鹿児島県に来ています。
鹿児島訪問は一年三ヵ月ぶりで四回目になります。
まずはJRで伊集院駅に向かいました。
伊集院を訪れるのは小松帯刀の掃苔以来なので十数年ぶりになります。
駅から徒歩で無量寿院竜泉寺跡に向かい、有馬新七を掃苔しました。
有馬を掃苔したかったのはもちろんですが、一番の目的は他にありました。
そのことについては、後日別の形で紹介したいと思います。
そのあと鹿児島中央駅に戻り、市電で涙橋に向かいました。
涙橋から川沿いに少し歩くと、川上家の墓地に着きます。
ここに川上助八郎の墓があります。
元治元年(1864)禁門の変が勃発すると、川上は長州藩国司信濃隊の篠原秀太郎と斬りあい
ました。
それを目撃した川路は二人の間に割って入り、篠原を討ち果たしています。
川路はこの働きが西郷隆盛の目にとまり、以後その知遇を得ることになります。
戦後、二人の間に功名争いが起きました。
島津久光が二人の刀を調べたところ、川路の刀には刃こぼれがなく、川上の刀には刃こぼれ
が多かったそうです。
川路は篠原の鎧を賜り、川上は島津久光より
「太刀の刃のかけたるを見れば、そのかみの高きいさほしのいちじるしきかな」
との和歌を賜ったといいます。
川上の墓のことは、川路利良研究の第一人者である肥後精一先生の著書で知りました。
墓のこと以外にも、川上が示現流の達人であったこと、屋久島奉行として島の開発に尽力した
こと、娘が松方正義の妻であることなどが書かれていました。
川上家の墓域はとても広く、驚かされます。
これほど大規模な墓域は、大名家以外ではなかなかお目にかかれません。
川上を合掌掃苔したあと、天文館に向かいました。
このあと今回の旅一番の目的に挑戦するのですが、そのことについては長くなりますのでまた
後日書きたいと思います。
※写真は川上助八郎の墓
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