小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

天皇家にはなぜ姓がないのか?  - 続編 -

2019年12月31日 | Weblog

 ー「姓」を与えるのは天皇の権限かー

 この問いに対する答えはすでに書いた。ところが、日本史の大学教授の名字に関する著書に「姓を与えることは天皇の権限であり、姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味する」とあった。これは常識の噓(俗説)である。たしかに、『日本書紀』に天智天皇が臨終の床に伏す中臣鎌足に「藤原」姓を与えたとあり、これが根拠とされているようだが、この記事は藤原姓を名乗った鎌足の子、藤原不比等が「書紀」編纂時に「藤原」姓に正当性を持たせるために挿入させたものであろう。天武・持統朝の都城の名称(藤原京)を臣下が姓とすること自体僭越な行為であるので・・。藤原不比等の野心がこれからも垣間見える。それと、姓を与えることが天皇の権限であるなど、「記紀」のどこにも書かれていない。これは883年、秦公直本が「惟宗(これむね)」姓を天皇から賜った例、さらに後世の「源氏」「平氏」「豊臣」などの姓を朝廷(天皇)が下賜した例との混同である。

 なぜ、このような誤解が生まれたのか。それは古代日本で六世紀頃成立した「氏姓(うじかばね)制度」にある。この漢字「姓」は中国の人名の姓(漢の皇帝の姓は「劉」、唐は「李」)とは違う意味で使っていたからである。日本では当初、「姓」は地位・身分を表わした。蘇我大臣蝦夷とか大伴宿祢家持のように、この場合「大臣(おほおみ)」「宿祢(すくね)」が「姓」である。勿論、これら「姓(かばね)」を与える権限は天皇にある。『日本書紀』にある天武天皇が684年に新たに制定した「八色の姓(やぐさかばね)」の制が有名である。「真人」「朝臣」「宿祢」「忌寸」などのように貴族を八種の階層に分けた。しかし、この制度も奈良時代末頃には単なる通称(貴族意識)として使っていたようである。「秦忌寸足長」(長岡京の宮城を築き、主計頭となる)との人物がいるが、おそらくこの頃には氏族名「秦(はた)」を中国風の「姓」と認識していたと思われる。

  なお、「かばね」とは「海行かば水漬く屍(かばね)」とあるように「骨(ほね)」の意味であり、「かぼね」からの音変化であろう。新羅の位階制である「骨品」制度を真似たものと考えられる。 しかし、古代日本では自分の生まれた氏族への帰属意識が強かった。この点では日本は北方騎馬民族のトルコやモンゴルに近い。朝鮮半島では氏族意識がそれほど強くなかったようで、統一新羅(八世紀)が中国式の「姓」を受け入れた。日本でも奈良時代あたりから位階の「姓」制度がうすれ、氏族名が中国風の「姓」となっていった。今、ネット投稿などに天皇賜姓説が定説のように流布しているが、これは人名の「姓」のことである。つまり、天皇は臣下に姓を与えられるが、天皇に姓を与える上位の人はいないとの・・。とんでもない誤解である。今一度、私見を述べたい。

 ー東夷、南蛮、西戎、北狄 には個人の姓はなかったー

 古代の東アジアで姓を持っていたのは中国だけである。その周辺の諸民族は中華文明の影響を受けて、姓を名乗るようになった。至極、単純なことである。ただ、国家・民族によって、姓を持つ中国文化を受け入れた時代は様々である。まず、朝鮮半島では五世紀頃、王族が高(高句麗)、金(新羅)、余(百済)、列島では倭(日本)などを名乗り始めた。三世紀の倭の女王・卑弥呼や台与には姓らしきものは出てこない。半島では統一新羅(八世紀)が人名、地名などすべてを中国風に改めた。倭国では遣隋使(七世紀)が倭王の姓を「阿毎(あめ)」(大王家の氏族名)と答えており、この頃、倭国でも氏族名を中国風の姓として使い始めたようである。

