探墓巡礼顕彰会-歴史研究会連携団体による墓碑調査プロジェクト-

全国歴史研究会の連携団体「探墓巡礼顕彰会」のブログです。

エトロフ(択捉)島の戸田亦太夫の墓

2017-03-28 19:30:00 | 会員の調査報告
会員のカネコです。

当ブログでは会員が実際に行ったことがあるお墓を紹介していますが、今回は行ったことがない、否、行けないお墓を紹介します。

少し前に投稿した初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓の中で、羽太正養が奉行職を解かれる理由となった文化4年(1807)にロシアがエトロフ(択捉)島を襲撃した文化露寇について触れました。
この時にシャナ(紗那)会所を守っていたのが幕府の役人であった戸田亦太夫です。

戸田亦太夫は寛政11年(1799)蝦夷地取締御用掛が新設された際に普請役として蝦夷地に赴き、享和3年(1803)箱館奉行支配調役下役、文化4年(1807)調役下役元締に進み、エトロフ(択捉)島のシャナ(紗那)会所に勤めていました。

同年4月29日(1807・6・5)ロシア船2艘がエトロフ(択捉)島南部のナイボ(内保)を襲撃し、さらにシャナ(紗那)へ進撃してきました。亦太夫の上役菊地惣内は箱館に出張中であったため、亦太夫は詰めていた南部・津軽各藩の兵に命じて、ロシア兵と一戦を交えましたが、陣屋は会所に劣っており敗れ、夜になって会所を焼き退却しました。亦太夫はこの責を負い、アリモエ(有萌)の地で自刃しました。34歳の若さであったといいます。その場所はその後、腹切沢と言われるようになりました。

この戦いでは間宮林蔵が奮戦したという話がありますが、実はこのことについては不明な点が多く、林蔵は大した活躍をしていなかったという説もあります。
また、亦太夫についても毀誉褒貶があります。『潮騒の択捉 島を返せ』には、幕府の医師久保田見達の「北地日記」に亦太夫は怯懦の男であったように書かれているが、本城玉藻の「根室千島両郷土史」の中の「択捉沿革史」の中では亦太夫は誉高い武士として描かれており、「根室郷土史」を書いた寺島柾史もこの説をとっているとあります。
さらにこの『潮騒の択捉 島を返せ』には択捉の小学校の校長である昆校長は遠足のたびごとに亦太夫の墓を訪れ、鎌をもって草を刈り、お墓の掃除をした後で線香を立ててお参りをしてから、児童達に亦太夫の事績について語っていたとあります。同書にはこの昆校長による祭文も載せられています。
洞富雄『間宮林蔵』には上記の「北地日記」や林蔵が村上島之允に語ったという『丁卯筆記』に林蔵が先制攻撃を主張したことや、奮戦したことが書かれていることを紹介していますが、その真偽については疑義を示しています。
その後の林蔵の英雄化に対比して、シャナ会所から退却した亦太夫の評価が下げられたのではないでしょうか。
しかし、ロシアの圧倒的な武力の前では果たして先制攻撃は効果的であったのでしょうか。上役不在の中で退却を決断した亦太夫の行動は、致し方ないことであったと思います。
寛政11年(1799)から文化4年(1807)の8年間にわたり、異境の地であった蝦夷地の行政に尽力した亦太夫にとっては無念の最期であったことでしょう。

『根室・千島歴史人名事典』にはエトロフ(択捉)島アリモエ(有萌)の亦太夫の墓の写真が載せられています。



正面に[戸田亦太夫藤原常保墓 文化四丁卯五月朔日]と刻まれており、これは亦太夫の息子又五郎によって建立されたものとあります。
亦太夫の自刃後の12月に、敗戦の責により俸禄、屋敷は没収されましたが、事情を考慮され、亦五郎は後に松前奉行支配同心に採用されています。
この事から見ても亦太夫は「怯懦の男」ではなく、エトロフを守るために一命を賭した男であったと思います。

この『根室・千島歴史人名事典』に載せられている亦太夫の墓の写真には「択捉島有萌にあった」と書かれていますので、果たして現在のこの墓が現存するかは分かりません。
例え墓石が無くなっていても、そう遠くない未来に再び日本人の手によって、この有萌の地に花が手向けれることを願っています。

尚、間宮林蔵については5月14日(日)開催の第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」にてお話したいと思っております。

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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム
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先祖への旅を続けながら江戸と京都を楽しむ

2017-03-27 22:14:54 | 会員の調査報告
今年に入ってからわが先祖の住まいを3ヶ所回った。
いずれも赤坂・六本木

六本木の1ヶ所が分からなくてうちが住んでた後に住まいとしていた家を調べたらすぐ出てきた。

東京へ出てきて最初に働いた職場からそう遠くなく、よく散歩がてら歩いた場所だった。

かつて麻布市兵衛町と呼ばれたところで、今もある御組坂の東側である。



ちなみに赤坂はこんな具合になっている。



(薬研坂)



(今井谷)

