マンガで見せればわかりやすくなるという、一種の迷信があります。
これを信じ切っている人に気に入ってもらう文書づくりはたいそう面倒でした。
"書"(しょ)は別として、文字を書くのに才能はいりません。
読みにくい文字でも、書かれた内容を読み取ることはできます。
マンガを描くには、それなりの才能が必要です。
工法の説明をマンガでわかりやすく描けという注文主の要求は、お絵描きの得意でない人には甚だ迷惑です。
文字だけではわかりにくいことを図解でというなら、あたりまえの方法です。
そうでなく、とにかく説明には必ずマンガを入れろという、マンガ教信者のような人が親分になっていたらしいその事務所からの注文にはいつも悩まされました。
マンガ教信者は、マンガこそが理解のクスリであるという安易な教義で、脳の構造がマンガのようになってしまっているのかもしれません。
認識の機構が、ものごとの理解はまずパターンをつかむことからとなっていて、文字優先の人とは全く違うのでしょう。
いまは、フリーのイラストがたくさんあるので、マンガ好きの注文にも応じやすくなりました。
ここでひとつ、壁が目の前に見えてきました。
パターンも文字もダメという人には、何を使って理解させたらよいか、これには参りました。
勉強部屋の仮住まいにしていた我が家の一室を、受験期を終えて出ていった孫あてに、ときどき大学からはがきが来ます。
パソコンと周辺機器を売る店が入り込んでいるのか、大学が販売代理店のようなことをしているのか、よくわかりませんが、そこから送られたパソコン診断会の通知です。
小学生にもパソコンを持たせてプログラミングを教科にすれば、全国にいきわたるまでの期間、市場は確実に拡大を続けられます。
何年か後には、1か0か、利か不利かでしかものごとを考えない若い人たちがもっと増えているような、いやな気配を感じています。
昨日のカレー屋の話は、描写に省略が過ぎたようなので、無駄話は説明を加えるたびにつまらなさが増してくるということを覚悟の上で書き加えてみます。
二か月ぐらいのご無沙汰だったと覚えています。
店に入っていくと、マスターが「ハロー、お久しぶり」と声をかけてきました。
昼前に暖簾の腕押し作業を済ませた後だったので、こちらの顔つきが冴えなかったか、セルフサービスのスープまで運んできてくれ、何かと気を遣ってくれます。
食べ始めてしばらくすると、「・・・・・、OK?」と近寄ってきてたずねます。
「・・・・・」の部分は聞き取れなかったのですが「OK」とだけ返事、こんな状況でした。
それがどうしたというぐらいのことです。
他人が自分にしてくれる行為には、善意、商魂、お節介、いろいろな受け取り方があります。
お互いさまの折り合いの付け方で、間柄がどうなっていくかに色合いがついていくようです。
色が付くなら明るい色のほうが、気持ちが好さそうに思ったという話で、ことさら深い意味があるわけでもなく、もちろん"学"という字などには無関係なことがらでした。
東京には、つまらない"学"よりもっとつまらない"論"にもならないやりとりで、暗い色に、もっと暗い色にと、折り合い外しゲームを、高い費用をかけて続けている場所もあるのが、また気になり始めます。
楽しみたい人はえてして身勝手、楽しませることの価値とそのための努力は相手次第、そんなところでしょうか。
ネパールの人がやっているカレーの店があります。
ワインを飲んでカレーを食べればほかに用はないのですが、食べている最中にも、何かしてほしいことはないかと聞きにきます。
パソコン勉強会に集まってくる人に、予定の教科がすんだあと、何か質問はないかと尋ねても、ほとんど何か問われることがないときと、店のマスターの気分と、どこか似通っているのではないかと、ふと思います。
こんなものがあるけれどもどうかというスペシャルメニュは、来客が考えておくことではないようです。
大掃除には、専用のメガネを使うとよさそうです。
濃い色の曇りガラスのような、はっきり見えないメガネです。
