売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影』第16、17章

2012-09-07 17:06:26 | 小説
 まだ暑い日が続きますが、秋の足音も着実に近づいています。最近鳴いているセミはツクツクボウシのみになりました。あまり元気もありません。秋の虫の合唱も賑やかになってきました。日没も早くなりました。午後6時半はもう暗いです。夜は掛け布団がないと、寒い時があります。

 『幻影2 荒原の墓標』  の見本、さっそく岡山県の彼女に送りました。以前、校正前の原稿を送り、もう読んでいますが、「やはり本で読んだほうがずっといいです」と言ってくれました。

 『幻影』をずっと掲載していますが、製本された本の状態で読むほうが読みやすいと思います。もし本を買ってくださったら、とても嬉しいです

 今回は第16章と17章です。16章は以前にも紹介したことがあります。



             16

 元日の昼、小学五年生の外山康司(とやまこうじ)は愛犬のミロを連れて、遠くの里山の方まで散歩に出た。
 昨夜から家族で名古屋市熱田区の熱田神宮に初詣に行き、未明に家に帰ってきた。大晦日の夜から元日にかけての熱田神宮は、ものすごい人出でごった返していた。ほとんど身動きもできず、国道一号線側の正門から入って、本宮に行き着くまで、非常に時間がかかった。
 駐車場も神宮近くはいっぱいで、駐車場探しにかなり走り回ったし、やっと見つけた駐車場は、神宮からずっと離れたところだった。
 大晦日から元日にかけ、名古屋市営の地下鉄は終夜運行しているが、JR中央本線や名鉄バスは動いていないので、初詣に行くには車を使うしかない。一時間に一本でもいいから、JRが終夜運行してくれれば、高蔵寺駅からタクシーを奮発するのに、と康司の父親はJRに八つ当たりしたりもした。
 大晦日の深夜は、神宮近辺は車であふれていた。ある程度は覚悟していたものの、予想をはるかに上回る混雑だった。家族が、たまには熱田さんに初詣しようと言うので、行ったのだが、初詣はやはり近くの氏神様で済ませておくべきだったか、と康司の父親は悔やんだ。こんなことなら、遠くても、伊勢神宮に行ったほうがまだよかったかもしれない。
 へとへとに疲れ、未明に春日井市押沢台の自宅に帰ってきた。
 家に帰って、明け方眠り、家族で雑煮とおせち料理などで遅い朝食をとった。親戚への年始の挨拶は翌日に回し、その日はテレビを見たりして、家族はだらだらと過ごしていた。
 康司は、そんな家族と一緒に過ごすのが退屈で、クリスマスプレゼントに買ってもらったばかりのデジタルカメラを携えて、愛犬のミロを連れて散歩に出かけた。

