幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

加藤健太郎さんの講演会

2010年09月28日 | その他
先週の土曜日、土佐史談会関東支部第九回例会に参加してきました。
掃苔仲間のカトケンこと加藤健太郎さんの講演
「吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの~小田村素太郎(楫取素彦)を通して」
が目的です。

土佐史談会会員の方々以外にも、釣先生ご夫妻や、加藤さんと親交のある「幕末酒場・
新選組屯所」常連の方々など、合計30人近い方が出席し、会場は満員でした。
講演では同時代の資料や小田村の和歌などが多数紹介され、薩長同盟の知られざる
立役者と言える小田村について知ることができました。
小田村素太郎について私はほとんど知りませんでしたが、派手ではなくても素晴らしい
人物であることがわかりました。
配布した資料に参考文献を明記してくれていたのも良かったです。

加藤さんは土佐藩だけでなく幕臣や水戸藩なども調査されています。
これからも今回の小田村素太郎のように、知られざる偉人について調査し、発表して
いただきたいと思いました。
お互いにがんばりましょう。

会津若松と喜多方へ

2010年09月19日 | 侍たちの警視庁
会津若松と喜多方に行ってきました 。

先日、古写真研究家の森重和雄さまと「幕末酒場・新選組屯所」でお会いした際に、
「いっつも日帰りばっかりだね」と言われましたが、今回もやはり日帰りです。
会津若松と喜多方を訪れるのは一年ぶりです。
昨年訪れた際には、会津若松では萱野権兵衛・郡長正・窪田重太・飯沼源八・池上四郎
・海老名季昌・河井継之助、喜多方では中根米七と佐藤銀十郎を掃苔してきました。
今回の目的は、喜多方の長福寺(喜多方市岩月町大都前田252)にある佐川官兵衛夫妻
の掃苔のみです。
佐川の墓は大分市護国神社警察官墓地にもあります。
大分の墓はとても思い出が深く、拙著でもこちらの墓を掲載していました。
しかし照姫さまより喜多方の墓も素晴らしいとお聞きし、掃苔したい気持ちが高まって
いました。
喜多方駅から長福寺まではだいぶ距離がありそうだったので、タクシーに乗ることにし
ました。
しかし運転手さんが長福寺の場所を知らず、佐川官兵衛のことも知りませんでした。
運転手さんがいろいろ質問してきたので、佐川について少し説明しました。
駅から長福寺までは1600円ほどでした。
境内を入って左側に、古い妻の墓と新しい夫の墓が並んでいました。
大分の墓同様、合掌している間に沢山の飢えた蚊に襲われました。

目的の掃苔は済みましたが、ここまで来て会津若松に寄らない手はありません。
私が会津を訪れるのは今回で四回目ですが、聞いた話によると年間数十回訪れる方も
いらっしゃるそうです。
会津には、それだけ人々の心を惹き付ける魅力があるのでしょう。
会津若松を訪ねると75%の確率で訪れている若松食堂で遅い昼食をとりました。
ここのご主人は私と同じ巨人ファンなので、ひいきにしています。
ちなみにこの店は、会津名物ソースかつ丼発祥の店だそうです。
今回は会津若松には目指す墓はないので、私のもう一つの趣味・喫茶店探訪をすること
にし、駅前の「パーラー&喫茶 瑠璃絵」で一休みしました。
旅の終わりに「戊辰戦争を歩く 幕末維新歴史探訪の旅」(光人社刊)で紹介されていた
「かすてあん会津葵」を駅の売店で購入し、帰りの車中でいただきました。
ひとつ、心残りだったのは、会津若松の街をレンタサイクルで走っているとき、
会津新選組記念館という施設を見掛けたことです。
これまで何度か訪れているにも関わらず、存在を知らなかったので驚きました。
時間がなくて寄れなかったのは、少し残念でした。

あさくらゆう先生講演会のお知らせ

2010年09月14日 | お知らせ
あさくらゆう先生より講演会の情報をいただきましたので、ご紹介いたします。

講演会「龍馬の許婚 千葉さな 今明かされる真実」

日 時:平成22年11月6日(土)13時30分~15時(会場は13時)
会 場:北千住マルイ 10F 講義室①
参加費:資料代 500円
定 員:50名
講 師:幕末歴史研究家 あさくらゆう氏
主 催:NPO法人千住文化普及会
後 援:足立区教育委員会・足立区観光交流協会
申し込み方法:
①郵便番号、②住所、③名前、④自宅電話を明記の上、FAXまたはハガキにてお申込み
下さい。
NPO法人千住文化普及会事務局
〒120-0037
足立区千住河原町21-8-702
FAX 03-3868-3233
連絡先:090-1431-1806

