小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

「淀殿」自筆書状問題について

2011年07月07日 | Weblog

 滋賀県長浜市にある知善院(ちぜんいん)に淀殿の書状が伝わっている。知善院では自筆と紹介している。この手紙は戦前から京都大学の日本史の教授により淀殿自筆と認定されていた。日本中世史の今谷明も、ある雑誌でこの書状を取り上げ、自分が京大の大学院生のとき、教授に連れられて知善院でその実物を拝見したことを語っている。
ところがである、同じ日本中世史の東大の桑田忠親が、この手紙は淀殿自筆ではなく、侍女「あこ」の代筆であるとの説を発表した。今谷氏はその説に対して不満であるようだが、といって積極的な反論はしていない。反論が出来ないのである。それはなぜか。
 実は、その自筆と言われてきた書状の署名は「あ」とみなされてきたからである。そこから侍女「あこ」の代筆説が出てきたのである。淀殿自筆書状なら、署名は「ちゃ ~」とか「よど」とあってしかるべきなのに・・。
 

 ー知善院書状の内容ー
 この手紙は非常にプライベートな内容である。宛先は「さい将殿」、つまり若狭宰相・京極高次、淀殿の妹、お初の夫である。関ケ原の合戦の後もたびたび大坂の秀頼と淀殿の元にお便りをくだされたことと、直接会いに来てくれたことなどに対する礼状である。そうして、また大坂にお越しくださることを心待ちしているとまで書き添えている。
 写真で見るかぎり、この書状は一種独特の個性的な字体で、とても祐筆や侍女の代筆とは思えない。それと、署名はこれまで「あ」とみなされてきたが、その崩し字から推定しても「よ」の可能性もあるのではないかと思われる。淀殿本人が「よど」の「よ」と署名したとも考えられる。

 ここで、よい範例がある。それは、私が北政所の本名問題で取り上げた織田信長の「ねね」宛ての手紙である。夫、秀吉の浮気癖を大目にみてやれと、信長が「ねね」をたしなめたものであるが、文面は平仮名が多い。おそらく、信長が口述したものを侍女のだれかが代筆したものであろう。
 ところが、差出人の署名はやはり平仮名で「 のぶ 」となっている。つまり、だれかの代筆であっても署名は「のぶ」とせよと信長自身が命じているのである。このような何の政治的な背景や思惑のないプライベートな手紙に代筆者の名前を書き入れるはずがない。代筆者はだれであろうとそれは問題ではない。
 
 仮に、侍女「あこ」の代筆であっても、署名は「ちゃ ~」とか「よど」または「よ」とせよと命ずるはずである。代筆者が自分の名前、それも省略して「あ」一字にするなどとは常識的にあり得ない。(桑田氏は署名は「あこ」と読めると言っているが、今谷氏は「あ」としている)。

 ーあと二つの淀殿書状ー
 桑田忠親著『淀君』(吉川弘文館)の中にあと二つの書状が紹介されている。その一つは淀殿の側近であった片桐且元の家系に伝わった淀殿から且元あての書状の写しで(原本は残っていない)。その署名は「ちゃ ~ より」となっている。このことから、桑田氏は淀殿は自分の書状には「ちゃちゃ」と署名した証拠であり、知善院の書状の署名「あこ」説の裏付けとしている。
 

 あと一つは、伊勢神宮附属の尼寺、慶光院の子孫の家に伝わる淀殿書状である。式年遷宮に合わせて宇治橋を新たに普請する旨を、当時の慶光院周養上人(女性)に書き送った手紙である。この書状もこれまで淀殿自筆とされてきたが、署名はやはり「あ」とされているが「よ」または「よど」とも見える。
 桑田氏はこの書状も侍女「あこ」の代筆としている。はたしてそうであろうか。