 いつものミロの散歩コースは、うぐい川沿いの道を歩いている。うぐい川はすぐ近くまで林が迫っているところが多く、沿道は自然にあふれている。
 康司の家はニュータウンの一角の新しい住宅地だが、少し歩けば、田畑が広がり、古い家並みが続いている。春日井市、多治見市の県境をなす山並みも間近に迫っている。
 そのような豊富な自然の中を散歩することが、ミロは大好きだった。
 今日はめったに行かない、東海自然歩道にミロを連れていってやろう、とかなり遠くまで来てしまった。
 ミロはいつもの散歩コースであるうぐい川の方へ行きたがったが、康司はかまわず車道にミロを引っ張っていった。道の右には稲を刈り取られ、裸になった田の向こうに、県境の山並みが続いている。採石のため、岩が剥き出しになった山肌が痛々しい。
 道を北に進むと、小さな神社がある。道の反対側に、大きなイチョウの神木があり、その角を右に折れた。
 しばらくは民家が続くが、道はやがてヒノキの林の中に入っていく。晴天だというのに、鬱蒼としたヒノキの林は薄暗かった。しばらく行くと養蜂場があった。
 ヒノキばかりではなくソヨゴやリョウブ、コナラ、アカガシ、アセビなどの雑木林になっているところもあった。
 あまり歩いたことがない、珍しい道に、ミロは興味深げにきょろきょろしたり、臭いをかぎながら康司について行った。康司はおもしろそうな被写体があると、デジカメを向けた。散歩中のミロを何十枚も写した。康司はいっぱしのカメラマンになったつもりでいた。デジカメはメモリーカードの容量が許す限り、いくら撮ってもフィルム代がかからないのは魅力だった。気に入ったカットがあれば、父親に頼んで、パソコンを使ってプリントしてもらう。
 道は少しずつ高度を稼いでいった。
 一時間近く歩くと、外之原峠(とのはらとうげ)に出た。康司やミロにとっては、とんでもなく遠いところまで冒険してしまった、という感覚だった。自転車でもここまではめったに来なかった。
 外之原峠を越えれば、岐阜県多治見市となる。そこで東海自然歩道と合流する。少し手前を左に折れれば、道樹山、弥勒山方面に続く道だ。しかし、その取り付きは金属製の階段になっており、それを登り詰めるのは、身体が小さなミロでは困難かと判断し、康司は右に向かった。定光寺駅に通じるコースだ。
 外之原峠には車が二、三台駐車できるスペースがあり、ときどきハイカーたちが利用する。しかし車を使用する場合は、また駐車場まで戻らなければならない。周回コースを組める細野キャンプ場や植物園の駐車場に比べれば、ハイカーの利用は少なかった。
 ミロは大喜びで東海自然歩道を駆けていった。足早に先を行き、まるで康司を引っ張っているようだった。しばらく行ったら、ミロは道を外れ、右の方に向かおうとした。康司はまっすぐ行くぞ、とミロに命じたが、ミロは小さな身体で踏ん張って、どうしても我を通そうとした。
 そこは雑木林の密度がやや低くなり、ちょっとした広場になっていた。康司は根負けして、ミロの好きなようにさせてやることにした。こんな林の中だから他の人の迷惑になることはないだろうと、康司はミロのリードを解いてやった。
 束縛から解き放されたミロは、自然歩道から逸れて、小さな広場に入っていった。地面に鼻をつけ、盛んにクンクンやっている。地面は落ち葉の絨毯になっている。ところどころ、大きな葉が落ちていた。ホオノキの葉であろうか。
 ミロは微かな踏み跡を、どんどん登っていった。その先に、送電用の鉄塔が建っていた。その踏み跡は、鉄塔のメンテナンスのためにつけられたものだった。
 しかし、ミロは鉄塔に行かず、その手前を左に折れた。道のない雑木林の中をしばらく行くと、立ち止まり、わんわん吠え始めた。康司はミロに遅れてその場に着いた。
 ミロは前足で落ち葉の下を掘り始め、何かを咥えようとしていた。
 何だろうと思い、康司が覗くと、そこには白っぽい棒のようなものがあった。
 最初は木の枝か何かだと思った。だが、その先端には指のようなものがついていた。テレビの刑事物をよく見ている康司は、次々といろいろなことを連想した。
「うわー」
 叫び声をあげた康司は、ミロを置き去りにして、来た道を一目散に走って逃げた。主人のただならぬ気配を察し、ミロも康司の後を追った。
 定光寺方面から歩いてきた三人の男女のハイカーたちは、大声で叫ぶ子供の悲鳴を聞きつけた。数十秒後、自然歩道から外れた踏み跡から、血相を変えた子供と、茶色い小犬が走ってくるのを見つけた。

