「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

リバティ船と”復員だより”の頃

2013-06-11 05:51:29 | Weblog
先日、小ブログで戦争の不条理について書いたところ「大正生まれ」さんから、ご自身の復員時の体験が寄せられた。「大正生まれ」さんは昭和21年夏、敗戦から1年間、インドネシアのジャカルタの外港、タンジュン.プリオクで荷役などの使役に従事させられたれた後、やっと米国のリバティ型輸送船、V-040に乗り帰国できた。

敗戦時、海外には約660万人の在外邦人がいて、この引揚げ問題が急眉を要する問題であった。政府は引揚援助局を設け復員省など関係機関の協力で全力を尽くしたが、戦争で多数の船舶を失い、在留邦人全員を引揚げるには数年はかかるという状態であった。そこで、連合軍は戦争中、米国が開発したリバティ型輸送船を引揚船に急改造して日本政府に提供した。

海外からの引揚船第一船が横須賀に入港したのは20年12月14日だった。「大正生まれ」さんのような南方からの復員は、オーストラリア軍地区(ニューギニア、カリマンタン、セレベス)が早く、21年夏までには完了、オランダ英国軍地区(ジャワ、スマトラ、マレー、ビルマ)は22年にまでずれこんでいる。

当時国内ではNHKラジオが毎日「復員だより」という番組で、海外からの復員船の入港状況を流していた。そのテーマ音楽が川田正子さんが歌う童謡「里の秋」であった。その三番には「さようなら、さようなら 椰子の島 お船に乗られて帰られる お父様のご無事を今夜も母様と祈っている」とある。旧蘭印地区からの復員は22年5月までかかっている。しかし、ジャワの第16軍司令官、今村均大将が”戦犯容疑者とともに帰国したのは24年12月であった。しかし、旧ソ連のシベリア抑留者が完全に帰国したのは昭和30年に入ってからであった。