パソコンは、人間の無智を条件とした機械のように思える。
使う人間が無智であれば、それに呼応して威力を発揮する機械である。
パソコン普及以前の黎明期には、パソコンを使う人は至極頭の良い人に見えていた。
ケータイが行きわたったとき、電車に乗り込むと同時にケータイをとり出して拝み始める人が急に増えた。歩きながら拝み続ける人も増えた。拝んでいる人は、みなケータイ呪縛にかかってるように見えた。
ケータイ人が無智に見えてくるのと同様に、パソコンにかじりついている自分も、手におえない無智原人に思えてくるようになった。
なぜだろうか。それは、机上の作業を手早くやるために使っていた道具が、時間を縛る足枷のようになってしまっているからと気づいた。
郵便全盛期には、早く見てほしいものは速達、もっと早く見てほしいものは電報という区別があった。
メールは無差別無分別である。すぐでなくてもよいものも、朝のうちに見なければ間に合わないものも、いっしょくたに放り込まれている。
受信トレイを毎日ほぼ同じ頃に見ることにしておかないと、タイマンのそしりをまぬかれなくなる。よくよく考えれば不自然なことだ。
毎日時間に縛られながら、不意にかかってくる電話よりは、メールが時間に縛られないものと、いつのまにか錯覚に陥っている。
メールの次がツイッター。誰彼区別なく見ていれば時間の無駄は無限大。誰のフォローもしなければ何も情報が入ってこないから、使わないのと同じで、意味が無限小。固定電話なら受話器を上げっぱなし、ケータイなら常に電源オフと同じこと。
その次はニュースのサイト。一つのサイトだけでは、一紙限定の新聞購読と同じことで、偏向情報しか入ってこない。
よく見れば見るほど、道理に合わない、辻褄さえ合わない文字列が多いのに気付く。つい何か言ってやりたくなる。だからツイッターかなどとバカなことを考えながら、またそれに時間を縛られる。
パソコン情報の出入りは、入りが1000、出が1ぐらいの割合ではないかと思う。自分でものを考える時間、あるいは何も考えずに頭を休める時間が吸い上げられてしまう。
こうして人間は、ますます無智に向かい、機械が求める条件に均等に適合していく。
しかし、無智をむやみに恥じることもない。多数の力でそれを条件にした大産業を支えているのだから。