 外之原峠近くの東海自然歩道より、携帯電話から一一〇番経由で、白骨死体を見つけたというハイカーからの連絡を受けた篠木署の刑事課は、直ちに刑事を差し向けた。

             17

ケイ、ルミと別れてから、美奈はいったん高蔵寺の自宅に戻った。ケイが注意したように、かなり眠かった。車が信号待ちで止まっている間、ちょっと目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
 これはやばい、しっかり気を張っていないと、居眠り運転で事故を起こしそうだ、と気を引き締めた。
 団地の所定の駐車場に車を停め、自分の部屋に戻ると、美奈はすぐに布団にもぐり込んだ。そのまま昼近くまで眠った。
 目覚めてからトーストとコーヒーで簡単に昼食を済ませ、美奈は風呂を沸かした。寒いので、シャワーではなく、熱い湯に浸かりたかった。
 風呂で裸の自分の身体を眺め回す。背中は鏡に映して見る。身体をねじって、自分の脇腹からお尻、太股を眺めてみる。湯船に浸かり、腕や腰、太股を見る。
 以前は自分の肌にこのような絵があることが不思議な感じがしたが、今はもう絵があって当たり前、と感じている。身体に絵がある自分こそが、本当の自分だ。白い肌の自分なんて、考えられないと思えるようになった。
 最近夢に出る自分の姿も、いれずみをしている。当たり前のように思えるが、少し前までは夢の中の自分の肌が真っ白だったことが多かった。潜在意識ももう自分はいれずみ女だと完全に認めている、ということだろうか。
 私は一生このいれずみを背負って生きていかなければならない。もう決して消すことはできないのだ。

 着替えなどの準備をしてから、東区の生家の寺に帰った。美奈が赤いミラで高蔵寺を出たころには、日が短い冬の太陽は、もう西の方に傾きかけていた。
 一昨年の年末年始に帰って以来、二年間生家に帰っていなかったので、今度の正月は帰ってこい、と兄から命じられたのだった。今日は天白区の同じ宗派の寺に嫁いでいる、姉の真美も、二歳になる姪を連れて来ているという。美奈は口うるさい兄は苦手だが、七歳も年が離れている姉の真美を、幼いころから慕っていた。
 いれずみのこと、ソープランドに勤めていることは秘密にしておきたかった。
 薄着になる夏はいれずみが見つかりやすいが、冬なら入浴や着替えのときさえ気をつければ、気づかれないだろう。いちばん目につくのは、左足の鳳凰だが、丈の長い靴下を穿いていればいい。

