幕末掃苔屋 公式ブログ

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「染井霊園巡墓会」開催報告

2010年11月30日 | イベント

11月28日(日)、探墓巡礼顕彰会と全国歴史研究会墓碑研究部会の共催にて「染井霊園巡墓会」
が開催されました。
「青山霊園」、「護国寺・雑司ヶ谷霊園」に続く三回目の巡墓会です。
今回も講師の一人として参加させていただきました。
私が解説を担当させていただいたのは、小河一敏、土方久元、平田銕胤、樺山資紀、寺本義久
です。
参加してくださった皆様、本当にありがとうございました。
また、今回はスペシャルな墓マイラーも参加してくださいました。
巡墓会の様子は、探墓巡礼顕彰会のHPで近日公開予定です。
よろしければご覧下さい。
次回は谷中霊園を予定しております。
私のホームグランドなので、今から楽しみです。

今日は私が最も熱く解説させていただいた寺本義久について紹介させていただきます。
寺本は津藩士の家に生まれています。
明治2年、宮廷の護衛で功を立てたと伝わっています。
明治4年、上京し取締組に出仕しています。品行方正、正義感、気概を評価され小頭に抜擢
されています。
明治7年、警視庁が発足すると警部補に任ぜられています。
明治9年10月29日、思案橋事件と呼ばれる事件で殉職しています。
その日、寺本は非番で自宅にいましたが、前日に探索掛の刑事二人が不審士族に斬られると
いう事件が発生しており、犯人はいまだ逃亡中であったため、警戒配置として召集されました。
召集を受けた際、寺本の妻は産気づいており「せめて産婆が来るまでいてください」と哀願
しましたが、それを振り切って駆けつけたといいます。
思案橋の船に分乗していた不審士族と乱闘になり、寺本と河合・木村巡査が斬られました。
犯人たちは駆けつけてきた警察官らにより逮捕されました。
寺本は即死し、河合も翌日死亡しました。
犯人の首領は旧会津藩士の永岡久茂で、萩の前原一誠と呼応し共に決起することを約してい
ました。
前原らが決起したため、永岡一味は思案橋より千葉に向かい、県庁を襲い、県令・参事を殺す
計画であったといいます。
寺本は明治五年以降、三番目の殉職者となりました。墓の左には「為寺本義久君」と彫られた
顕彰碑があります。これは事件の翌月に、川路利良によって建立されたものです。
さらに政府は寺本の遺族に対し300円を給しています。
殉職警察官にたいしこのような立派な墓と顕彰碑を建てたのには、翌年の西南戦争を見越して
いたのではないかと思われます。西南戦争では878人が殉職していますが、彼らの墓は寺本
に比べると四分の一にも満たないような小さなものです。
綱淵謙錠先生が染井霊園に寺本の墓を訪ねた際のことを「苔」という作品に書いています。
私はこの作品がとても好きです。
寺本とともに殉職した河合好直ですが、長らく墓所が不明でしたが、東京都文京区白山2-
10-3喜運寺にあることを釣洋一先生が発見してくれました。
釣先生にご案内いただきさっそく訪れましたが、寺本の墓の横にあるのと同じく川路が建てた
顕彰碑が、墓の横に建っていました。

※写真は染井霊園にある寺本の墓

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白虎隊・篠澤虎之助の警察手帳

2010年11月29日 | 侍たちの警視庁
警視庁の参考室には篠澤虎之助の警察手帳が展示されています。

戊辰戦争で自刃した会津の白虎隊は有名ですが、生き残った隊士のその後はあまり知られて
いません。
白虎隊士のうち数人が、後に警視庁へ出仕しています。
その1人に、篠澤虎之助がいます。

嘉永5年(1852)会津藩士の家に生まれた篠澤は、戊辰戦争を17歳で迎え白虎隊士中二番隊
に配属されています。このうちの19名が飯盛山で自刃していますが、篠澤は生還した18名の
うちの1人です。

維新後は後函館に渡り、中邏卒に任ぜられました。
明治10年(1877)には一等巡査として西南戦争に出征し、坂梨の戦いで重傷を負い、翌日、
死亡しています。

戦闘時、篠澤の胸には警察手帳がありましたが、敵弾は手帳を貫き、篠澤の胸板をも貫きま
した。
警視庁参考室に展示されている篠澤の警察手帳は、血に染まり銃弾にえぐられています。

※写真は大分市護国神社にある篠澤虎之助の墓
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川路利良の刀

2010年11月28日 | 川路利良
警視庁の参考室には川路利良の刀が展示されています。

初代大警視となった川路利良の生まれは、与力という低い身分でした。
そんな川路が大警視にまで登り詰めたのには、当然理由があります。
その理由の一つに、禁門の変での戦功が挙げられます。

元治元年(1864)禁門の変が勃発すると、川路は松江の刀匠・高橋長信の鍛えた二尺七寸四分の
長刀を手に出陣しています。
薩摩藩の川上助八郎が長州藩国司信濃隊の篠原秀太郎に斬り伏せられようとしていたのを目撃
した川路は、二人の間に割って入り、篠原を討ち果たしています。
この働きが西郷隆盛の目にとまり、以後その知遇を得たといいます。
そうなると、篠原を斬ったことが大警視への第一歩であったと言っても過言ではありません。

川路が討ち果たした篠原の墓は、京都市東山区清閑寺霊山町の霊山護国神社と、山口県下関市
吉田の東行庵にあります。
東行庵の墓は18歳で戦死した篠原としてはとても立派なものでした。篠原を愛し、その死を
悼んだ家族や仲間の想いが偲ばれます。

展示されている川路の愛刀を鍛えた高橋長信の墓は、島根県松江市寺町の常教寺にあります。

※写真は東行庵にある篠原秀太郎の墓
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大久保利通暗殺に使用された刀

2010年11月27日 | 侍たちの警視庁
警視庁の参考室には大久保利通暗殺に使用された刀が展示されています。

明治11年5月14日、赤坂紀尾井町にて大久保利通内務卿が暗殺されました。
犯人は石川県士族島田一郎を中心とする不平士族でした。
暗殺者たちの墓は石川県金沢市の野田山と、東京都台東区の谷中霊園にあります。

この暗殺者たちの中に、1年前まで警視庁巡査だった人物が2人いることはあまり知られてい
ません。浅井寿篤と松田秀彦です。
旧鳥取藩士の浅井寿篤は明治9年(1876)に警視庁巡査を任ぜられています。
明治10年には西南戦争に出征し、凱旋後の慰労休暇中に貸座敷に遊興するという禁令を犯し
たため免職となりました。その後大久保利通暗殺計画への参加を願い出て、紀尾井町の襲撃
に参加しています。
旧鳥取藩士の松田秀彦は明治8年(1875)に警視庁巡査を任ぜられています。
明治10年には西南戦争に出征し、翌年には老母を養うために辞職しています。
大久保利通暗殺計画を聞き後挙を約束していたため、事件後に逮捕され禁獄10年に処されて
います。

浅井は牛込の市ヶ谷監獄にて山田吉亮により斬首に処されています。
松田は明治19年(1886)に特赦で出獄後し、その後は武道家として活躍しています。

※写真は野田山にある浅井の墓
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警視庁参考室

2010年11月26日 | イベント
警視庁見学会にて、僭越ながら参考室の展示品について解説をさせていただきました。
機会をいただけ光栄でした。ありがとうございます。
警視庁参考室の展示資料は1,000点を数えますが、当ブログではこれから数回に分けて
明治時代の3点について解説いたします。


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