなに下るのはここだけですから」
美奈はコース上に一山越えがあるのは自分の責任かのように謝った。
下りきったところに大きなトイレがあったので、交替で用を済ませた。
この先、右に行けば東海自然歩道の正規のコースとなる。しかし美奈は逆の方向へ歩いた。自然歩道のルートは大回りになるので、美奈が知っている何種類ものルートのうち、いちばん短いルートを採用した。それでも最初にミドリが、それからケイがへばってしまった。元気だったルミも途中で音をあげた。
みんなを励ましながら、美奈は歩いた。ときどき休憩してはおやつを配った。
美奈の赤いザックは、山頂でカップ麺やコーヒーを作るため、四人分の水を運び、かなり重かった。歩く予定のコースには、水場がなかった。
休憩のとき、ケイはずっしりと重い美奈のザックを持ってみて、驚いた。
「ミク、あんた、こんな重いザックを持ってたの? 華奢(きゃしゃ)に見えるのに、強いのねえ。小さな身体の、どこからそんなパワーが出るのかしら。やっぱり安産型のこの大きなお尻かな。なんといっても、龍がいるんだから」と、龍の頭が入っている美奈のお尻を軽くたたいて、感心した。
「いや、ケイさんのエッチ」と美奈は笑いながら抗議した。
ミドリとルミも美奈のザックを持ってびっくりした。
「ミクはこんな重いザック背負っているんだもん。私たちだって、頑張らないとね」
ケイが二人を励ました。
標高六二九メートルの猿投山の山頂は、樹林に覆われ、展望はなかった。それでも、みんなは登頂を喜び合った。汗だくの身体に、風が心地よかった。三脚とセルフタイマーを利用して、美奈のデジタルカメラで、四人の登頂記念写真を撮った。
山頂のテーブルで美奈は湯を沸かし、カップラーメンやコーヒーを作った。山で飲む本格的なコーヒーに、みんな喜んでくれた。
「せっかく山で運動したのに、おなかが空いて、たくさん食べちゃう。こんなに食べたんじゃ、ダイエットにならないや」
体重を気にしているミドリがぼやいた。
「登山でダイエット、なんて考えると、やっぱり辛いから、まずは山を楽しむ、という気持ちで登るのがいいですよ。食べるのも楽しみの一つですから。運動しているから、食べてもそんなに太ることはないですし」
美奈は登山を楽しむことを強調した。
「そうよね。せっかくおいしく食べられるんだから、食べることも楽しまなくっちゃ」
食べることが大好きなルミが賛成した。
しばらく食事やコーヒータイムで英気を養った。
休憩の後、荷物を頂上に置いたまま、東の宮まで往復した。頂上から東の宮までは、一五分の道のりだ。途中にカエルにそっくりな形をした、大きな岩があった。
東の宮の裏の、こんもりと高くなっている山頂は、頂上より二メートル高い、猿投山の最高地点だった。
四人はせっかく来たのだからと、ほんの一登りで到達できる、最高地点に立った。樹木に囲まれて、まったく眺望がきかないが、最高地点に立っただけで四人は満足だった。
もう少し先に、展望がいい場所がある、と美奈はみんなを誘ったが、三人とも、今日はここまでにしよう、と乗り気ではなかった。
下りは登りより足を痛めたり、転倒したりしやすいので、美奈は注意を促した。美奈は下りのときに、安定した歩き方ができる姿勢などを示して見せた。また、下りはゆっくりと、歩幅を小さくして歩くよう指導した。
帰路は正規の東海自然歩道を歩いたので、行きよりは少し遠回りになった。
最後に、疲れた筋肉を解きほぐすために、軽くストレッチ運動をした。
下山後、みんなは「疲れたけど、楽しかった。また誘ってね。ミク、一人で重い荷物を背負って、本当にご苦労様」とねぎらってくれ、美奈は山に連れてきてよかったと思った。
「日頃、いかに運動不足か、よくわかったわ。たまには山にでも登らなきゃね。私の郷里の静岡は、高い山がいっぱいあるけど、自分の足で登ったことがないから」と、四人の中でいちばん年長のミドリが言った。
美奈はみんなを車で家まで送る、と申し出た。しかし、三人は、ミクも疲れているのだから、瀬戸の駅まででいいよ、と美奈を気遣った。美奈は三人を名鉄尾張瀬戸駅で降ろした。
翌日、店で会ったとき、三人は足が痛いと言っていた。