 美奈は車を寺の駐車場に入れ、家族用の出入り口から家の中に入った。車で行くことは事前に連絡しておいた。
「ただいま」と声をかけると、玄関口に姉の真美が出てきた。
「まあ、美奈、久しぶりね。明けましておめでとう」
「明けましておめでとうございます」と美奈も新年の挨拶を返した。
 真美は美奈の顔をしばらく見つめ、「あら、あんた、鼻にピアスしたの?」と眉をひそめた。
「耳ならまだしも、鼻なんかに開けちゃって」
 いけない、小鼻のピアス隠すのを忘れてた、と悔やんだが、手遅れだった。耳は髪に隠れて見えないようにしてあったが、小鼻のピアスのことは全然意識していなかった。でもいれずみだけは絶対見つからないように気をつけなければ、と思った。
「家の中では、鼻のピアス外しておきなさい。兄さんに見つかったら、またいろいろうるさく言われるわよ」
 真美はそっと耳打ちした。
 よかった、お兄ちゃんには言いつけることはないようだ、いちおう耳の軟骨のピアスも外しておこう、と美奈は一安心した。
 初めていれずみを入れてから、二年以上になる。もう二年間自分の生家には帰っていない。二年前にはすでに大腿部にも牡丹のいれずみを入れており、生家に行きにくかった。そのときは何とかいれずみがばれずに済んだ。夏は帰れば絶対見つかりそうな気がして、余計に帰りにくかった。それで昨年のお盆と正月は、友達と旅行に行くと嘘をついて、帰らなかった。
 ただ、姉の真美とは、美奈が嫁ぎ先の寺に行って、何度も会っている。姪の愛が生まれてから、しばしば顔を見に行っている。そこでたまたま来ていた兄夫婦と、甥の勝利に会ったこともある。
 しかしやはり自分が生まれ育った家は懐かしかった。
 美奈は自分の部屋に入った。少しかび臭かった。部屋は以前の勤務先であるマルニシ商会に入社して、高蔵寺の団地に越したころのままになっていた。この部屋も、甥の勝利が小学生になれば、明け渡すことになっている。勝利は今四歳だ。
 美奈は小鼻(ノストリル)と耳珠(トラガス)の軟骨部分のピアスを外した。小鼻のピアスは簡単に外せるが、耳の軟骨のピア
スは、左右とも固くねじ込まれていて、外すのに苦労した。外したピアスはなくさないようにティッシュペーパーで包んで、バッグの中にしまっておいた。
 耳たぶのピアスは、今では多くの女性がつけていて、違和感がない場所なので、そのままにしておいた。ミドリもルミも、耳たぶにはピアスをつけている。
 鼻のピアスは、マルニシ商会に勤務していたときにつけていた、白いガラスをカットした安物をそのまま使っている。入射する光の角度により、虹のようなきれいな七色に輝くので、ふだんはルビーのものに付け替えず、そのまま使っていた。耳の軟骨につけているのは、先端の石はサファイアとトパーズだった。
 美奈は鏡を見て、襟のところから胸の紫の牡丹や後ろの龍が見えていないことを確認した。暖かい部屋に行き、薄着になったとき、万が一、ちょろっとでもいれずみが覗いていてはまずい。十分すぎるくらいに注意しなければならない。特に背中の龍の胴体や牡丹の花は、首筋ぎりぎりのところまで彫ってあるので、襟が少し後ろにずれたりすれば、見つかってしまう危険がある。胸の牡丹も要注意だ。
 今は髪を短めにしているが、肩の辺りまで髪を伸ばして、襟首から背中のいれずみが見えないようにしたほうがいいかとも考えた。お寺で育ったせいか、美奈はこれまで髪を短めにしていた。
 あと、靴下をきちんと上げて、左足の鳳凰を隠しておかなければならない。パンツの裾が捲れあがったりしたら、靴下からはみ出した鳳凰が見つかってしまう。
 こんなことでは、夏は絶対帰れないと思った。
 居間に行くと兄嫁と甥の勝利、真美と姪の愛が、こたつに入って、テレビの正月番組を見ていた。居間は暖房で暖かかった。
「あ、美奈さん、お帰りなさい」と兄嫁が言った。
「明けましておめでとうございます」と美奈も挨拶した。
「おなか空いてませんか。もうしばらくしたら、ご飯にしますからね。みかんでも食べててください」
 兄嫁の陽子はそう言って、みかんを三つ美奈に手渡した。
 美奈は正月番組は見る気がしないので、部屋の隅に座って、みかんを食べながら、持ってきた文庫本を読んでいた。
勝利が寄ってきて、「叔母ちゃん、お絵かきしよう」と言うので、一緒に絵を描いて遊んでやったりもした。ドラえもんやアンパンマンなら、美奈にも描くことができた。小さな子供にでも、叔母ちゃんと言われるのは、少し抵抗があった。しばらく会っていないので、勝利も大きくなったなと感じた。
 夕飯のときには、兄の勝政も戻ってきた。一家六人ですき焼き鍋を囲んだ。
 勝政は美奈が長らく帰ってこなかったことを、なじった。
 ときどき電話はあっても、ずっと帰らないんで心配してたぞ、遠くにいるならともかく、春日井なんだから、たまには帰ってこい、とさんざん説教された。
 勝政は住職としての貫禄を身につけていたので、兄に叱られると、父親に叱られているような威圧感を感じた。
 美奈は兄に対して、何も反論できず、お兄ちゃん、ごめんなさい、を繰り返すだけだった。
 九時過ぎ、テレビのニュースで、外之原峠の近くの東海自然歩道付近の山中で、二〇代から四〇代と見られる女性の白骨死体が発見された、という報道があった。
 遺体は死後約二年と見られ、殺人事件として篠木署と県警は捜査を開始した、と言っていた。
「あら、外之原峠といったら、うちのすぐ近くだ。いやだわ」と美奈は反応した。
「美奈の住んでるところのすぐ近くなの?」と真美が尋ねた。
「うん、ときどきその辺の東海自然歩道、歩いてるの」
「まあ、いやですね。このごろ、何でこんなに殺人事件が多いのかしら」と陽子も顔をしかめた。

