幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

カトケンさんの原稿公開開始

2011年10月31日 | お知らせ

Webサイト「幕末掃苔屋」内の「探墓巡礼顕彰会」コーナーにて、会員であるカトケンさんの連載記事の公開を開始しました。

http://kawachisoutai.chu.jp/tanboko2.html
カトケンさんのプロフィールは以下の通りです。

加藤 健太郎
昭和50年(1975)静岡市生まれ。
中学の修学旅行で京都へ行き、幕末を調べたことをきっかけに歴史探究の道へのめり込む。
高知大学人文学部で日本近代史を専攻、旧土佐勤王党の人々が明治に至って自由民権運動に反対したことを卒業論文のテーマにし、平成11年(1999)に「明治初期における高知県の反自由民権派について」(『海南史学』37号)を上梓。
関心は土佐藩以外にも水戸藩、幕臣など歴史の敗者をテーマとして人間の生き様に光を当てること。
共著に『高知県の不思議事典』(新人物往来社)。
昨年12月『土佐史談』に初寄稿となる「吉田松陰と坂本龍馬を繋ぐもの―小田村素太郎(楫取素彦)を通して―」を上梓予定。
高知海南史学会会員。土佐史談会関東支部理事。
旗本加藤筑後守忠恕から4代目。

こちらの原稿は過去に全国誌『歴史研究』に掲載された原稿で、『歴史研究』の許可をいただき、掲載しております。
カトケンさんは現在も『歴史研究』にて連載中です。
ぜひこちらもご覧下さい。


金子さんの原稿「二本松掃苔録③」公開

2011年10月30日 | お知らせ

Webサイト「幕末掃苔屋」の「探墓巡礼顕彰会」のコーナーに、月刊『歴史研究』に掲載された金子さんの原稿「二本松掃苔録③~戒石銘碑の発案者岩井田昨非の墓~」を公開しました。

戒石銘碑とは二本松藩霞ヶ城にある大石で、
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」
と刻まれています。
「お前達武士の俸給は、民が脂して働いた賜物より得ているのである。お前は民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて民を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ」という意味だそうです。

これによく似た言葉が、川路大警視の部下への訓示をまとめた『警察手眼』の中にあります。
「官員ハ元来公衆ノ膏血ヲ似テ買ハレタル物品ノ如シ」
というものです。
この言葉について、警視庁史・川路利良研究の第一人者である武藤誠先生は、著書『明治の炎「警察手眼の世界」』(啓正社文庫)で、「川路のこの“膏血論”は、二本松市の戒石銘碑からヒントを得たのではないかと思う」と述べられています。
川路大警視は戊辰戦争の際に二本松の付近を転戦しているので、戒石銘碑について知る機会があったのではないかと推測なさっています。

武藤先生の『明治の炎「警察手眼の世界」』を拝読し、私も戒石銘碑を見たくなって、6年ほど前に二本松を訪れました。
その際に、巡査となって西南戦争に出征した大桶弘蔵(二本松少年隊・大桶勝十郎の弟)の墓と出会うこともできました。
武藤先生からはお手紙等でも貴重な情報をご教授いただいており、大変感謝しております。

※写真は戒石銘碑



竹さまの「戊辰掃苔録」

2011年10月28日 | お知らせ

竹さまの「戊辰掃苔録」と私の「幕末掃苔屋」が、相互リンクをすることになりました。
竹さまは戊辰戦争専門の掃苔家として東日本を中心に飛び回っておられ、「戊辰掃苔録」では戊辰戦争戦死者のお墓を東軍西軍の分け隔てなく取り上げています(拙ブログをご覧の方であればすでにご存じの方も多いとは思います)。
これまでに2,000基ほどの戊辰戦争関係の墓を掃苔してきたとのこと。
他の方によってあまり調査が及んでいない分野を一人で黙々と掘り下げていくところなど、非常に共感できます。
竹さまの「戊辰掃苔録」へは、「幕末掃苔屋」のリンクページから飛べます。


「戊辰掃苔録」
http://boshinsoutairoku.bufsiz.jp/

「幕末掃苔屋」
http://kawachisoutai.chu.jp/

同時代人が語る川路大警視

2011年10月27日 | 川路利良

以前、当ブログにて高杉晋作が川路正之進と名乗っていた頃の川路大警視のことを「有志士」と語ったという内容を紹介しましたが、その後も何人かの同時代人が川路大警視について語ったものがあったため、以下にまとめてみました。

『大久保利通』(佐々木克 監修、講談社学術文庫)には河瀬秀治の「警保寮の権頭は村田がやっていて、勧業寮は私、前島さんが今の逓信の方は杉浦がやっていた。東京の警保は川路大警視がやっていましたが、これはなかなかの人物であった。」という言葉と、
高島鞆之助の「石川県の士族がコレコレの不穏な目的で東京へ入り込んだということは分かっていたそうじゃが、川路大警視が、加賀ッぽうに何がでくるかと言って平気でいたのじゃそうな。この話は間違いはあるまい。その証拠にはあの時においが行っておると、川路はすぐに顔色を変えて飛んで来て、非常に残念がり手帳を出して人名を指し、コレコレの六人の奴らの仕業に違いない、口惜しいことをしたと言って手帳を叩いて涙をこぼしていた。」という言葉が掲載されています。

『西南記伝』(黒竜会、原書房)には永山弥一郎の「一日、桐野利秋等、同志を會し、時政を可否し、當路者の無能を罵る。彌一郎曰く『川路利良等の堅志力行、亦、尋常人の企て及ぶ所に非ず。諸君にして油断せば、失敗を招くに至らん』と。衆皆黙然たりしと云ふ」という言葉が掲載されています。

『川路利良に学ぶ』(桜島次郎、桜島出版)には東郷平八郎の「何とん知れんとがとぁ書こごちぁなか(何者かわからない者のは書きたくない)」という言葉が掲載されています。これは東郷平八郎に川路大警視誕生地記念碑の文字を依頼した際の返事だと言います。土地の土岐氏から直接聞いた話であると記され、東郷が断った理由については「大の西郷党であったからだろう。」と記されています。

このほかにも部下や関係者が川路大警視についてたくさん語っていますが、それらについては川路大警視の伝記等でまとめられているのでここでは紹介しません。
同時代人が川路大警視について語ったものは他にもたくさんあると思われますが、 私はまだ出会えていません。
また、同時代人が川路大警視について記した書簡や日記も多数残されているので、今後はそれらも調べていきたいと思っています。

※写真は鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にある永山弥一郎の墓


佐竹さまの「歴史と旅」

2011年10月26日 | お知らせ

佐竹さまの「歴史と旅」と私の「幕末掃苔屋」が、相互リンクをすることになりました。
佐竹さまは掃苔家として半端ない方ですが、日本全国の滝や五重塔、即身仏巡りなども行っておられます(拙ブログをご覧の方であればすでにご存じの方も多いとは思います)。
その興味の対象物や行動にはシンパシーを感じ、質量にはリスペクトの念を禁じえません。佐竹さまの「歴史と旅」へは、Webサイト「幕末掃苔屋」のリンクページから飛べます。


「歴史と旅」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/
「幕末掃苔屋」
http://kawachisoutai.chu.jp/