 上記二つの手紙には大きな違いがある。片桐且元宛てのそれは豊臣秀頼の後見人(生母)としての公的な立場から出されている。有名な方広寺鐘銘事件で釈明のため駿府に赴いた且元は家康に体よくあしらわれ、徳川方に寝返った裏切り者よばわりされ、豊臣家臣から命さえ狙われていた。このようなとき、淀殿が詳しく事のいきさつを知りたいので大阪城に来るようにとの催促の手紙である。片桐且元は勿論行かなかった。正解である。行っておれば間違いなく命はなかったであろう。淀殿側近中には老獪な家康と渡り合える人物はいなっかたのである。
 この書状の署名が「ちゃ ~」となっていることは、豊臣家の家臣に対しては「ちゃちゃ」の名で手紙を出していたことを物語っている。

 では慶光院の書状はどうか。伊勢神宮の宇治橋の普請を片桐且元に申し付けたと事務的な手紙のようであるが、終わりの方で、「秀頼と二人とも息災であるから安心してください」とあり、続けて「江戸でも若君が誕生されたこと、これまたご安心お願い存じます」と書かれている。秀頼に「様」を付けず呼び捨てにしたり、江戸の妹、お江の消息を伝えているなど、かなりプライベートなことを書いている。
 これから見えてくることは、この手紙の受取人である周養上人と淀殿とは面識があり、個人的にも親しい間柄であったという事実である。 慶光院の上人は格式も高く、朝廷より紫衣の着用も許されていた。二人の接点がどこにあったのかは不明であるが、上人はお江のこともよく知っていたのではないかと思われる。以上のことから、慶光院の書状も淀殿自筆と考えて問題ないと思う。

 ー知善院の書状はやはり淀殿自筆ー
 
 この書状については今谷明も指摘されていたが、関ケ原の合戦でお初の夫、京極高次は徳川方につき、大津城にろう城して西軍の大軍を引き付け、関ケ原の東軍勝利の要因をつくった。そのことで、淀殿とお初との中がしっくりいかなくなり、疎遠になっていた。それを打開するため、淀殿が出した手紙が知善院に伝わるこの書状である。この手紙の末尾に「申給へ」と書き添えてある。だれに申すのか、むろん高次の妻、お初にである。現代風に書けば「お初によろしくお伝えください」であろう。知善院書状はあまりにもプライベートな内容の手紙である。関ケ原合戦の後、大坂城内で孤立感を深める淀殿の心の叫びが聞こえてくるようである。ここに紹介する。

 「たひ ヘ秀頼わか身かたへ御たよりとも給候て御うれしさ、いく千とせまでもといわひ入まいらせ候・・・、又やかて へ 御のほりまち入まいらせ候、かしこ」

 たびたび秀頼とわたしにお便りくだされて、そのうれしさは幾千歳までお祝いしたいほどです・・・、又やがてやがて(繰り返している)おのぼり(大坂に来ること)を心待ちしています。

 涙を流さんばかりに京極高次からの手紙を読む淀殿の姿が目に浮かんでくるようである。このような自己の孤独な胸の内を吐露するような返書を、いくら側近の侍女とはいえ他人に書かせるだろうか。それは考えられない。
 その後、茶々とお初の中も修復され、大阪夏の陣では、お初(常高院)は淀殿と秀頼の命を救うため、徳川軍総攻めの前日夜まで大阪城に留まって局面打開のため奔走したことはよく知られている。

 最初に述べたように、このようなプライベートな内容の手紙、それと豊臣秀頼を呼び捨てにできる人物は淀殿しかいない。たとえだれかに代筆させたとしても、差出人の署名までその代筆人の名前を書かせることはあり得ない。これまで言われてきたように、この二通の書状は紛れもなく「淀殿」その人の自筆であると思う。

 <追記>
 たまたま、奇跡的に残された「淀殿」自筆書状と考えられてきた上記の書状の署名の部分の墨が消えかかり、判読が困難になっている。現代の科学の力(赤外線とか X 線透視など)ではっきりするのではないかと思っている。是非、実施して欲しいものである。

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