「美奈さん、お風呂に入ってください」
 陽子が声をかけた。風呂が一つのポイントだ。風呂に入るときは、裸になるので、最もいれずみが発覚する危険性が高い。まだ小さい愛ならともかく、四歳の勝利に見られるのさえ、まずかった。勝利なら「叔母ちゃん、身体にお絵かきしてる」ということぐらいは言いそうだった。
 どうかいれずみが見つかりませんように、と美奈は祈りながら脱衣場で服を脱いだ。
 生家の風呂は、美奈の団地の風呂よりずっと広くて、気持ちよかった。しかしいれずみのことを考えると、のんびり湯に浸かっている気分にはなれなかった。
 髪を洗っていると、脱衣場の方から、「美奈さん、ここに着替えのパジャマ、置いておきますからね」という陽子の声が聞こえてきた。
 もしここで声をかけるつもりで覗かれたら、背中の騎龍観音が丸見えになってしまう。女同士の気安さから、ちょっと風呂場の扉を開けて声をかけるぐらいのことは、しないとも限らない。
接客としての入浴は別として、いつもなら入浴でリラックスできるのだが、これでは心が安まらない。こんなことなら、風邪気味だから、と風呂を辞退しておけばよかったと思った。
 しかし陽子は脱衣場から声をかけただけだった。
 陽子が用意してくれたパジャマは、以前美奈が使っていたものだった。ズボンの裾は靴下を穿いて隠せばいいが、襟の部分からはいれずみが覗きそうだった。胸や首の後ろに気をつけなければならない。だからパジャマの上から上着を羽織り、いれずみが見えないように注意した。
「美奈さんの布団、昼間干しておきましたから、たぶん温かいと思いますよ」と陽子が声をかけた。
「ありがとうございます、お姉さん」と美奈は礼を言った。美奈は真美をお姉ちゃん、陽子のことはお姉さんと呼んでいた。
 兄嫁は本当によく気がつく、親切な人だった。口うるさく無愛想な兄とは、対照的だった。そんな兄嫁の前でも、警戒を怠れない自分自身が情けなかった。
 いれずみは美しいと思うし、その美しい絵をなんとしても自分の肌に刻みたい、というのが美奈の子供のころからの夢だった。だから美奈は全身にいれずみを入れたことは後悔しない。子供のころからの一番の夢がかなったのだから。それでも優しい家族に遠慮、警戒しなければならないことは少し悲しかった。
 この際、思い切って、私はいれずみをしています、と全て正直に打ち明け、その上でいれずみを受け入れてもらうのがいいのかもしれない。
 とはいえ、今すぐにそうしよう、という踏ん切りはつかなかった。誰もがオアシスの三人の親友のように、いれずみをしている自分を仲間として、友として、家族として受け入れてくれれば、どんなにいいだろう。しかし現実は、日本という国では、「入れ墨」は刑罰の印、またはやくざがするもの、という負のイメージがまだ色濃く残っている。いくらタトゥーが若者のファッションとして定着しつつあるといっても。
 そのことは承知の上で彫ったのだから、美奈はここで愚痴ってはいけないと思った。
 ルミは両親に、胸に蝶のタトゥーがあることを知られている。二〇歳になった記念として、両親には内緒で入れたのだが、すぐ母親に見つかってしまった。父親にはひどく叱られたそうだ。弟もルミのタトゥーを嫌っている。だから、ルミは腰に蘭のタトゥーを彫ったことは、家族に隠している。
 ルミがオアシスに入店したのは、胸に蝶のタトゥーを入れて、しばらくしてからのことだった。それまで勤めていた会社に、タトゥーのことが知れてしまい、居づらくなって、退職したのだそうだ。接客が多い部署だったので、うっかりすると、事務服の襟からタトゥーが覗いてしまうことがいけなかった。
 風俗店に勤めだしたことにより、また両親や弟ともめたので、家を出て、今住んでいるワンルームマンションに引っ越した。ルミもタトゥーのことで、辛い思いをしている。でも、最近はようやく両親もルミのことを受け入れてくれ、ときどき家に帰っているそうだ。

