遊撃隊を組織し、禁門の変で壮烈に散った長州藩士・来嶋又兵衛。
この来嶋を撃ったのが、川路利良だという説があることをご存じでしょうか。
『訂正補修 忠正公勤王事績』(中原邦平)には下記の記載があります。
来島と云ふ人は勇将でありますから、手下にも弱卒はない。
且つ力士隊と云ふやうな勇壮な者も居りますから、無暗に蛤御門を撃ち破って御所内に進入した。此處は會津が守つて居たが、會津の兵は殆ど将棋倒しに倒れたさうであります。所が薩州の兵が乾御門の方からやつて来て、後ろから撃出した。来島は馬上で、金の采配を以て指揮して居たさうですが、薩州の川路利良と云ふ人が、アノ大将を狙ひ撃ちをしたら勝てると云ふので、来島を狙撃して撃ち落した。其の死骸は力士隊の力士が引つ擔いで、山崎に引取りましたが、来島が死んでから總崩れとなりました。
ウィキペディアにも川路が狙撃したと書いてあります。
しかし川路側の資料には来嶋を撃ったという記録はありません。
禁門の変後に川路が家族に送った手紙にも、篠原秀太郎を打留めたことは記されていますが、来嶋については記されていません。
しかし川路は自らの戦功を口にしなかったというので、記載がないから事実無根とは言い切れません。
事実か否かはともかく、川路が討ったという記録がある以上、川路の追っかけを自任する私としては来嶋の墓を訪ね、合掌掃苔せねばと思いました。
墓所を調べたところ、京都府東山区清閑寺霊山町の京都護国神社、山口県光市室積の峨嵋山護国神社、山口県美祢市西厚保町本郷の高岡墓地の三ヵ所にあるようです。
美祢市の墓には夫婦で葬られているようなので、そちらを訪れることにしました。
新幹線で厚狭駅に出て、そこからJR美祢線で厚保駅へ向かいます。
美祢線は2010年7月の大雨による被災で運休しており、代行バスが運行しています。
しかし便は少なく、日暮れまで時間もなかったのでタクシーを使いました。
2740円かかりました。
来嶋の墓の詳しい場所は伝記などにも記されておらず、頼れるのは石原博之さんが管理している「竜馬が長州をゆく」というホームページに掲載されていた情報のみです。
ホームページに掲載されている地図を見る限り、来嶋の墓があるのはどうやら寺の墓地ではないようです。
中国自動車道をくぐってから右に曲がり、畑の横の道をしばらく登っていくと、道が三本に分かれています。
右の道を進みましたが、どうやら間違いのようです。
次に左の道を進みましたが、これも間違いのようです。
最後に真ん中の、左右が草木に囲まれた薄暗い道を進みました。
「この道で合っているのかなあ」と不安に思いつつしばらく進むと、藪の奥にチラリと墓石らしきものが見えました。
やがていくつもの墓石が姿を現しました。
ほっとしましたが、なかなか難易度が高そうな墓地です。
墓地というよりも、墓山というほうがイメージに近いかもしれません。
夕方ということもあって人っ子一人おらず、ちょっと不気味な雰囲気です。
「竜馬が長州をゆく」に掲載されていた「墓地の一番高いところ」という情報と、掃苔屋としての勘を頼りに墓山を登ると、藪の奥に「来嶋」と彫られた墓石を見つけました。
来嶋又兵衛の一族の墓域でした。
墓域の入り口が藪で覆われていた時点で予想はしていましたが、かなり荒れていました。
数年前に掃苔した大楽源太郎の墓を思い出しました。
あのときは墓石にトカゲとムカデが這っていました。
藪をかき分け来嶋の墓域に入ると、墓の前にいた茶色のムクムクしたものが逃げていきました。
よくわかりませんが、野うさぎではないかと思いました。
私にとって来嶋又兵衛というと、川島雄三監督の映画「幕末太陽傳」の印象が深いです。
河野秋武演じる来嶋(映画では鬼島)は、厳格でお堅い印象のキャラクターづけですが、その彼がハマってしまったのが遊郭通いでした。
同郷の藩士には遊郭通いをいさめている人物が、こっそり女郎に熱をあげていると知った高杉晋作らは、フランキー堺演じる居残り左平次に相談し、一計を案じます。
結局、来嶋は高杉らにまんまと騙され、百両をせしめられてしまいます。
なおフランキー堺は、川路利良の嗣子となる利恭の弟の孫にあたります。
そのため昭和四年に川路生誕地記念碑が建てられた際と、平成二年に川路の銅像が建てられた際には式典に出席しています。
日が暮れる前になんとか来嶋又兵衛の墓を掃苔することができ、ようやくほっとしました。
「竜馬が長州をゆく」の情報がなければ、絶対にたどり着くことはできなかったと思います。
なお、墓所から2キロほど離れた厚保小学校のプールの横には、来嶋の銅像が建っています。
来嶋らしく、古武士然とした凛々しい像です。
※墓の写真は探墓巡礼顕彰会のブログで掲載しているので、よろしければご覧になってください。
山口県山口市の石原 博之(42歳)です。
趣味で始めたホームページがお役に立てて嬉しく思っています。
おかげで、山口県内にある地方の図書館や歴史民族資料館に行くことが出来ます。
そして、そこで確認できた資料を全国の皆様に知っていただきたい(場所を特定してご先祖様に感謝していただきたい)というのが私の想いでした。
遠いところをお越しいただき、本当にありがとうございました。感謝申し上げます!
これをご縁に、貴ブログにも訪問させていただきます。
講演のご成功を山口市より祈っております!
来嶋を狙撃させたと言われる川路も西南戦争に際して
宮之城で狙撃されていますね。先月訪ねたのですが
その時は諸般の都合で訪ねませんでした。
若宮・横手官軍墓地跡の調査報告書はお持ちですか?
横手官軍墓地跡は「八代郡横手村字馬渡警視局墓地」です。
それでは失礼致します。
コメントをありがとうございます。
とても西南戦争にお詳しいですね。
五年ほど前、田山花袋の「父の墓」を読んだ後に八代の官軍墓地は訪ねました。
しかし調査報告書のことは知りませんでした。
貴重な情報をありがとうございました。