7月に開催されたあさくらゆう先生の講演会
『坂本龍馬の許嫁「千葉さな」~今、明かされる物語』
にも参加しましたが、千葉家の発祥、千葉周作が道場を開くまでの経緯、北辰一刀流が
広く世に親しまれた理由、道場閉鎖に至るまでの経緯、龍馬亡き後は生涯独身を貫いた
と思われていたさなが実は結婚していたという新情報についてお聞きすることが出来ました。
私個人としては、千葉重太郎の養子の束が警視庁(当時は警視局)に出仕していた事実
を知ることが出来たのが感激でした。
あさくらゆう先生については釣洋一先生より、
「新選組追究の捜査法には、ただただ目を見張るばかり」
とお聞きしたことがあります。
あさくら先生は7月の講演会以降も、千葉さなの調査のため、精力的に各地を飛び回って
おられるようです。
今度の講演会でも数々の新発見をご披露いただけるのだろうと期待しています。
今から楽しみです。


夏の終わりの桑名掃苔 「戊辰の復讐」

2010年09月13日 | 侍たちの警視庁
高須の行基寺参拝の後、桑名に寄りました。
桑名を訪ねるのは、服部半蔵の掃苔以来で四年ぶりです。
目的は、立見鑑三郎の兄・町田武須計の掃苔です。
光明寺の墓地で墓を写すシャッターポイントを探してウロウロしていると、足元の草が
ガサガサッと鳴りました。
鳴り方で鼠か猫かカナヘビか大体判断できるのですが、このときはわかりませんでした。
足場を変えるとまた草がガサガサッと鳴ります。
目を凝らすと、弱ったセミが、草の奥でひっくりかえっていました。

「勝てば官軍 負ければ賊」という言葉がありますが、戊辰戦争で敗北した侍たちは
賊の汚名を着せられました。
しかし十年後に西南戦争が勃発すると、かつて賊とされた侍たちが今度は官軍として
出征しています。
そのとき侍たちは、軍隊ではなく警視庁の所属でした。
その中でも、有名なところでは、会津藩の佐川官兵衛、仙台藩の細谷十太夫、長岡藩の
三間正弘などが薩南へと向かっています。
今回掃苔した桑名藩の町田武須計もその一人でした。
彼らは西南戦争を、かつて受けた汚名と屈辱を晴らす絶好の機会と考えました。
軍歌で有名となった抜刀隊の田原坂斬り込みには、会津藩出身の警察官が多数参加して
います。
郵便報知新聞社の記者として従軍していた犬養毅は、「戦地直報」に以下の報道文を
載せています。
「其時故会津藩某 身を挺して奮戦し、直に賊十三人を斬る。其闘ふ時大声呼って曰く、
戊辰の復讐、戊辰の復讐と。」
この「故会津藩某」の十三人斬りについては、実話かどうか長年気になっていました。
先日、小川龍氏の著書「闇の彼方-西南戦争異聞」を拝読しましたところ、「故会津藩某」
は「小田伝八郎偵輔こと清野忠吾」であると書かれていました。
これまで私がまったく知らなかった情報で、興味をそそられました。
今度「幕末酒場・新選組屯所」で、会津藩の達人のお二人・大佗坊様と照姫様にお聞き
してみたいと思っています。

高須藩松平家の菩提所 行基寺

2010年09月12日 | 掃苔録
先日ブログでご紹介しました旅行プラン「ぷらっとこだま」を利用して、高須藩松平家の
菩提所である行基寺に行ってきました。
病み上がりなので、普段に比べるとだいぶぬるい日帰りスケジュールにしました。
名古屋から桑名に出て、養老鉄道に乗り換え、駒野に向かい、駅前からタクシーに乗りました。
駒野から寺までのタクシー代は1240円でした。
本当は歩いていきたかったのですが、今は体力に自信がないのとやたら暑かったため、
止めました。
行基寺は山の上にあり、高須藩の隠れ城と言われています。
天候に恵まれていたため、山の上からの見張らしは素晴らしかったです。
行基寺には高須藩松平家歴代藩主の墓があり、尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、
桑名藩主松平定敬らの父である十代藩主松平義建の墓もあります。
高須松平家十四代目で高須藩知事を勤めた松平義生は、維新後に警視庁に出仕しています。
松平義生の墓は行基寺ではなく新宿区の西光庵にあります。
旧藩主が維新後に警視庁に出仕した例は松平義生の他にも園部藩主小出英尚、
飯田藩主堀親広、高岡藩主井上正順、一関藩主田村崇顕がいます。
これまでに警視庁に出仕した四人の旧藩主の墓と領地を訪ねてきましたが、今回高須を
訪ねたことで、判明している限りはすべて訪ねたことになりました。
警視庁に出仕した旧藩主たちは、警部補や少警部を任ぜられることが多かったようです。
警視庁の警視や大警部などの幹部には、かつての下級藩士が多数いました。
旧藩主の警部補や少警部たちが上司とうまくコミュニケーションがとれたのか、
興味深いところです。