パソコンの使い方は、いま抱えている問題によく似た例示が見つかれば理解しやすくなります。
こういう見方もあります。
例示の仕方で理解のほどがわかるから、やってごらんという、新しい例示づくりの勧めと、先に言った例示を見つけて理解を深めることは、方向の違ったそれぞれの関わり方になります。
しかし、例示は理解のための脇役でしかありませんから、例示の出来栄えを評価の対象にするのは見当違いです。
例示に力を注ぎすぎると、監督のブロックサインを何度も映してみせる間抜けな野球放送と、どこか似てくるような気がします。
矯めは、その効果が後に現れます。
アプリの使い方にも、一見まだるく見えて、矯めの利いた方法があって、のんきなユーザーは、それと知らずに矯めを利用しているかもしれません。
矯めは、じかに見せるためのものではありませんから、それが目立つようでは、まだまだ利いてないということになります。
知らず知らせず、見えず目立たず、それが矯めの極意なのでしょう。
書くという行為には、文字という体の外につくるものと、記憶という体の中のことを関連づける作用があります。
この関連付けは、「途切れない」こととは逆の、忘れるために書く人もいるのが面白いところです。
パソコンの操作手順をふむたびにそれをメモしたがる人がいます。
見ていると、紙の白い場所に、ところかまわず書いていて、その順序もつながりもさっぱりわからない書き方をする人にも出会います。
その人は、「覚える」ことは頭を無駄に使うので、すぐいっぱいになってしまう、パソコンのメモリのように、脳にも記憶容量の制限があると感じているのかもしれません。
「文書(2)」や「コピーXXX」と名前の付いたファイル、あるいは「新しいフォルダー」を、あちこちにこしらえてだいしにしている人がいます。
それができたときは、中身が別のファイルと同じか、まったく空っぽのどちらかです。
ものごとの運びに、どこかで区切りをつけて、いったん終わらせることには思いも及ばない結果なのでしょう。
芝居の幕引きを、どこかで一度でも見ていれば、考えが変わるかもしれません。
Web は類推の宝庫、これではちょっと言葉足らずです。
類推に使える材料の宝庫と言えば、いくらか正確に近づくでしょう。
言葉は便利なものでもあり、面倒なものでもあります。
パソコンも、便利なものでもあり、面倒なものでもあります。
Web は、言葉とパソコンの融合で機能が高まりますから、便利さも、面倒くささも掛け合わさります。
このことで、何か類推できるでしょうか?
いや、類推は、求めてする逆方向では効果を得られません。
パソコンの使い方に、ふたとおりの「り」があります。
理か利か、どちらを優先するかなどと先に考えていては、どちらの「り」にもかないません。
ことに応じ、ときに応じ、重みのかけ方は変わってあたりまえでしょう。
Webには質問するとすぐに答えてくれる人が現れて回答が得られるという、便利そうな、ときには危なそうなサイトがあります。
おおかたは、まじめな質問には、まじめに親切に回答をしてくださる方がたです。
しかし、名の通ったサイトでも、強情な管理人に行き当たると、気に染まない回答がはねのけられるだけでなく、回答投稿を封じられてしまうこともあります。
著名な新聞にも、おかしな編集者がいるのと、どこか似ているようにも思います。
滅多にどころか、決して使うことのないアイコンを、だいじにタスクバーに並べてあるパソコンに、ときどきお目にかかります。
いらないものを目の前に出てこなくする、そういう目で自分のパソコンをみると、いつの間にか邪魔ものが増えているのに気付きます。
Web検索で、目的以外の知識を、脇道から掘り出せることがしばしばあります。
どこにどういうものがあるかは予想がつきません。
そのとんでもなさが面白いのですが、また今度もと、欲や望みが頭の隅に先にちらついたときには、ろくなものは見つかりません。
Googleの画像で「様式」-「報告」を検索してみると、各所社各様の書式がずらっと並びます。
書類を作って出す人は、そのたびによく動かなくなった手で細かい字を書き入れなければなりません。
単発の書類なら気にもなりませんが、定期提出の書類で、毎回同じことを書かせられると面倒感が倍増します。
全国共通の様式の場合には、テンプレートが提供されているサイトもありますが、ここだけという書類の場合にはそれが使えません。
定型書式に似せてそっくりの用紙をつくるのも一つの方法ですが、これに書き入れなさいと送られてきたものを、わざわざ作りなおすのは、考えてみれば無駄なことです。
実際に必要なのは書き入れる文字だけで、その配置を所定に様式に合わせればよいのです。
決められた用紙に、書き入れる文字だけを印刷すればよいのでした。
これをWordでできるだけ簡単にやってのける方法を考えはじめたところです。
どなたか、これならどうかという方法があったら教えてください。
パソコンを、その呼び名のとおり真っ正直に使い続けていると、どうしても個々別々の考えや気分に閉じこもりがちになります。
議論することを、もめごとの始まりであるかのように嫌がっていると、意見交換すらできなくなります。
人の嫌がることはしない言わないと、変なことを言った総理大臣もいましたが、それがどういう結果を招いたか、これは事の大小の話ではありません。