幕末掃苔屋 公式ブログ

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高橋完治様とお会いしてきました

2012年08月13日 | その他

高橋お伝を研究されている高橋完治様とお会いしてきました。

私は明治初年の警視庁を調べているので、お伝については以前より関心を抱いていました。
そして昨年の谷中霊園巡墓会でお伝の墓を解説したのがきっかけとなり、調べ始めました。

まずは簡単にお伝の生涯を紹介したいと思います。
お伝は上野国利根郡下牧村(現在の群馬県みなかみ町)に生まれています。
慶応二年に波之助と結婚しています。
仲の良い夫婦だったと伝わっていますが、波之助が病を患い働けなくなってしまったため、田畑を手放し東京に出ています。
しかし浪之助の病状はどんどん悪くなり、明治五年に浪之助は亡くなってしまいます。
芝居や小説などではお伝が浪之助を殺したと描いているものもありますが、それはお伝を毒婦に仕立てて物語を面白くするための作家が行ったフィクションです。
その後、お伝は妾となったり体を売ったりして生活していたようですが、遊び人の小川市太郎と出会い同棲を始めます。
市太郎を養うために金策に走り、明治九年、古着屋の後藤吉蔵に借金の相談をし、約束を破った吉蔵を浅草の旅籠で殺害し、数日後に逮捕されています。
裁判所はお伝を故郷の下牧村預かりにしようと打診しましたが、村は受け入れを拒んだため、明治十二年一月三十一日、斬首の刑に処されています。

刑を執行したのは八代目山田浅右衛門の弟・山田吉亮でした。
山田吉亮は十七年間で三百人あまりを斬っていますが、お伝のことを「手前が手がけた女のうちでは一番のしたたかもので、その大胆さには驚きました」と語っています。
山田吉亮によると、死ぬ間際まで小川市太郎の名を叫び続けていたそうです。

お伝の遺体は小山内薫の父で軍医の小山内健によって解剖され、髑髏は漢方医の元で保存されたという話が伝わっています。
また、お伝の性器は解剖の際に切り取られ、ホルマリン漬けにされて陸軍医学学校に陳列されたという話も伝わっています。
清野謙次博士がお伝の性器について写真つきの詳しい資料を残しており、今でも国会図書館で見ることができます。
『阿傳陰部考』というタイトルの本で、ホルマリン漬けのお伝の性器の鮮明な写真が二枚掲載されています。
写真を見た瞬間、こんな写真を掲載してよいのかと大きな衝撃を受けました。
苦手な方には決してお勧めできませんが、現在では考えられない非人道的なことがまかり通っていた明治という時代を知る上では、意味のある資料だと思います。

お伝のことを知りたいと思い、本とインターネットで調べたところ、出会えたのが高橋様のウェブサイト「彩遊季」でした。
高橋様はお伝と同じ下牧村のご出身で、先祖をたどればお伝や夫の波之助の親戚につながるということです。
お伝は当時のマスコミや作家によって稀代の悪女のように書かれ、当時の人々はそれを信じ、その悪女のイメージが現在では定着しているように思われます。
高橋様がお伝のことを調べ始めたのも、世間に広まっている虚像を晴らし、真実のお伝像を一人でも多くの方に理解してほしいとの思いからだとのことです。
三時間にわたって高橋様からお話を伺いましたが、高橋様の研究姿勢にとても共感を覚え、私も微力ながらお伝を弁護していきたいと思いました。

高橋様のウェブサイト「彩遊季」はこちらです。
真実のお伝に関心のある方は、ぜひご覧ください。


※写真は小塚原回向院にあるお伝の墓



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1 コメント

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お傳のグログについて (高橋完治)
2016-12-22 12:04:50
河内様へ
随分のご無沙汰をしておりますが、
貴方様にはその後もご活躍と想像しております、私も84歳になりました。お傳のHP彩游季を止めて新たにブログ「甦れ高橋お傳」http://yomigaere-oden.blog.jp/archives/7921391.html を作りました。新年の四月2日ころにお傳の墓参りをしたいと思っております、その折りにお逢いできれば嬉しいです。河内様には今後もご活躍下るよう願っております。









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