幕末掃苔屋 公式ブログ

幕末掃苔屋のブログです。掃苔録不定期更新中。ご意見、ご感想はご自由にどうぞ。

川路と木村荘平

2011年05月31日 | 川路利良
先日、「吉野家」の牛丼をいただきました。
現在、大手牛丼チェーン店の値下げ競争が激化しているようです。

牛丼は牛鍋をどんぶり飯にかけたのが始まりだといわれています。
明治十年代、日本最大の牛鍋チェーン店は東京芝に本店を構える「いろは」でした。
この「いろは」の誕生には、川路大警視が関わっているようです。

明治維新後、牛肉を食べることが文明開化の象徴のようになり、急速に牛鍋店が増えました。
牛肉需要の増加に伴って民間の屠場が増えましたが、不衛生な屠場が多かったため、警視庁が管轄することになりました。
衛生的な屠場の整備を急ぐ川路大警視は、それを京都商人の木村荘平に任せようと考えました。

木村は鳥羽伏見の戦で薩摩藩の御用達を務めた人物ですが、借金を踏み倒されたため大損をしていました。
川路にとしては贖罪のつもりがあったのかもしれません。
川路に誘われ東京にやって来た木村は、官営屠場の払い下げを受けることに成功し、牛鍋店「いろは」を開業します。
「いろは」は大繁盛し、東京市内の20の支店にはそれぞれ木村の愛人が支配人として配置されたそうです。

先日、港区の正覚寺を訪れ、「いろは大王」と謳われた木村荘平の掃苔を行ってきました。
日本最大の牛鍋チェーン店となった「いろは」ですが、今はその牛鍋を味わうことはできません。
木村の死後、まもなく潰れてしまったようです。
川路がきっかけをつくった牛鍋を、一度味わってみたかったです。


※写真は明治村で食べた牛鍋


史遊会で講師を務めました

2011年05月23日 | イベント

5月21日(土)、史遊会主催のイベント「青山巡墓会」で講師の一人を務めさせていただきました。

史遊会は大出俊幸さん・粕谷一希さん・綱淵謙錠さんといったそうそうたる編集者の皆さんが立ち上げた伝統ある会です。
釣洋一先生にお誘いをいただき、喜んでお受けしました。
講師は釣先生を筆頭に、釣春音さん(釣先生の奥様)・金子さん・私の計4名で務めました。
釣先生は篠原泰之進・加納道廣・加藤高朗・岡澤精・木村芥舟を、
春音さんは安藤太郎・立石斧次郎を、
金子さんは後藤象二郎・香川敬三・勝小鹿・牧野忠泰・丹羽長国を、
私は市川団十郎・川路利良・大久保利道・安藤則命・黒田清隆の解説を担当しました。
川路を筆頭に思い入れのある人物ばかりだったので、解説にも熱が入りました。

少し暑すぎるくらいの好天の下、3時間にわたって青山霊園をご案内しました。
30人ほどの参加者の皆さんは最後まで熱心に解説に耳を傾けてくださり、とてもやりがいを感じた巡墓会でした。
中には80歳という女性もいらっしゃいましたが、その情熱と体力には頭が下がりました。

二次会では参加者の皆さんと懇親を深めることができ、5月29日(日)に開催する「谷中霊園巡墓会(前篇)」の宣伝もさせていただきました(詳しくは探墓巡礼顕彰会のブログをご覧ください)。
二次会の後は「幕末酒場・新選組屯所/春廼舎」に移動し、終電まで楽しい時間を過ごしました。

私にとって嬉しい出会いがいくつもあった巡墓会でした。
貴重な機会をくださった釣先生と史遊会の皆さんに、感謝いたします。

※写真は篠原泰之進の解説をする釣先生



『川路大警視追っかけ旅行記』

2011年05月15日 | 川路利良

七年ほど前から、明治初年の警視庁に在籍した侍たちの調査と掃苔に熱中しています。
そんな私にとって、日本警察の父といえる川路大警視はやはり特別な存在です。
川路大警視のことをもっと知りたいという思いから、様々な史跡を訪れてきました。
今回はその中からいくつかご紹介させていただきます。

※警視庁内には川路大警視と縁の深い部下が多数いますが、彼らの墓については『侍たちの警視庁』と重複するのでここでは掲載しません。

東京都
〇学問の師匠 重野安繹の墓 
〇学問の師匠 水本成美の墓
〇大根下しが縁となった土方久元の墓 
〇戦死した兵具隊士の墓
〇川路大警視邸跡記念碑 
〇川路とパリで飲んだ成島柳北の墓
〇川路が別れに際し漢詩をつくった伊地知正治の墓 
〇川路が寺本義久のために建立した燈篭 
〇川路が河合好直のために建立した燈篭 
〇川路が大久保利道のために建立した燈篭 
〇川路を祀る弥生慰霊堂 
〇川路を見舞った伊藤博文の墓
〇川路の遺品を展示する警察参考室
〇川路の遺品を展示する警察博物館 
〇川路の銅像

