幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

日光と高木清秀

2014年12月15日 | 丹南藩

日光に行く前に宇都宮に寄り道し、喫茶3軒・パン屋1軒・焼きそば屋2軒を巡りました。
私好みの古き良き店と出会うことができました。
その後、日光に向かいました。
日光を訪れるのは17年ぶりでしょうか。
一番の目的は、釈迦堂で高木清秀を掃苔することです。

高木清秀は、私の先祖が代々仕えた丹南藩の藩祖というべき人物で、徳川十六神将に数えられる歴戦の勇士です。
大永六年(1526)、三河国に木宣光の長男として生まれています。
幼少の頃より尾張国知多郡と三河国碧海郡に領地を持つ水野家に仕え、十六歳のとき刈屋合戦で初陣し、敵陣に突入し名を上げています。
その後、水野家と同盟関係にある織田信秀に仕え、小豆坂の戦では馬上から敵を討ち取り信秀に賞されています。
その後、再び水野家へ仕え、水野信元が村木砦を攻撃した際には、先駆けして敵を討ち取る活躍を見せ、石ヶ瀬の戦では、徳川軍の先鋒で家康の重臣である石川数正と七度にわたり槍を交え勇名を轟かせました。
その後、織田信長と徳川家康が清洲同盟を結んだため、家康が一向一揆と戦う際には参戦しています。この戦いでの清秀の活躍は目覚しく、初めて謁見した家康より三河国大岡郷木村の諸税免除を受けています。
姉川の役や長島一揆攻めに参戦。長島一揆攻めでは十六歳の長男光秀とともに先陣にすすみ勇戦しています。清秀が敵陣に迫る姿を遠望した信長は、「味方ノ先ヲ懸ルハ清秀也 者共続ケ」と言ったといいます。清秀は敵将盛林坊を討ち取り武名を轟かせました。長男光秀も敵を討ち取る活躍を見せるが負傷し、亡くなっています。
水野信元が切腹させられると、信長の命により佐久間信盛に仕え、信貴山城攻めの際には一番に槍をあわせ敵を討ち取り、荒木村重を有岡城に攻めた際には二男一吉とともに一番に塀に取り付くなど常に織田軍の最前線で戦い活躍しています。
佐久間信盛が追放されると、池田恒興・佐々成政・柴田勝家から招かれるが応じず織田軍を去り、本能寺の変の後、徳川家康の直臣となり、三河国・尾張国・遠江国内で千石を賜っています。
その後、徳川軍の武将として小牧の陣・長久手合戦・小田原合戦を戦います。小牧の陣では馬に敵の矢を受け負傷したが、家康は清秀に黒鹿毛の馬に鞍をつけ贈ったといいます。長久手合戦ではその馬に乗り、馬上から敵を討ち取る活躍をしています。
後北条氏の滅亡後、徳川家康が関東に入国すると、清秀も加増され領地を移り、相模国高座郡海老名・武蔵国堤方・上総国蓮沼に五千石を賜り、海老名中新田に居を構えました。
朝鮮出兵の際には老齢のため軍役を免ぜられたが、遠く九州名護屋まで家康を訪れ、家康を喜ばせています。このとき豊臣秀吉に謁見し、武勇を称えられ羽織を与えられています。
文禄三年(1594)、致仕し海老名に隠棲するが、上杉景勝征伐の際には徳川秀忠に謁見し従軍を願い出ていています。許されなかったが、このとき秀忠から錦の羽織を与えられています。
徳川家康が大住郡中原村で鷹狩りを行った際、海老名の清秀を訪れ獲物の雁を贈ったといいます。三年後にも家康は鷹狩りの際に使者を送り、清秀に時服と雁を贈ったといいます。
織田軍の武将として戦い続けてきた清秀が徳川家康に仕えたのは、五十七歳という高齢になってからでしたが、伝わっている家康との逸話からは、家康の清秀に対する心やりを感じます。
慶長十五年七月十三日(1610年8月31日)、海老名にて亡くなっています。八十五才。法名は緑徹性順禅定門。
十六歳での初陣以来、五十年近く戦場を駆け巡ってきた清秀の身体には、四十五ヶ所の傷があったと伝わっています。
高木清秀の墓は他にも、愛知県岡崎市大和町沓市場 妙源寺と和歌山県伊都郡高野町高野山 
巴陵院と東京都杉並区永福 栖岸院 にも存在します。
興味のある方は、ウェブサイト「幕末掃苔屋」の“丹南藩”のページをご覧ください。

