幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

砂場と三舟

2012年03月28日 | 幕末グルメ

ここ数日、鴨南蛮を食べたい気分が続いていたので、虎ノ門の「砂場」で鴨南蛮そばを食べてきました。

勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟がこの店に通っていたと聞いていたので、本当かどうかを会計の際に尋ねてみました。
お店の方は、そのように聞いていますとおっしゃり、今も店に三舟の書が残されていることを教えてくれました。
勝海舟や山岡鉄舟と縁があるという店は何軒か知っていますが、高橋泥舟と縁がある店というのははじめてでした。

私は高橋泥舟と縁のあるらしい井戸金平という人物について調べています。
そのため高橋泥舟に縁がある店に来たことを、嬉しく思いました。
私が井戸金平を調べている理由については、前回の青山霊園巡墓会の際にお話しました。
当ブログでも、いつかご紹介したいと思います。


横浜散歩

2012年03月26日 | その他

先日、当ブログに以下の記事を載せました。

警視隊と蒸気機関車

警視隊の出征と凱旋

この記事を書くにあたり、横浜停車場とワーグマンについて確認しておきたいことがあり、横浜に行ってきました。
神奈川県立歴史博物館の資料室で調べものをしたあと、横浜開港資料館で開催中の企画展「フォトスタジオの聖地・横浜」を見てきました。
売店を覗くと、「幕末月旦札(トランプ)」とか、明治六年に堤磯右ヱ門が販売した本邦最初の石鹸の復刻版「磯右ヱ門SAVON」とか、面白そうなものがいくつかありました。
特に、ベアトの写真を立体化したジオラマ「幕末ニッポン ベアトの見た風景」には興味をそそられました。

横浜で調べたかったことはすべて済んだので、あとは散歩を楽しむことにしました。
中華街の梅蘭という有名な店に入り、名物の焼きそばを食べながらレモンハイをガブガブ飲みました。
店を出たあと、すでに満腹にもかかわらず、店先で売られていた「猫耳」という揚げパン風の菓子や、カスタード入りの揚げドーナツ「ハリネズミまん」を買い食いしてしまいました
さらに元町方面に向かい、ウチキパンでパンを買いました。
そのままブラブラと石川町駅方面に向かって歩いていると、唐人お吉の名前が書かれた看板が目に入りました。
気になって読んでみると、明治元年から四年までここにお吉と恋人の鶴松が住んでいたのだそうです。
その間、お吉に髪結いの仕事を紹介したり、身の回りの世話を焼いたのが門倉知加と小川かめいう二人の女性で、この二人が主人を務めていた店が石川屋という小料理屋として現在も営業中だと書いてありました。
これはぜひ行ってみたいと思いました。
石川屋は感じの良さそうなおでん屋でしたが、さすがに焼きそばにチューハイ、猫耳とハリネズミまんを食べたあとでは入る気になりませんでした。
横浜にはちょくちょく来るので、ぜひ今度入ってみたいと思います。


※写真は「猫耳」


警視隊の出征と凱旋

2012年03月24日 | 侍たちの警視庁

西南戦争が勃発し九州出張を命ぜられた警視隊は、蒸気機関車で新橋停車場から横浜停車場へと移動し、そこから九州に向けて出航しています。
画家のチャールズ・ワーグマンは、新橋停車場へ向かう警視隊の姿を描いた「日本警官隊の点呼」という作品と、横浜港に向かう警視隊の姿を描いた「薩摩の戦場に向かう江戸の警官」という作品を残しています。
おそらくワーグマンは東京から横浜まで警視隊に同行し、この二点の作品を描いたのだと思われます。
描かれた警視官たちはコート姿で六尺棒を携帯しています。
警視隊は横浜港から神奈川丸に乗り、九州に向けて出航しています。
ワーグマンの友人のアーネスト・サトウは日記に、警視隊の九州出張と戦闘について以下のように記しています。
「薩摩軍は、あきらかに退却せずとの決意を固め、はげしく戦っている。かれらと、全員が士族の出身であり、且つすぐれた剣士である巡査隊との刀による接戦が、戦闘の主要な部分を占めているようだが、かかる戦闘では政府の正規軍はほとんど役に立たないらしい。」「部隊の乗船がたえまなくおこなわれている。巡査の追加募集がいたるところでおこなわれているが、これに応募するのは皆士族である。これは危険な徴候である。」(萩原延壽/著 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄13 西南戦争』)
九州出張を終えて横浜に戻った警視隊は、往路と同じく蒸気機関車で新橋停車場へと移動しています。
京橋の警察博物館には、新橋停車場に到着した警視隊を描いた「警視隊凱旋」という絵が展示されています。
出迎えの群集の中を警視隊が行進する雄壮な絵ですが、描かれた警視官たちは銃を担いでいます。
警視隊の凱旋の様子は、喜多の『征西従軍日誌』の明治十年七月六日の部分に記されています。
「本日午前九時三十分、汽車にて横浜を発し、同十時三十分、東京新橋停車場に着。即ち戦地のままなる行粧にて、その行粧たる羅紗のマンテルの破れたるを麻糸をもって綴りたるあり。或いは帽子の無き者あり。または潰れたる帽子を被りたるあり。ズボンはことごとく廃てて、紺股引きに脚絆草鞋を穿ち、腰に用意の草鞋を付け、銃器を担い、整列押軍、別働第三旅団第四大隊、新橋停車場より鍛冶橋内警視本署に凱旋す。それより各位その分署分署に帰着せり。」