今月京都に行ったついでに見てきたのが、わが高祖母の実家野村家は領主堀尾家が断絶したため女系である石川家を頼ったのだが、その石川忠總の墓。
本禅寺

清浄華院の北隣にあり、梨木神社を覗いてから訪ねた。



この石川忠總は大久保忠隣の息子で、同寺には大久保加賀守と刻まれた墓もあった。
この本禅寺でゆっくりできなかったのは、その後この5月に行う巡墓会の下調べがあったからである。

すなわち、金座銀座後藤家を追って十念寺、
大判座後藤家を調べに紫野常徳寺や蓮台寺を訪れる必要があった。

レンタサイクルを借りて最後に船岡温泉に入って汗を流し、宿へ向かったーーまだまだこの京都で調べた成果を5/14披露します。お楽しみに!

会員カトケン

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探墓巡礼顕彰会では5月14日(日)に第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」申込みフォーム
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桑名照源寺にある楽翁公の墓

2017-03-09 23:47:04 | 会員の調査報告
会員のクロサカです。
再来月に迫ってきた深川巡墓会。
そこで、今回の巡墓人物の目玉の一人、松平定信のもう一つのお墓について、簡単に紹介したいと思います。



松平定信のお墓は、深川の寺町の一角、霊巌寺にあります。国指定史跡にも指定されており、歴史好きの方ならご存知の方も多いと思います。
しかし、定信の墓が松平家の領地だった三重県桑名に建立されているというのは、あまり知られていないかもしれません。
桑名の墓所は、松平家の菩提寺照源寺にあります。
現在こちらには、広大な面積に桑名藩主松平家の墓所が形成されており、初代定綱を筆頭に、6人の藩主や正室、側室、子女など、計20基以上の墓碑が林立しています。
その中に松平定信の墓があります。
墓碑正面には「樂翁源公之墓」とあり、立派な墓所ですが、代々の墓碑に比べて同じくらいかやや小ぶりな墓石でした。
寛政の改革を行い、幕府の中枢にいたということが、教科書や歴史書などで注目される人物ですが、国元と江戸にある彼の墓碑を見ることで、彼の生き様が垣間見えるような気がしました。

今度の巡墓会では、松平定信の本墓や多くの大名家の墓所がある霊巌寺を中心に巡る予定ですので、ご興味を持たれましたら、下記の参加フォームから申し込みをお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-

こちらの参加フォームから本巡墓会の詳細が確認できます。
探墓巡礼顕彰会のメンバー一同、心からご参加をお待ちしております。
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第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」開催のお知らせ

2017-02-21 22:41:31 | イベント
会員のカネコです。
探墓巡礼顕彰会では、第14回目となる巡墓会を5月14日(日)深川近辺の寺院にて行うことになりました。
深川近辺の寺院に眠る主に江戸初期と三大改革期の人物の墓参を行い、その事蹟を解説いたします。
皆さまのご参加をお待ちしております。

開催要項は以下のとおりです。

■開催要項
★日時 平成29年5月14日(日)雨天決行
12:30 地下鉄清澄白河駅A3出口にて受付開始
13:00 寺院へ移動後、開会式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
      巡墓会開始
      (途中・集合写真撮影・トイレ休憩有り)
16:30 現地にて解散式
      探墓巡礼顕彰会幹事より挨拶
17:00 懇親会

★集合場所:地下鉄清澄白河駅A3出口を出た所
【交通】東京メトロ半蔵門線/都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅




★講師:探墓巡礼顕彰会幹事

★巡墓寺院
霊巌寺・成等院・浄心寺・本立院墓地・雲光院
※寺院への問い合わせはご遠慮下さい。

★主な巡墓人物
松平定信(白河藩主、老中、寛政の改革)
森陳明(桑名藩士、箱館新選組)
紀伊国屋文左衛門(商人、みかん船)
矢部定謙(江戸町奉行、火盗改)
三沢局(徳川家綱乳母)
間宮林蔵(幕臣、北方探検家、間宮海峡)
阿茶局(徳川家康側室、大坂冬の陣)
後藤三右衛門(商人、水野忠邦の三羽烏)

★参加費用:1,500円(資料代含む)
(定員20名~30名程度・参加費は当日受付にて)

★解散後、希望者で懇親会を行います。
(3,000円程度/場所:清澄白河駅近辺にて)

参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第14回巡墓会「深川巡墓会~江戸の始まりと幕末黎明期の群像~」-申込みフォーム-


【深川巡墓会開催における注意事項】
※寺院での開催となりますので、本堂へ参拝の後、墓地巡拝となります。墓碑解説の前に合掌をお願いいたします。
※墓地内移動中は檀家様の墓参の妨げとならいようお気を付け下さい。
※墓域内への立ち入りができない墓所もありますので、その場合は塀外・柵外からの拝観となりますのでご了承下さい。
※墓地内は一部、足下が悪い場所がありますのでお気を付け下さい。
※ゴミ等はお持ち帰り下さい。
※体調が悪くなった場合は幹事にお申し出下さい。
※震災によって傾いたり、倒壊した墓碑や石灯籠がありますので、近寄らないで下さい。
※大きな地震が起きた際は、墓碑や石灯籠が倒壊する恐れがありますので、速やかに離れて下さい。
※急な天候の変化によって中止する場合がありますのでご了承下さい。
※雨天の場合は足下が悪くなるため、歩きやすい靴でお越し下さい。
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間宮豊前守信盛の墓-間宮林蔵の先祖考-

