「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

”沖縄の事を思え” 戦時中の勤労動員

2013-06-07 05:28:43 | Weblog
毎年、梅雨のこの季節になると想い出されるのは昭和20年6月から7月にかけて千葉県東葛飾郡梅郷村(現流山市)に家を離れて学徒動員された時のことだ。東京の中学3年生だった僕らは、この村の利根川運河と江戸川との交差口に合宿し、暁9292部隊築城班の配下で運河の浚渫工事に従事した。来る日も来る日も二人1組になってモッコを担ぎ運河底の泥を地上へ運び上げる作業だった。

戦局は激化し、沖縄についで連合軍が本土、九十九里浜に上陸してくるといわれた時期だ。僕らの浚渫工事は本土決戦の際、軍の船が自由に運河を通って利根川と江戸川と往き来できるようにする作業だった。藁の急づくりの掘っ立て小屋に合宿し、孟宗竹の食器を支給されて僕らは朝早くから夕方まで、空腹を抱えてほとんど働き通しであった。中学3年といっても身体が出来ていない。肩が痛くなって休息すると”コラ、沖縄の事を思え”と現場監督から𠮟咤の声があがった。ラジオも新聞もなく、夜間、東京方面の空が明るくなったのをみてわが家は大丈夫なのかと心配した毎日であった。

今思うと、当時沖縄戦は終局を迎えていたのだ。6月13日には海軍の沖縄根拠地隊の大田実軍司令官が”沖縄県民かく戦えり。県民に対し、後世、特別な御高配を賜らんことを”との決別電報を海軍次官あてに打ち自決した。そして23日には沖縄戦最高司令官の牛島満司令官と長勇参謀長が摩文仁の丘で自決、組織的な戦闘は集結した。

僕らの運河での動員は7月8日解除され、東京に戻ったが、一面の焼け野原であった。しかし、その中で翌日から次の動員が待っており、僕らは別の軍需工場や鉄道の架線工事の仕事に動員された。沖縄戦で20万人の人が亡くなったことなど露一つ知らなかった。そして、そのあと広島、長崎への原爆投下された。。正直言って8月15日の天皇陛下の詔勅を聞いて、ほっとしたというのが、当時14歳の少年のいつわざる気持であった。