ビター☆チョコ

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キング罪の王

2006-11-30 | 洋画【か】行



海軍を退役したエルビス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、自分と母を捨てた会ったことのない父(ウィリアム・ハート)に会うために、テキサスの田舎町を訪れる。
父のデビッド・サンダウは裕福な牧師として、町の人々の信頼を集めている。
そんな成功者である父にとって、突然現れたエルビスという息子は過去の汚点でしかなかった。

テキサスの田舎町、コープス・クリスティという町。
コープス・クリスティというのは「キリストの死体、キリストの生きた証」という意味があるのだそうです。
その町で、物語は始まります。
牧師として成功している父に拒絶されたエルビスは、町を立ち去ることなくピザのデリバリーの仕事を見つけて父と同じ町で暮らし始めます。
たぶん、幼い頃から憧れていたであろう父に拒絶されたというのに、その表情からは大きな落胆も悲しみも憤りも感じられません。
ピザのデリバリーの仕事を無難にこなし、小さな部屋で自炊をする姿はごく普通の青年です。

しかし、彼は異母妹で16歳のマレリー(ペル・ジェームズ)に接近し、ついに血縁のタブーを超えてしまいます。
その事実に気がついた異母弟のポール(ポール・ダウ)に責められると、あっさりと刺殺してしまいます。

物語はその間も、ずっと静かにゆっくりと流れていきます。
凄惨な殺人が行われてるのに、誰しもが妙な静けさです。
衝動的に殺人を犯したエルビスは、パニックに陥ることもなく淡々と死体を始末して、
あとは涼しい顔です。

ポールの突然の失踪が、表面的には平和だったサンダウ家の均衡を崩します。
崩れ始めた均衡は雪崩のように最悪の結末に向かいます。
全ての決着をつけるため、エルビスは父の教会に向かいます。
「懺悔しよう、愛のために」
でも、懺悔というのは自分の罪を悔いている人間がするものです。
エルビスの澄んだ瞳に懺悔の色はありません。
もし、エルビスが懺悔したとして、宗教家としての父はその恐ろしい懺悔を許さなければなりません。
恐ろしい罪を懺悔されたとしても、牧師の立場では、その罪を公に告発することは出来ないのです。
若い日の自分の過ちが招いた不幸を、そのとき父は思い知り苦しむのか。。。
あるいは。。。。

エルビスがどのような行動をとるのか。
観客に委ねられた形で映画は幕を閉じます。
私には懺悔するエルビスは想像できません。
もっと単純で凄惨な場面を想像してしまいました。

現代版のカインとアベルをオイディプス・コンプレックスを混ぜて描いた。。というような監督の談話を読みましたが、それがどのようなものなのか私には残念ながらピンときません。
父への深い愛情が憎悪に変わったのか。
それとも、大きな動機もないのに、人間はこんなにも恐ろしい罪を重ねることができる生き物なのか。

はっきりしてるのは、エルビスには「過去」も「未来」もないのです。
あるのは「今」だけ。
そして「自分」だけ。なのです。
だから涼しい顔で恐ろしいことが出来てしまうのです。
それが不幸な生い立ちからきたことなのか。
それとも「悪魔」なのか。
あるいは「天使」なのか。
ガエル・ガルシア・ベルナルのイノセントな瞳が最後まで観るものを混乱させます。