高木清秀を合掌掃苔したあと、近くにある浄光寺で小花和重太郎と武田久吉を掃苔しました。
その後、日光駅周辺で喫茶2軒、パン屋1軒を巡りましたが、散策しているうちに雪がチラチラと降ってきました。
今年も残すところあと半月。
今回の旅が、今年の掃苔納めになると思います。

高木清秀と小花和重太郎の墓は、近日中にウェブサイト「幕末掃苔屋」にアップしたいと思います。



柏崎に行ってきました

2012年04月19日 | 丹南藩

新潟県の柏崎に行ってきました。
目的は相も変わらず川路大警視の追っかけですが、それについては後日まとめてから紹介するとして、今回は大警視関連以外で訪れた史跡と施設についてご紹介します。

まずは柏崎駅から徒歩で、官修墓地を訪れました。
官修墓地には日柳燕石の墓があり、隣接する一角には生田万の墓があります。

その後、礼拝駅に移動し、タクシーで椎谷陣屋跡に行きました。
昨年、茂呂さまから「東京紀勝」という資料をいただいたことで、丹南藩にゆかりのある竹内楊園が後に椎谷藩に出仕していたことがわかりました。
それ以降、ずっと椎谷陣屋跡を訪れてみたいと思っていました。

その後、青梅川駅に移動し、徒歩で「昭和懐物ランド・こどもの時代館」に行きました。
以前ここは、石黒敬七氏のコレクションを展示する「とんちン館」という施設だったのですが、現在は昭和のテレビアニメや漫画のキャラクター等を集めた博物館となっていました。
私は「とんちン館」に行きたかったのですが、「昭和懐物ランド・こどもの時代館」もなかなか見ごたえのある展示内容と所蔵点数で、じっくり見入ってしまいました。
特に池森大氏のゴジラコレクションは充実しており、ヘドラだけでも約60体のフィギュアが展示されていました。
次に、黒船来航前後の様子を伝える資料収集では日本一と言われている「黒船館」に行きました。
横浜や下田ではなく、新潟県の柏崎にこのような施設があることを不思議に思いました。
私が春廼舎で出会った方の中には凄まじいコレクターが何人もいらっしゃいますが、柏崎にもそのようなコレクターが何人もいることを知り、驚きました。


丹南藩代官岡田氏の史料を探しに

2011年12月25日 | 丹南藩

浅草から東武鉄道に乗り、ぶらりと栃木方面へ行ってきました。

特急りょうもうに乗り、まずは太田に向かいました。
以前、高山彦九郎記念館を訪れた際、ソースカツ丼を食べるためにこの駅で下車したことがあります。
太田では以前から気になっていた伊勢屋のスバル最中を買い、喫茶で一服したあと、足利市に向かいました。

以前足利を訪れた時に一般的な観光は済ませてあるので、今回は足利図書館にこもり丹南藩五十部代官岡田氏の史料を探しました。
幕末の丹南藩領一万一千六石余のうち千八百二十八石は下野国足利郡にあり、岡田氏が代官職を勤めていました。
家伝によれば岡田氏の祖である岡田高吉は足利学校を創設した小野篁の二十三世の子孫であり、代々からも足利学校を研究する者が多く出ています。
寛永三年(1791)生まれの岡田東塢(名を居敬、通称を立助、号を世庵)は文人代官として知られた人物です。
幼少のころより学問を好み、江戸へ出て朝川善庵に学びました。
文政年間に伊豆下田に清国船が漂着した際は善庵とともに清国船との通訳を行っています。
天保二年(1831)、父の遺言に従い丹南藩郡代に就任しています。
足利における文化人として著名な存在となっていった東塢は、同門の画家金井烏州や儒者寺門静軒をはじめ各地の文人と交友をもちました。
天保二年(1831)、渡辺崋山と出会い、肝胆相照らす仲となっています。
東塢は、崋山が将来幕府に睨まれることになると予見し、崋山のために隠れ家を建てたという伝説があります。
10年ほど前に足利を訪れた際、岡田氏のお墓参りをするために浄林寺を訪ねたことがあります。
東塢が崋山のために建立したと伝わる隠れ家は現存していましたが、墓は改葬されたということでお参りは出来ませんでした。
未だに改葬先についてはわからず、お参りはできないままです。
1時間半ほど図書館の郷土資料室にこもり、岡田東塢の弟の萬司、養子の祐吉について書かれている本3冊をコピーしてもらいました。
足利には巡りたい史跡がいくつかありましたが、次の機会にとっておくことにしました。
丹南藩を調べていらっしゃる方々と一緒に再訪し、五十部陣屋跡を中心に史跡巡りを行いたいと思っています。

