幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

掃苔旅行と奇食

2010年07月27日 | 歴史余話
こないだウシガエルのことを書いて思い出したのですが、横浜中華街でウシガエルの唐揚げを食べたことがあります。 
骨が多いのですが、トリのササミみたいでうまかったです。 
食に関しては一般人より「いってみよう やってみよう精神」が旺盛なのか、変わった食材を使ったメニューを見ると、つい注文してしまいます。 
カンガルー、ダチョウ、マンボウ、ワニなどは東京の居酒屋でいただきました。
掃苔目的で地方に行った時も、その土地ならではの変わった食材を使ったメニューを見かけるとつい注文してしまいます。 
春日山城目的で新潟を訪れた際にはクマを、柴五郎の掃苔目的で会津に行く途中に湯西川で途中下車した際にはサンショウウオとシカを、佐久間順の掃苔目的で静岡を訪れた際にはイルカをいただきました。
村山具膽の掃苔目的で群馬を訪れた際にヘビを食べにいきましたが、店が潰れていました。
山口には海亀、サソリ、ガラガラヘビなどを食べさせる店があるそうですが、奇食ハンターではないので行ってません。
でも近々、寺島忠三郎の掃苔に行くつもりなので、もしかしたら寄ってしまうかもしれません。 
両国にはタヌキを食べさせてくれる店があるそうです。
「まんが日本昔話」でおなじみの狸汁は、いつかぜひいただきたいと思っています。
※写真はイルカです。

佐原喜三郎の墓

2010年07月25日 | 掃苔録

鹿島神宮で直心影流の碑を見てきました。
私が追っかけをしている川路利良は薩摩藩の人ですが、示現流や自顕流ではなく直心影流を学んだといわれています。
師は坂口源七兵衛だといわれていますが、墓が所在不明のようです。
わずかなつながりではありますが、川路に関係する史跡巡りの一環として、直心影流の碑を見て来ました。
その後鹿島神宮駅に戻り、田んぼと山に挟まれた道を往復一時間近く歩き、天狗党の墓を掃苔してきました。
太陽がカンカンに照っていてとても暑い日でした。
活動開始から2時間もすると、もうグッタリです。
その後、佐原駅に向かい、佐原喜三郎の掃苔のため法界寺を訪れました。
佐原喜三郎は殺人を犯して八丈島に流され、花鳥たち数人とともに島抜けを試み、成功した侠客です。映画「るにん」の主人公は彼がモデルになっています。
「るにん」は劇場に観に行きましたし、八丈島には5年ほど前に今井信郎と羽倉簡堂を調べるため、東海汽船大型客船の「さるびあ丸」で10時間かけて行ったことがあります。
そんなわけで前々から佐原喜三郎の掃苔をしたいと思っていました。
墓地を探しても、なかなか佐原喜三郎の墓は見つかりません。目的の墓が見つかるまで墓地をぶらぶら歩きまわるのは私にとって至福の時間ですが、カンカン照りの太陽が身体から水分と体力をどんどん奪って行きます。
これはまずいと思い、お寺で所在を聞くことにしました。
親切なお寺の方は、日傘を差しながら佐原喜三郎の墓のある本郷家の墓域まで案内して下さいました。
佐原喜三郎の掃苔の後、スポーツドリンクをゴブゴブと一気飲みし、次の目的地である滑河駅に向かいました。 
わずかな時間でしたが、冷房の効いた車内で体を冷やすことができ、体力が微回復しました。
滑河での目的は、高岡藩陣屋跡の碑を見ることです。最後の高岡藩主・井上正順が明治維新後に警視庁に入っているためです。
用水路沿いの道を20分ほど歩いたところにある農協(JA香取)の隣に、目指す碑はありました。
帰り道、するめの様に干からびた巨大蛙を見かけました。頭のサイズが拳骨くらいあった気がしました。
おそらくウシガエルでしょうが、以前サンシャインシティの水族館で見かけたゴライアスガエル(世界最大といわれる蛙)よりも大きかったように感じました。


あさくらゆう先生講演会に参加

2010年07月18日 | お知らせ
あさくらゆう先生の講演会『坂本龍馬の許嫁「千葉さな」~今、明かされる物語』
に参加するため、高幡不動に行ってきました。
我々の同人誌「幕末墓参り紀行(なでしこ編)」でも紹介した千葉さなの新事実にも興味ありますが、
それ以上にあさくらゆう先生という史料発見の達人について興味がありました。
あさくらゆう先生については釣洋一先生より、
「新選組追究の捜査法には、ただただ目を見張るばかり」
とお聞きしたことがあります。
その後、あさくらゆう先生が「幕末史研究」に発表された論文や、
著書、「慶応四年新撰組近藤勇始末」や「慶応四年新撰組隊士伝」を拝読しましたが、
その緻密な調査能力に驚嘆しました。
先日の釣洋一先生喜寿お祝いの会ではお姿をお見かけし、ご挨拶をしたいと思いつつも果たせずにいました。
講演では、千葉家の発祥、千葉周作が道場を開くまでの経緯、北辰一刀流が広く世に親しまれた理由、
道場閉鎖に至るまでの経緯について語られ、大変興味深いものでした。
そしてなによりも関心を集めたのが、
龍馬亡き後は生涯独身を貫いたと思われていたさなが実は結婚していた、
という新情報についてでした。
龍馬の死より七年後、千葉さなは一度は結婚したものの、旦那の浮気で十年もたずに離婚したとか…。
その後、さなは灸の商売が成功し、老後は裕福な生活を送っていたようです。
さなの晩年は生活に困窮し、不幸だったという印象を勝手に持っていましたが、
大変意外でした。
そして私が最も興奮&感謝したのが、千葉重太郎の養子の束が警視庁(当時は警視局)に出仕していたという情報です!!!
約100分の講演は、あらゆる史料を徹底的に調べ上げたあさくらゆう先生ならではの濃厚なものでしたが、
語り口は素人にも分かりやすく、親しみやすいものでした。
あさくらゆう先生は、次はどんな新発見を教えてくれるのでしょう。
今から非常に楽しみです。
(写真は講演会場の池田屋です)