大掃除中にものがはっきり見えると、ついそこで興味が駐在してしまい、先に進みにくくなります。
昔の新聞が出てくると、面白いので読みふけります。
昔の写真や絵が見つかれば、懐かしいので眺め入ります。
パソコンに溜まったメールも、気を引くために巧みに書かれた件名に気をうばわれて、一つひとつ開いてみたくなります。
そんなことをしていれば、1万件の滞留メールを片づけるのに1年がかりでも終わりません。
中身は問題にせずばっさりまとめて処分、見たくても見えなくしてしまうのがいちばんでしょう。
大掃除は、ふだん行き届かない所をきれいにすることに目的を置く場合と、どうしても必要なものだけを残してきれいさっぱり身の周りを片付けることに目的を置く場合とでは、掃除の効果がまったく異なります。
行き届かない所をきれいにするだけでは、見た目はきれいになってもゴミまできれいに並べ直されていることもあります。
装飾品でないものには、きれいに見えても実態はゴミというものが数多くあることに、なるべく気付かないようにする性癖もそれを手伝います。
パソコンにため込まれたデータには、実態はゴミというものが増え続けることが多いのですが、それらはふだん目の前に現れないのでなかなか気づきません。
なかには、メーラーの受信トレイに、1万件を超える未読メールをため込んでいる人もいます。
大掃除用の道具で何かよいものはないかと、いま探しているところです。
スマホでその場を自分で写す遊びがはやっています。
電車の中でも、さすがに一人遊びは見かけませんが、友達と二人並んで百面相を始める子もいます。
映った自分の像を保存も送達もできるこの機能を、パソコンでも活用すれば、メーリングリストよりは顔や姿を見られるだけ受ける情報の幅が広がります。
地鶏よりも自撮りのほうが変換候補の先に出てくるほどになり、もうそんなことはあたりまえのようにやっているグループもあれば、写並みが揃わず、メールに送信者の名前を表示する方法を見つけることさえおぼつかないグループもあって、世は"さま"と"ざま"の間がどんどん広がっていくようです。
鵜飼は4~5の関係者によって成立します。
鵜を飼っていて魚を獲らせるよう操る人、それを見ながら魚を食べ盃を傾ける人、船を持っていてそこに客を呼び集める人、それに肝心の鵜、役割分担によっては4~5がもっと広がるかもしれません。
パソコン勉強会の場合、集まってくる人と、アドバイザーあるいはサポーターとは、鵜飼に置き換えるとそれぞれどの役割になるのでしょうか。
鵜飼が演じられる場では、どの役割がいちばんだいじにされるとよいのでしょう。
それがニュースの題材にされたとき、報道関係者あるいは視聴者がいちばんだいじということは考えにくいのですが、いかがでしょうか。
Excel では、全角で入力された数値は数字の並んだ文字データと認識し、数量データとは見てくれません。
ほかのセルに全角文字データを入れ、次に数量データを入れるような場合、いちいち入力モードを切り替えなくても、お利口な Excel は、全角数値を [Enter] 2回打ちで半角にしてくれます。
この便利さに慣れてしまうと、連続セルに数量データを入れるときも、全角のままで [Enter] 2回打ちを続ける人もいます。
それを見ていた初心者が、おやこれは便利とそのまねをすることもあります。
ちょっと大きめの数表に、全角入力で [Enter] 2回打ちをもたもた続けていたとき、そこは半角に切り替えたほうが早いと言われ、半角モードにして入力をはじめたら、そこでも [Enter] 2回打ちをやってしまい、上にできた空セルにまた戻って入れなおし、それを何度も続けてしまいます。
[Enter] は1回でよいのですと言われるまで気づかないという、作り話のようなことが実際に起きるのです。
これは便利・可能が招く無駄な操作の一例です。
初心者に特異な得意技をやって見せると、親切のつもりがあだになることもあるのでした。
あの人は理系か文系かという、人種分類を試みる人がいます。
その人はたぶん理系の人なのでしょう。
