「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             三峰講 富士講 大山講

2013-06-04 05:53:45 | Weblog
昨夜、老妻が一泊二日の秩父の三峰講の旅から帰ってきた。災難除けを願って江戸時代から続いてる講である。従弟の家の先祖が都内で造り酒屋をやっていた旧家の関係で、数年前まで講元をしていた。その関係で老妻は参加しているが、僕は10数年前一度参加しただけで、そのあとは遠慮している。

講の旅は豪華である。都内の集合場所から往復バスで1泊3食付、神社へのご祈祷料、奉納舞付きだが、新聞に載っている格安旅行の倍近くの料金である。料理も年寄には食べきれないほどのご馳走だ。講の一行が神社につくと歓迎の花火が上がる。宿泊施設も立派で温泉まである。なかなか講の旅でなくては味あえない。しかし、僕が一度で参加をやめた理由は他人と一緒に一部屋に泊まる昔ながらの習慣である。昔は親睦の意味もあったのだろうが、今はプライバシーが保てないし安眠出来ない。

戦前昭和の頃は東京の区部でも講の旅が盛んだった。わが家の隣に住んでいた母方の本家の叔父は富士講に入っていた。いつも山開きの頃になると講中と一緒に富士登山していた。子供だった僕には、叔父が登山に使用した杖が珍しく、家の外で”六根清浄(ろっこん.しょうじょう)お山は晴天”と掛け声をかけて遊んだ記憶がある。

20年ほど前八王子に住んでいた頃、講ではないが飲み屋の仲間同士で大山詣でをした。あの落語で有名な大山詣で御師(おし)という神主の家に泊まって翌日ケーブルカーで神社に参拝した。この時も料理は豪華そのものだったが、宿泊設備は昔ながらであった。江戸時代は、講の仲間内で、ごろ寝同然に一緒に寝るのも楽しみの一つだったのだろうが、今はどうなのだろうか。そうかといってホテルのシングルに泊まっては講の有難味がない。