 - ラストエンペラー ・ 溥儀には姓がなかった ー

 清朝最後の皇帝、愛新覚羅・溥儀の「愛新覚羅」とは「アイシン部族」の意味であり(満州語 aisin ・・金)、20世紀まで姓を持たなかったのである。勿論、「愛新覚羅」を姓として使ってはいたが、現在、中国に住む元清朝皇帝一族の人は皆「金」姓を名乗っている。北狄のモンゴル共和国ではなんと21世紀になって全国民が姓を持つようになったが、中国・新疆のウイグル人はいまだ固定した姓はない。南蛮のベトナムでも中華文明の影響は大きく、有名な建国の父、ホー ・ チミン も漢字名の「胡 志明」からきている。また、楊貴妃でよく知られている唐の玄宗皇帝のとき(八世紀中葉)、西域で反乱を起こした安禄山は、実はイラン系のソグド人であり、本来、姓を持たない西戎であるが、中国風の「安」を姓として名乗っている。「禄山」が名前で、ペルシャ語の「 Roshan ( ロウシャン )・・光、輝き 」の意味であることが分かっている。

 -天武天皇は「大海人皇子(おほあまのみこ)」-

「あめ」と「あま」は容易に交替するので同じものである。「天皇」の称号を使い始めたのは天武天皇からと言われている(それまでは「王」)。天武の和名は天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であり、この「天」を「あめの」又は、「あまの」と読み、通説では美称とされているが、私の考えでは「大伴家持(おおとものやかもち)」や「蘇我入鹿(そがのいるか)」同様、「天氏族に属する誰それ・・」の意味であり、大海人皇子は通称名であったと考えられる。つまり、「大天(おほあま)皇子」。なぜ漢字「海人」を使ったのかは諸説あり定かでない。また、天武天皇の皇后、持統天皇の和風諡号(死後のおくり名)は大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)であり、やはり「天氏族の姫」の意味を持っている。

 大海人皇子は中国の皇帝を意識して、「天皇」の称号を用い、「 天(あめ)氏族・・大王家 」が倭国の全氏族の上に立つ権威を確立しようとしたのではないのか。以前の蘇我氏による崇峻天皇暗殺事件や山背大兄皇子弑逆事件など、二度と起こさせないとの強い決意があったと思われる。(この二つの事件から言えることは、倭国の王権が天氏から蘇我氏に移る可能性もあったということでもある)。この時、現代にまで続く天皇制が確立した。

 また、天武天皇の兄、天智天皇の和名は天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)。つまり、「天氏族の・・」の意味を持つ。その前の欽明天皇の和名は「天国排開広庭天皇」であり、やはり、天国(あまくに)もしくは、(あめのくに)を冠している。どうも欽明天皇あたりから半島の高句麗、百済、新羅が軍事的に強くなってきており、倭国も大王家(天氏族)を中心に強国化を図る必要性を感じていたようである。(欽明天皇23年・・562年、任那日本府滅亡)

 <追記>

 私はかねがね不思議に思っていたが、「天皇」の読みは「てんのう」である。漢字「皇」は日本では「こう」としか読めない。(例、皇帝、皇太子、上皇など) このことに関して明確な回答を聞いたことがない。私は次のように考えている。天武天皇以前、倭の大王は自身の氏族名「天(あめ)」と「王(おほきみ)」から、倭人語で「あめのおほきみ」(天氏族の王)と呼ばれ、漢字音で通称「天王(てんのう)」と称していた。漢字「天王」は仏教の「四天王」と偶然一致しており、欽明天皇あたりから仏教に帰依していた倭国王にとっては最適な称号だったと思われる。天武天皇が中国皇帝に対抗して「天皇」の文字を用いるようになったが、読みはこれまでどおり「てんのう」と変えなかった。これならスンナリ理解できる。すでにこの説を唱えた人はいるかもしれないが・・。