2017-02-05 22:03:24 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
京急川崎駅の下りホームを降り、左側に目をやると、寺院墓地が広がっています。
これは曹洞宗瑞龍山宗三寺の墓地です。
私は日々この風景を見ながら出勤しています。
この墓地の京急寄りの壁際に間宮豊前守信盛の墓碑があります。
宗三寺は創建年不詳ですが、鎌倉期に創建された禅宗勝福寺が前身と言われ、佐々木四郎左衛門高綱の菩提寺となったものの、その後、衰退し、戦国期になり小田原北条氏の家臣であった間宮豊前守信盛が開基となって中興しています。

『寛政譜』によるとこの信盛は江戸期に複数の旗本家を輩出した間宮家の祖であり、宇多源氏佐々木庶流を称しています。
『寛政譜』の冒頭には次のように書かれています。
「間宮 先祖は萬石、眞野、船木等を称し、新左衛門信冬伊豆國田方郡間宮村に住せしより称号とす。」
系譜には上記信冬の後「寛永系図に、信冬より豊前守某にいたるまで、其間中絶せりといふ。」とあり、その後「某 豊前守 今の呈譜に信盛につくる。北條早雲及び氏綱につかふ。某年死す。法名宗三」とあり、その子「某 豊前守 今の呈譜に信元に作る。」その子「康俊 豊前守」と続いています。
康俊は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の際、伊豆山中城で戦死。その孫直元が徳川家康に仕え、旗本になっています。康俊の子信高、元重も旗本となっており、また、娘お久(普照院)は家康の側室となり、松姫を産んでいますが、松姫は早世しています。





宗三寺の信盛の墓碑は正面に[人皇五十九代宇多天皇第八皇子一品式部卿敦實親王十六代後胤 當寺開基雲谷宗三居士 佐々木間宮豊前守入道源康信]と刻まれており、信盛ではなく、曾孫の康信の名が刻まれています。しかし、宗三は信盛の法名であり、寺の中興開基であるので、この墓碑が信盛のものであることは間違いないでしょう。
側面には天和3年(1683)に間宮金五郎尉盛正によって建立されたことが刻まれています。
この金五郎尉盛正の名が『寛政譜』には見られない名であり、信盛との繋がりは不明です。
側面と正面の刻銘を比べると、側面は天和の頃のものに思われますが、正面は後年彫り直したようにも見られ、改修が加えられたようにも見られます。
それはともかく、信盛が宗三寺の開基として大切にされていたことは間違いなく、江戸期に数多くの旗本家を生みだした間宮一族の祖の墓としての風格を持った墓碑であると言えます。

さて、間宮と言えば、前回の記事で名前が挙がった北方探検家間宮林蔵が最も著名な人物となります。

初代蝦夷奉行羽太安芸守正養の墓

林蔵は常陸国筑波郡上平柳村の農家の生まれ、その才覚で出世し、最後は幕臣に取り立てられた人物です。
林蔵の先祖について、洞富雄著『間宮林蔵』(吉川弘文館 人物叢書)には次のように書かれています。
「庄兵衛(林蔵の父)の祖先は、間宮隼人という武士で、寛永年中(一説には、嘉吉年間あるいは慶長年間ともいう)に、この村に移り住んで百姓になったと伝えられる。」とあります。
この間宮隼人について前田右勝編著『神奈河戦国史稿』には康俊の子として、掲載されている系図にも康俊の子として記載されています。この出典として『磯子の史話』『茨城県大百科辞典』が挙げられていますが、さらにこれら書籍の出典元を確認する必要があります。
少なくとも『寛政譜』には康俊の子に隼人という名は見られません。
間宮隼人が果たして康俊の子であるかは、様々な資料を比較検討せねばなりませんませんが、このような名のある武士の子孫が帰農するという話は日本全国に見られるものであり、これらの話を眉唾と一蹴することは簡単です。しかし、その家にとっては代々大切に伝えられている話であり、何故その苗字になったのか?その家紋を使用しているのか?ということは様々な角度からの検討が必要であると思います。
先日黒坂さんが書いた信濃国筑摩郡竹淵村に帰農した酒井家などもその好例です。

年頭のあいさつと謎の墓

間宮林蔵の家が康俊の子孫であると断定はできませんが、かつて小田原北条氏の重臣であった間宮氏の一族の一人が上平柳村に辿りつき帰農し、一族の中で著名であった信盛や康俊の系統に結び付けた可能性はあるのではないかと思います。
これに関してはつくばみらい市上平柳にある間宮林蔵記念館や林蔵の菩提寺である専称寺へ行き、追跡調査をしたと考えています。
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