ありがた山

2010年07月14日 | 侍たちの警視庁
よみうりランド駅から徒歩十分ほどのところに、
『ありがた山』と呼ばれる場所があります。

『ありがた山』は、山の斜面に4000基ほどの墓や地蔵を並べた墓山です。
昭和14年ごろ、ある団体が駒込付近に放置されていた
無縁墓や地蔵をこの地まで運んできたものだとのことです。
ここに明治時代の警察官の墓があると知り、訪れました。

遠くから見ると、ピラミッドのようにも見えます。
山の斜面を埋め尽くすように墓や地蔵がズラリと並ぶ姿は、
掃苔屋の私にとっても始めての光景でした。

墓は4000基ほどあるそうですが、よく見るとすべての墓の前に
葉っぱの上に乗せられた小さなご飯の塊が置かれていました。
仏飯なのでしょう。
まだ新しく、昨日か今日、供えられたもののようでした。

この地に運ばれてから70年が過ぎましたが、
供養は今も続けられているのです。
足場の悪い山の斜面に並んでいるすべての墓に仏飯を供える労力は、
並大抵のことではありません。

4000基の墓を見たときよりも、4000の葉っぱの上にのせられた
仏飯を見たときに、私は深い驚きと畏敬の念を抱きました。

中腹に、他と比べて少し立派な墓がありました。
『従五位五島盛徳之墓』とあります。
気になる名前だったので手をあわせて拝み、メモを取りました。

あとで調べたところ、肥前福江藩最後の藩主だと判明しました。
肥前福江藩は、長崎県の福江島に存在した藩です。

私の二大研究テーマは『明治初年の警視庁』と『丹南藩』ですが、
丹南藩関係の調査のため、三年前に福江島を訪れたことがあります。

長崎港からフェリーで三時間、そこからバスで30分ほど揺られ、
五島家の菩提寺を訪れました
(その時訪れたのは分家の富江領五島家のほうですが)。

1863年、盛徳は石田城を建てていますが、
これが日本最後の城となったそうです。
今でも立派な城門や石垣が残っており、観光スポットとなっています。

私も見てきました。
「あの城の主は、こんなところにいたのか」と思うと、
感慨深いものがありました。

歴史事典を見ると、五島盛徳の墓は
『駒込の吉祥寺』にあると書いてあります。

でも本当は70年も前に無縁になり、『ありがた山』の斜面に
並べられていたのです。

歴史事典に記しているところとまったく違うところに墓がある。
掃苔を続けていると、こんなことがよくあります。

新たに発見した警視庁の侍たち

2010年07月10日 | 侍たちの警視庁
私家本『侍たちの警視庁』を出したあとも、
明治初年の警視庁については調べ続けてきました。

『侍たちの警視庁』を出したことがきっかけで、
歴史作家の先生や同好の仲間と知り合うことができ、
知らなかった情報をたくさんいただくことができました。

そのおかげもあり、この三年間で新たに十八都道府県をまわり、
五十人以上の警視庁の侍たちを掃苔することができました。

今日は、『侍たちの警視庁』を出した後に
出会った警視庁の侍たちの中から何人かを紹介したいと思います。

“リチャードソンを斬った薩摩隼人”久木村治休
“西南戦争のきっかけをつくった警部”中原尚雄
“大久保利通に愛された才子”千坂高雅
“養子・稲造に「武士道」を示した南部武士”太田時敏
“額兵隊総督”葦名盛景
“榎本・土方と面会した仙台藩執政”伊達宗亮
“大富豪警部”本間耕曹
“パリ万国博帰りの会津藩家老”海老名季昌
“警視庁の英雄となった会津武士”赤塚武盛
“飯沼貞吉の兄”飯沼源八
“思案橋の凶刃に殉ず”川合好直
“彰義隊生き残りの剣豪”小川重助
“松平春嶽の側近”渥美友成
“鬼官兵衛と並ぶ庁内きっての硬骨の士”神足勘十郎
“月給三百五十円のお雇い外国人”ガンベ・グロース
“詩と戯文を能くする漢学者”菊池三渓
“鎌倉比企一族の末裔”比企福造
“兄弟揃って警視庁入りした大名”松平義生
“石田三成の子孫”杉山龍江
“樺戸集治監の名典獄”月形潔
“吉原で心中した警部補”並谷豊栄
“フロックコートを着た凄腕の護衛”得能関四郎
“適塾門下生”佐渡賢隆
“赤報隊・竹貫三郎の弟”竹貫千萬雄

まだまだ掃苔したい警視庁の侍の墓がたくさんあります。
時間はかかりますが、いつかまた一冊の本に
まとめてみたいと思っています。