次に佐野に向かい、天応寺で井伊直弼の掃苔をしました。
天応寺は佐野駅から2キロほどで、日没まであまり時間がなかったのでタクシーで向かいました。
本堂の裏にある墓地の高台に、井伊直孝、直澄、直弼の墓があります。
井伊直弼の墓はこれまでに、東京都世田谷区の豪徳寺と、滋賀県彦根市古沢町の清涼寺と和歌山県伊都郡高野町高野山の奥の院(こちらにあるのは直弼本人の墓なのでしょうか?)にある墓にもお参りしてきました。水戸市の妙雲寺にも供養塔があるそうですが、以前訪れた時には気が付かず、お参りできていません。

帰りは館林に出て、そこから特急りょうもうで帰りました。
なお、足利ではパンジュウ(1個30円)、佐野ではイモフライ(1本50円)をいただきました。
ともに安くてうまかったです。
栃木はB級グルメの宝庫だと感じました。


※写真は井伊直弼の墓


やきとん木

2011年10月17日 | 丹南藩

私のWebサイト「幕末掃苔屋」がきっかけで知り合った杉浦さまと一緒に、「やきとん木」に行ってきました。
やきとん木は、北区滝野川にある大正八年創業の老舗居酒屋です。

この店を訪れるのは五回目だと思います。
初めて訪れたのは六年前で、ちくま文庫の『下町酒場巡礼』(大川渉・平岡海人・宮前栄の共著)に掲載された記事を読み、興味がわいたのがきっかけでした。
老舗ならではの雰囲気が味わえて、焼酎牛乳割り、やきとんが絶品で、そのうえ値段もリーズナブルという素晴らしい店でした。
その後、この店のマスターが木氏研究の第一人者だと知り、慌てて再訪しました。
以後、マスターからは木氏関連の貴重な資料を多数見せていただきました。
今回ご一緒した杉浦さまは、以前にも当ブログで書きました通り、丹南藩家老・西村定中のご子孫です。

木氏ゆかりの店で、杉浦さまと丹南藩および丹南藩士について熱く楽しく語らいました。
丹南藩について語り合える仲間が、これから増えていけばいいなと思います。

※写真は木の名物 焼酎牛乳割り

10月1日、嬉しかったこと その3

2011年10月15日 | 丹南藩

これまで2回に分け、丹南藩と明治警視庁研究をライフワークにしている私にとって、10月1日がまれにみる素晴らしい1日であったことについてご報告してきました。
あともう1つ、とても嬉しいことがありました。
今回はそのことについて書きます。

10月1日、丹南藩家老・西村定中子孫の杉浦さまと語り合い、軍装研究家の平山先生から大警部制服の情報をいただき、この夜私は完全に舞い上がっていました。
次々と酒杯を重ね、完全な酩酊状態に陥りました。
そんな状態の私の耳に「丹南藩に出仕した竹内楊園の『東京紀勝』を手に入れましたよ」という声が聞こえました。
酩酊状態の私でしたが、竹内楊園の名前にビクッと反応しました。
私は竹内楊園の名をずっと前から知っていました。
丹南藩を調べ始めた十数年前、木家の菩提寺を訪れた際にご住職からいただいた史料にその名前が書かれていました。
しかし詳しいことはわからず、私の中で名前だけが刻まれていました。
私に声をかけてくださったのは古書愛好・蒐集家の茂呂さまでした。
茂呂さまからはこれまでも、川路大警視や警視庁の写真をいただいたりと、大変お世話になってきました。
その茂呂さまが、私が丹南藩を調べていることを覚えていてくださり、丹南藩に出仕した竹内楊園が残した『東京紀勝』を入手されたことを教えていただいたのです。
茂呂さまは後日、『東京紀勝』のコピーを送ってくださいました。
おかげさまで、私の中で14年間謎のままだった竹内楊園のことが詳しくわかりました。

10月1日は結局、終電で帰ろうとするも電車内で眠ってしまい、タクシーで帰宅することとなり、財布は大打撃を受けました。
翌日は日野で釣洋一先生の講演の助手をしましたが、正直言うと二日酔いでぐったりでした。
しかしそんなことは些細に思えるほど、10月1日は最高の1日でした。
杉浦さま、平山先生、茂呂さまのおかげさまです。
本当にありがとうございました。

10月1日、嬉しかったこと 
おわり

※写真は竹内楊園が所属した彰義隊の墓