鹿児島県
〇生誕地記念碑 
〇川路家先祖の墓 
〇川路大警視の道(比志島から鶴丸城まで) 
〇川路が助太刀した川上助八郎の墓 
〇川路が碑文を草した西田十太郎の墓 
〇川路が碑文を草した黒川濤五郎の墓
〇川路が別れに際し漢詩をつくった西郷隆盛の墓
〇川路が別れに際し漢詩をつくった篠原国幹の墓 
〇川路の銅像(二体) 

長崎県
〇川路を撮影した内田九一の墓 

山口県
〇川路を「志のある者」と評した高杉晋作の墓(三基) 
〇川路が撃ったとされる来嶋又兵衛の墓 
〇川路が討ち果たした篠原秀太郎の墓

島根県
〇川路の刀を鍛えた高橋長信の墓 

京都府
〇川路を「志のある者」と評した高杉晋作の墓 
〇川路が撃ったとされる来嶋又兵衛の墓 
〇川路が討ち果たした篠原秀太郎の墓 
〇戦死した兵具隊士の墓

栃木県
〇戦死した兵具隊士の墓

福島県
〇川路が負傷した福島県石川郡浅川町 
〇戦死した兵具隊士の墓

この他にもたくさんの川路大警視関係史跡を訪れてきました。
いつか一冊にまとめたいと考えています。
私は川路大警視の崇拝者ではなくファンなので、タイトルは軟らかく『川路大警視追っかけ旅行記』としたいと思っています。
『侍たちの警視庁 改訂版』ともども、鋭意制作中です。

※写真は生誕地の目の前にあるバス停「大警視」

飯田市にも行ってきました

2011年05月12日 | 侍たちの警視庁

松本市で「たてもの野外博物館 松本市歴史の里」を見学した後、高速バスで長野県飯田市に向かいました。
目的は、飯田藩家老で維新後は警視庁に出仕した石澤謹吾の掃苔です。
石澤は宮城集治監初代典獄・樺戸集治監四代典獄として知られています。

飯田には2年前にも飯田藩主・堀親広の調査のために訪れたことがあります。
堀親広も警視庁に出仕しています。
ちなみに警視庁では飯田藩主の堀より飯田藩家老の石澤のほうが階級は上でした。
誕生間もない警視庁ではこのような上下関係が逆転した状況が多々見られますが、当事者同士はどのように感じていたのか、興味深いところです。

『幕末維新人名事典』や『三百藩家臣人名事典』によると、石澤の墓は飯田市江戸町正永寺にあると記されています。
正永寺の墓地を訪れ、十基ほどの墓が並ぶ石澤家墓域にたどり着くことができましたが、磨耗していてどれが石澤謹吾の墓かわかりません。
石澤は大正六年に亡くなっていますが、大正時代に建てられた墓にしてはどれも古すぎるように感じました。
お寺の方にお尋ねし、色々教えていただけましたが、石澤謹吾の墓の特定はできませんでした。

上記事典は墓所まで記載しているので、私はいつもお世話になっています。
しかしたまに事典に書かれている墓所を訪れてみても、実際には墓がないことがあります。
可能性は2つ考えられます。
事典が執筆された後に墓が移転されたか、かなり古い史料の情報をそのまま事典に引用したかです。

私は、“墓”=“故人の住居”=“どこよりも故人を感じることができる大切な場所”と考えています。
ブログや講演や執筆文でたくさんの墓を紹介してきましたが、自分で訪れて存在を確認し、お参りをした墓以外のことは紹介していません。
これからもその姿勢を崩すつもりはありません。

※写真は石澤家遠祖の墓域


松本市に行ってきました

2011年05月11日 | 侍たちの警視庁

長野県松本市にある「たてもの野外博物館 松本市歴史の里」に行ってきました。

ここには旧長野地方裁判所松本支部庁舎、旧松本少年刑務所独居舎房、旧昭和興行製糸場、工女宿宝来屋、木下尚江生家の計5棟の歴史的建造物が建ち並んでいます。
また、展示・休憩棟には山本茂実展示コーナー、川島芳子記念室、シベリア抑留展示コーナーがあります。

私がここを訪れた目的は、旧長野地方裁判所松本支部庁舎を見学するためです。
この建物は明治41年(1908)に松本城二の丸御殿跡に建てられた裁判所でしたが、庁舎新築に伴い取り壊しも検討されましたが、市民の保存運動により現在の地に移築されることになりました。
昭和57年(1982)に日本初の司法博物館として開館しましたが、平成14年(2002)からは松本市立博物館の附属施設「松本市歴史の里」として新たなスタートを切ったそうです。
警視庁の前身である警保寮が司法省の管轄であった関係から、私はこの博物館に前々から興味を持っていました。

建物内には明治時代の法廷で判事の法服を試着できるコーナーや、江戸時代の捕り物道具コレクションや取り調べ・処罰に使用された道具など、興味深い展示品がありました。
しかし私にとって一番魅力的だったのは、なんといってもこの建物(旧長野地方裁判所松本支部庁舎)の姿です。
規模は若干小さいながらも、写真が残されている初代警視庁舎(旧津山藩邸)に雰囲気がよく似ているのです。
明治時代の判事のコスプレよりも、明治時代の巡査のコスプレをさせてもらいたいなぁと思いました。

※写真は旧長野地方裁判所松本支部庁舎