 最後に今一度、言っておくが、天皇家にはなぜ姓が無いのかを考える以前に、日本人はどうして姓を持つようになったのか、という疑問を持つのが先決である。日本人の「姓」の起源は、倭国の氏族名が中華文明の影響を受けて中国風の「姓」となって行ったものである。決して、天皇が賜姓したものではない 。氏族の名称は元々あったものである。全国どこにでもいる「久米さん」の御先祖は神武東征のとき、近衛隊長「大久米命」として古事記に出てくる。神武天皇が賜姓したのだろうか ・・。今でも、奈良県明日香にはその氏寺、久米寺も現存している。その後、飛鳥時代あたりから、国の発展に伴い、多くの新氏族(姓)が生まれた。天皇に姓が無いのではなく、天皇家はなぜかその氏族名「天(あめ)」を「姓」として名乗らなかった。ただ、それだけのことである。(令和元年 大晦日)

 

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日本語の諸問題 (44)  文化庁の日本語教師国家資格構想

2019年12月03日 | Weblog

 少し前、文化庁が日本語教師に国家資格を与える構想があることを新聞で見た。国家資格制度があるフランスなどの諸外国並みに日本語教育を充実したいとの意図であると思うが、これには根本的な問題がある。我々日本人が外国語を学ぶとき、書店や図書館に行けばどの言語であれ、「フランス語文法入門」とか「ロシア語四週間」などの文法書を簡単に手にすることができる。翻って、日本語はどうか。図書館の国語・日本語コーナーには数多くの外国人向けの日本語教育の本が並んでいるが、私はこれまで、日本語の文法書を見たことがない。では、文化庁は国文法(学校文法)を英語で外国人に教えられる人材育成を念頭に置いているのだろうか。つまるところ、日本には文部科学省認定の正式の日本語文法書は無いということである。

 ーある「日本語教育書」についてー

 たまたま図書館で見つけた「日本語教育書」(筆者は大学で留学生に日本語を教えている数人の共著)、そこには驚きの日本語文法が書かれていた。それによると、日本語動詞1型は「捨てる」「食べる」など(私の文法理論の第2型)で、ローマ字表記で「 sute-ru 」「 tabe-ru 」となり、sute、    tabe  と語幹語尾が母音で終わるので「母音幹動詞」もしくは「RU(る)動詞」との名称を与えている。2型は「読む」「書く」など(私の文法理論の第1型)で「 yom-u 」「 kak-u  」となり、yom 、   kak  と語幹語尾が子音で終わるので「子音幹動詞」もしくは 「U(う)動詞」との名称を与えている。つまり、子音で終わる語幹に -a   -i    -e  と 活用すると言っているのである。たしかに理屈上はそうであるが、日本語は子音プラス母音の開音節語であるので 「 yom-u  」  「 kak-u  」と切り離すことはできない。つまり、日本語には子音語幹などはない。あくまで活用は「読ま-ない」「読み-ます」「読め-ば」と平仮名でしか教えられない。

   前に「宣教師ロドリゲスの日本語文法論」で書いたように、「上げる」「下げる」の語根(語幹)は「あげ」  「さげ」であり、「読む」「書く」の語根(私の理論では名詞形)は「読み」「書き」とするのが外国人だけでなく日本の生徒にも一番理解しやすいと思う。400年前の外国人の方が現代日本人より日本語の本質を見抜いていた。

  <追記>

 私は以前、徳島大学の中国・ウイグル人留学生の修士論文(日本語)を点検してあげたことがあり、そのとき分かったことは、その留学生の漢字能力は日本人とほぼ同じであったが、日本語文法についての知識は何もなかった。無論、国文法など論外であり、中国で受けた日本語教育について聞いたところ、ただただ、文型練習ばかりであったとのこと。つまり、現在形は「書きます」、否定形は「書かない」、過去形は「書いた」、仮定形は「書けば」、願望は「書きたい」、呼びかけは「書きましょう」等々。これでは「ホステス日本語」(耳学問)と同じではないかとの感慨を持った。しかし、これも仕方ないことである。日本語の正式の文法書など無いのだから。先の「日本語教育書」にも、この文法理論はあくまでも私案であり、各大学や日本語教育機関によって使っている用語も違い、文法理論も様々であると書かれていた。このような事実を知った上で、文化庁は日本語教師国家資格制度を導入しようとしているのか。まず最初に文科省認定の正式の日本語文法書を作ることから始めるのが正論ではないのか。文型練習の繰り返しだけなら、なにも国家資格者でなくても普通の日本人なら誰でもできる。