 その夜、美奈はかつての自分の部屋で眠った。
 陽子が言ったように、昼間干しておいてくれた布団は、ふわふわして温かかった。冬の日差しは弱いので、日に干した上で、布団乾燥機にもかけておいてくれたそうである。陽子の好意がありがたかった。

 何時ごろだろうか。もう真夜中だと思われた。すぐ近くに誰かいる気配がした。
 ひょっとして、と思って目を開けてみると、やはり千尋が美奈のすぐ目の前にいた。
 千尋が高蔵寺ニュータウンの自分の部屋以外に現れたのは、車の運転中に、事故の危険を知らせてくれた声を聞いたとき以外では、初めてだった。
 千尋が現れたのも、久しぶりだ。
「千尋さん、どうなさったんですか」
 美奈は声に出さず、心の中で問いかけた。
 千尋はいつものように悲しそうな顔をした。そして、美奈の頭の中に、森の中のような光景が浮かんだ。
 え、この光景、どこかで見た覚えがある、そう思った瞬間、九時のニュースでやっていた、遺体が発見された山の風景に似ている、と気がついた。
 いや、山の中の森の光景は、どこでも似たようなものだ。そう思いながらも、やはり今頭の中に浮かんでいる光景は、ニュースで見た外之原峠近くの山林の中としか考えられなかった。
「千尋さん、まさか、あれは千尋さんの……」
 心の中でそう千尋に話しかけると、千尋はこっくり頷いて微笑み、消えた。
「そうか、あれは千尋さんの……。やっぱり千尋さんは殺されていたんだわ」

 翌朝、美奈は四時に起こされ、早朝勤行に付き合わされた。日の出が遅いこの時期、午前四時はまだ深夜だと言えた。
 以前は毎朝やっていた勤行だが、高蔵寺の団地に越してからは、ずっとしていなかった。
 南無阿弥陀仏を唱えても、成仏はできない。釈尊の成仏法が欠落している日本の仏教には、成仏できる法がない。
 美奈は以前、父の激怒を買った根本仏教に基づくある教団の主張がまだ忘れられずにいた。どうせ信仰するなら、本当に成仏できる仏法をやるべきだ。とはいえ、真宗系の寺に生まれ育った美奈には、すぐに他宗に宗旨替えするだけの踏ん切りはつかなかった。
 それでも、霊など存在しない、と説く実家の信仰を続ける気は美奈にはなかった。霊は存在しないのなら、なぜ死後、極楽往生ができるのだろうか。霊が存在しないなら、死後の世界もなく、極楽浄土もないことになってしまうのではないだろうか?
 霊は存在しないと父も兄も言う。でも事実、私は千尋さんの霊と交流しているのだ。つい数時間前にも、私は殺された、と千尋さんは訴えていた。
 正月三が日の勤行は特に修正会といっている。光照寺でも一般信徒向けに朝七時から行うが、その前に家族だけで勤行を行った。真美と陽子も一緒に勤行をした。
「どうだ、美奈、早朝、ご本尊の前で勤行すると、気分がすがすがしいだろう」
勤行が終わってから、勝政が言った。
「久しぶりで、足がしびれました」
「どうせ自分の家ではやっていないんだろう? おまえも寺の娘なんだから、きちんとしてもらわないと困るよ」というように、またしばらく兄の説教が始まった。美奈はこの兄を苦手としている。父よりもずっと口うるさく、細かかった。