※写真はワーグマンの墓



警視隊と蒸気機関車

2012年03月22日 | 侍たちの警視庁

昨年、古写真研究家の森重さまから西南戦争や軍装史の研究家である鈴木徳臣さまを紹介していただきました。
以来、鈴木さまからは西南戦争に関するたくさんの貴重な情報をいただいております。

最も感謝していることの一つが、赤須忠良三等巡査の西南戦争従軍日記である『戦闘録』の存在をご教えてくださったことです。
警視官の西南戦争従軍日記といえば、喜多平四郎三等巡査の『征西従軍日誌』が有名ですが、『戦闘録』については坂井政治先生が『西南戦争之記録 第4号』にて紹介しています。
喜多の『征西従軍日誌』とも重なる部分が多く、興味深く拝読しました。
特に私が興味を持ったのは、警視隊出発の日の記録です。
喜多の『征西従軍日誌』の明治十年二月十日の部分には、
「午後一時本署を発し、同三時四十五分、新橋停車場汽車発横浜へ着。ここに大警視より内諭あり。その意、巡査においてはもとより悉く士族の者なり。故にこの度の出張、必ず他兵に劣らず充分の奮発一層の勉励を希望するとの意なり。今夜ここに一泊す。」と記されています。
赤須の『戦闘録』の明治十年二月十日の部分には、
「午後一時ヨリ小警視綿貫吉直ノ指揮ヲ受ケテ整列ヲナシ同時三十分頃二警視局ヲ繰出シ新橋ノ停車場二到リ従夫機車二乗リ込ミ三時頃ニ同所ヲ出発シテ横濱神奈川縣ノ停車場ニ着到ス此日少ク雨降ル四時頃ニ同所本町四甼目ノ松本屋忠介方ニ到リ一飯ヲ喫シ畢ツテ蒸機船エ乗リ込ム筈ノ處ロ船都合ニ依リ右宿エ泊ス此日六百名ノ巡査意気揚々トシテ実ニ隆盛ナリ」と記されています。
二人の日記から、警視隊が新橋―横浜間を蒸気機関車で移動したことがわかります。
西南戦争勃発時に新橋横浜間を走行していた蒸気機関車のうちの三両は、現在でも保存されています。
そのうちの二両は鉄道博物館と青梅鉄道公園で見ることができます。
残る一両は博物館明治村で保存されていますが、なんと平成二十二年まではお客さんを乗せて明治村内を走行していたというから驚かされます。
残念ながら現在は休止中のようですが、私は十五年ほど前にこの蒸気機関車に乗ったことがあります。
警視隊が乗ったであろう蒸気機関車に自分も乗車できたのは大変な感動のはずですが、当時は警視庁史に興味を持つ前であったため、残念ながらあまり記憶に残っていません。
蒸気機関車の前で写した一枚の写真だけが残っています。


※写真は再現された新橋停車場

いまさらですが延期のご報告

2012年03月21日 | 侍たちの警視庁

ここ数年間、『侍たちの警視庁』の続編である『侍たちの警視庁 大警視川路利良の時代』の製作を続けてきました。
今年一月完成予定と言ってきましたが、まだ完成していません。
昨年末の段階でほぼ完成していたのですが、その後、新たに出会った警視庁の侍の墓や、新たに知った大警視関連スポットを訪ねているうちに三月になってしまいました。
商業目的の本ではありませんが、贈呈の約束をしている方もいますので、ここにご報告いたします。
大幅に遅れてはいますが、そのぶん中身の濃いものに仕上げるつもりです。
少なくとも前作に倍する情報と情熱を注ぎ込んできました。
約二百ページ弱の本になりますが、数えてみたところ、約百回の取材旅行をしていました。
推薦文は釣洋一先生にお願いし、表紙イラストは桝田道也先生に手掛けていただいています。
まだ時間はかかりますが、意味のある本に仕上げたいと思っています。