「翌日すぐ痛くなるのは、若い証拠ですよ」と美奈は三人に言ってやった。
弥勒山から戻って少し休憩してから、店に電話して、「昨日休んだので、今日代わりに出勤しましょうか?」と尋ねたところ、店長が出て、「やあ、ミクちゃんか。身体はもういいのかね。出てもらえるのなら、助かるよ」と言った。
「では、いつもの遅番のシフトで入ります」
美奈は軽く食事を済ませて、すぐに車で家を出た。まだ早いのだが、千尋が住んでいたマンションに寄ってみるつもりだった。
そのマンションはすぐ見つかった。
千尋が住んでいた部屋を訪問すると、やはり家主の名前は違っていた。
インターホンのチャイムボタンを押すと、スピーカー越しに、「何の用ですか?」と女性の声に問われた。
「私、木原というものですが、今日は突然お伺いして、申し訳ありません。この部屋、お宅様の前に、橋本さんという方が住んでいたと思うのですが、その方、どこに行かれたかご存じありませんか?」
「さあ、うちは不動産屋さんから聞いてこのマンションを紹介してもらったので、前の住人のことは知りませんね。そういうことは、管理人さんにでも訊いてください」
新しい住人の女性が答えた。
「その管理人さんは、どちらにみえますか」
「このマンションの一階の、一〇一号室ですよ」
「ありがとうございました」
美奈はその部屋の主婦に礼を言った。
美奈はその階の他の部屋も回ってみた。しかし留守なのか、どの部屋もインターホンを押しても、反応がなかった。美奈は一階の管理人室に向かった。
六〇歳過ぎぐらいの女性の管理人に尋ねると、「橋本さんですか。あのきれいな人ですね。確かにいましたが、二年近く前に引っ越しましたよ。結婚でもされたんじゃないですか? 男がいる、という噂も聞きましたから」と答えた。
「どちらに越されたか、わかりませんか?」
「さあ、特に行き先は聞いていませんからね」
「男の人がいる、ということですが、どんな方かご存じないですか?」
「さあね。わたしゃ、噂を聞いただけで、会ったわけじゃあありませんからね。橋本さんの部屋は五階だったから、その男と一緒に部屋に入るところを見たわけじゃないし、二人が一緒に歩いている場面を見たわけでもないからね」
「引っ越したときに頼んだ運送屋さんはわかりませんか?」
「そんなことまで、いちいち覚えてませんよ。一年半以上も前のことですからね」
管理人は自分の怠慢ではない、と弁解しているような口ぶりだった。
運送屋がわかれば、一年半ほど前に引っ越した橋本さんの転居先を教えてもらえませんか、と問い合わせることができるかもしれない。
しかし、今はプライバシー問題がやかましく、警察や弁護士でもなければ、教えてもらえない可能性は高い。区役所に問い合わせても、同じことだろう。今は住民票などを、第三者には閲覧させてくれないと聞いている。美奈は千尋の勤めていた会社名を管理人に尋ねたが、知らないと突っぱねられた。主人なら聞いていたと思うけど、今は外出をしている、とのことだ。捜査権のない素人の限界、というところか。
「そういえば、橋本さんは引っ越すから、家具はもういらなくなるので、何か欲しいものがあれば、持っていってくれ、と言ってましたね。私や近くの部屋の人で、テレビとか冷蔵庫とかステレオなんかをもらいました。まだ新しくて、十分使えるものでしたよ。だから、引っ越しのとき、荷物はそんなになかったんじゃないのかな」
これではまったくらち埒があかなかった。まもなく出勤の時間なので、今日はこれまでにして引き上げることにした。
オアシスに行ったら、ケイとルミは公休日だが、ミドリが出勤していた。
「あら、ミク、今日は休みの日じゃなかった? 昨日具合がわるいと聞いたけど、大丈夫なの?」とミドリは気遣った。
「ありがとうございます。もうよくなったので、昨日の代わりに出勤しました」
勤務時の衣装に着替えると、胸の新しい紫紺の牡丹が目立ってしまった。これまで胸には何も入っていなかったので、余計目についた。
「まあ、また新しいタトゥーを入れたのね」とミドリが間近に来て、美奈の左乳房に描かれた牡丹を見つめた。まだ針を刺した傷が十分治癒していなくて、本来の美しさからは程遠かった。
その後しばらく、千尋の幽霊は現れなかった。