 勝政の説教から解放され、ようやく朝食となった。朝は雑煮だった。朝の食卓は勝利と愛が賑やかし、騒がしかった。二歳の愛は、餅が喉に詰まるといけないので、別メニューだったが、愛は雑煮を食べたがり、勝利は愛のために作られた卵焼きを欲しがった。

 食事が終わり、自分の部屋でウォークマンでマーラーの交響曲第五番を聴きながら、文庫本を読んでいたら、「美奈、ちょっと話があるから、入っていい?」と、姉の真美が部屋のドアをノックした。ただならぬ緊張した気配だった。美奈はウォークマンのスイッチを切り、ヘッドホンを外した。
 真美は部屋に入るなり、「あんた、いれずみしたの?」と声を潜めて訊いた。
 美奈の胸はどきっとして、鼓動が激しくなった。
「さっきあんたを起こしに来たとき、廊下の明かりで、胸のところに花のような絵があるのが見えたのよ」
 注意していたつもりだが、寝ているうちに、パジャマの胸が少しはだけていたようだ。寝起きでまだ頭がぼんやりしていて、そこまで気が回らなかった。美奈は何も言えないでいた。
「ねえ、どうなの? 単なるシールならいいけど、本物のいれずみなの?」
 美奈は黙ってうつむいていた。
「どうなの? 黙っててはわからないじゃないの。返事をしなさい。昨日だって、鼻にピアスしてて、びっくりしたけど、いれずみもしたの?」
 真美は声を潜めて、しかし激しく美奈に問い質した。
 美奈はもう黙っているわけにはいかないと観念し、「うん。私、いれずみした」と絞り出すような声で言った。
「なんてことするの。だから、ずっと帰ってこなかったのね。見つかるといけないから。それで、したのは胸だけなの?」
「ううん、背中にも、お尻にも、腕や足にも入ってる」
 美奈は正直に打ち明けた。
 真美は身体中電気に貫かれたような衝撃を感じた。
「それじゃあ、全身じゃないの。胸だけなら、今はレーザーなんかで消すこともできると聞いたけど、そんな全身じゃあ、とても消すこともできないじゃないの。なぜそんな馬鹿なことしたの? ずいぶん痛かったでしょう?」
 真美はもう涙声になっていた。
「ごめんなさい。子供のころから、いれずみはとってもきれいだから、いつかは彫りたい、って思っていたの」
 美奈もぽろぽろと涙を流した。
「まだ美奈が小学生のころ、海水浴に行ったとき、いれずみしてた人たちに異常な興味を示していたけど、そのときからなの?」
「お姉ちゃん、知ってたの?」
「美奈、その人たちのこと、じっと見ていたからね。やくざものじゃないようだったけど、私、そんな美奈を見ていて、何か因縁つけられるんじゃないかとハラハラしてた。そのころ、徐々にいれずみがファッションとして流行し始めたころだったし。でも、美奈のようにおとなしい子が、まさかそんないれずみなんかするなんて」
真美は何かを言おうとしていたが、声にならないようだった。しばらく二人は無言だった。
「あえてどんな絵なのかは、見せてくれなくていい。美奈もこんなときに見せるのはつらいでしょう。もうちょっと吹っ切れたときに、お風呂の中ででも見せてちょうだい。このこと、兄さんにも誰にも言わないでおく。でも、これだけは約束して。いれずみしたおかげで、いろいろつらいことが多くなるだろうけど、でも絶対世間様を恨まないで。そして美奈、あんたもそんなことに負けないで、まっすぐに生きてほしい。いれずみしたせいで、人生悪い方に曲げないでよ、いい?」
 長い沈黙の時間を破って、真美が苦言を呈した。その苦言には、美奈に対する愛情があふれていた。
「うん、約束する。ごめんなさい、お姉ちゃん」
 美奈は泣きながら言った。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