文系、理系の前には、事務屋か技術屋かという、主として携わってきた仕事による分類もありました。
仕事上の性格分類は、何となく区別してみたいだけの、知遊財産的価値もずっと薄れたものになってしまっています。
ITは部門ではなく、現代のあらゆるシステムの根幹に、くまなく組み入れられています。
好みも毛嫌いも、そんなことは問題にしてくれません。
Word 派か Excel 派かという分類に、意味がなくなっているのも、流れの中の小さな渦の姿のような気がします。
Google には「翻訳」という至極便利な機能があります。
ただこれは単語の言い換えには便利ですが、∵ か長文になると滑稽な文章になります。
ある事実が外国語で説明されているとき、それを日本語に翻訳しても意味のわからないところが出てきます。
日本語を外国語にしようと思っても、やはりそういうところは出てくるでしょう。
ものごとを考える頭の働き方は、使っている言葉が違えば、違う解釈や理解されにくいことはあたり前に起きます。
翻訳文では意味をつかめないから原文を読めと学者さんはよく言いますが、それは日本語で説明できない、あるいは説明の面倒を避けたい、言い逃れのようにも聞こえます。
あるパソコンクラブで、マウスが続いて壊れる異変が起きました。
∵ 次々にマウスが壊れるのか不思議でしたが、注意してよく見ていると、何ヶ月か続けている人でも、マウスのクリック操作がうまくいかないのです。
エレベーターや自販機のボタンを、きつく押す癖のついている人は、マウスも指の腹でギューギュー押しつけます。
先端を軽くたたけばよいのですが、この種のボタンは押せばいうことをきいてくれると思い込んでいる人は、反応があるまで力をこめて押し続けます。
これではマウスもたまりません。
ケースをうすいプラスチック板で作ってあるマウスは、反り返って接点がうまく付かなくなってしまいます。
初期にマウスの移動の練習ソフトで、移動ルートから外れないよう、ガチガチに力の入った状態を身につけたしまった不幸な人は、なかなか力を抜いて扱うことが飲み込めません。
練習ソフトのようなものを、頭だけで考えて作ると、思わぬ結果を招くこともあるので、こういうものにも発行・販売の検定のようなものが必要なのではないかとふと思いました。
街から遠いところに車で遠征するとき、スペアタイヤを積んでいないと不安です。
スペアタイヤをどういうものにするか、買ったときについてきた非駆動輪用テンパータイヤでよいか、5本揃えるか、スペアを積まずにランフラットタイヤにするか、迷う人もいればまったく無関心な人もいるでしょう。
コスパを8割に下げて5本揃えで回しながら使えばいちばん安心なようでも、タイヤ交換を安全にできる場所でパンクするかどうかは運任せになります。
パソコンのOSも、タイヤの5本揃えのようにいつも同じ状態のスペアを用意しておくことが、それほどだいじなのかどうかは疑問に思うところです。
OSのスペアがあっても、ハードウエアが故障した場合は、どうにも仕方がありません。
日進月歩のパソコンで同じ仕様のものを次に買うかどうか、たぶんその機会はないでしょう。
パソコンの不具合は、だいたいが使い方のまずさにかかってきそうな気がしています。
OSのスペアが安心材料になるかどうか、用心深い人を悪く言うわけではありませんが、スペアという言葉には、惜しんで使わないという意味もあるので、∵ か微妙な感じを持たされます。
ものを貯めたがる人と捨てたがる人がいます。
貯めたがる人は、何でもポンポン捨ててしまうのを見ると、∵ と思います。
捨てたがる人は、置き場に困っている様子を見て、やはり ∵ と思います。
貯めたがるのは、すぐには使わないものでも、あれば気持ちが落ち着くのでしょう。
捨てたがるのは、身の回りには何もないほうが、さっぱりして気持ちが良いのです。
パソコンのデータも同じで、途方もなく大容量の記憶装置をつないで、どんどんため込んでいるのを見るとカナ文字のお名前を差し上げたくなります。
データコレクター デタコレさん