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邪馬台国=大和説に引導(いんろう) ― 曹操の墓から鉄鏡出土 ―

2019年09月15日 | Weblog

 朝日新聞(2019年9月6日)に邪馬台国=九州説を裏付ける決定的な物証発見の記事が掲載された。それは戦前、京都大学の考古学者であった梅原末治が美術商から手に入れた 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)という名称の鉄鏡と、ほゞ同じものが、なんと2008年発見された魏の開祖・曹操の墓からも出土していたとの記事であった。

 梅原はその美術商の話から出土地の大分県日田市に行き、実際、発掘に立ち会ったという地元の人の話を聞いて調査し、その遺跡を「ダンワラ古墳」と名付けた。梅原自身が発掘したわけでないので本当にこの古墳かどうかは不明であるが、わざわざ、京都から日田市まで行き、発見されたとき現場にいた人の話を聞いているので、この周辺であることは間違いないであろう。その後、昭和38年、美術研究誌『国華』でこの鉄鏡の写真を載せて紹介した。今、この鉄鏡は重要文化財に指定され、そのレプリカが日田天領資料館で常設展示されている。(本物は東京国立博物館所蔵)

 ―ほゞ同じ鉄鏡が曹操の墓から出土の衝撃 ―

 同記事によると、この時、東京国立博物館で開催中の「三国志展」の学術交流座談会で中国河南省文物考古研究院の中国人研究者が驚くべき発表をした。2008年発見された魏の開祖・曹操の墓(曹操高陵)から出土した鉄鏡を X 線で調べたところ、象嵌の龍と思われる文様が見つかったとのこと。同研究員は「画像で見る限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。直径も21センチでほゞ同じ大きさだ」と興奮気味に語ったとのことだった。この証言は決定的である。魏の皇帝が所有する鏡とほゞ同じ鏡、このような権威あるものを下賜される倭国の人物、それは「親魏倭王」の金印を与えられた女王・卑弥呼もしくは後継者・台与以外考えられない。そうして、その鏡の出土地はやはり北部九州であった。日田市は邪馬台国・日田説で盛り上がっているようであるが、それは早計であろう。邪馬台(ヤマト)国は九州北部の筑後川流域またはその近辺のどこかであることは間違いない。

 ―それでも大和説に固執する日本の学者ー 

 同記事には邪馬台国・大和説の学者が「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で・・・近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」と述べている。この学者の頭の中は邪馬台国=畿内大和はすでに日本では決まったことなのに、なぜこんなところ(北部九州)からこんな鉄鏡が出るのか、だから説明がつかないと言っているのである。もうこうなると学問というより宗教である。学問とは新発見により旧説は書き換えられるものなのに、天動説が地動説に変わったように・・。

 <追記>

 この記事の翌日(9月7日)同じ朝日新聞の関西版にやはり大和説のトンデモ記事が出た。見出しは「最古級の前方後円墳」であった。京都府向日市(京都市の西南)にある前方後円墳の五塚原古墳が発掘調査され、その後円部頂上から竪穴式石室が発見された。この古墳は航空写真で計測すると大和の箸墓古墳の1/3の大きさで形状はピッタリ合うとのこと。つまり、箸墓古墳の縮尺版である。発掘者は箸墓古墳は陵墓であるので発掘は無理だが、箸墓古墳と同時代であるので箸墓の内部を知る手がかりになるとのこと。そうして、この古墳の築造年代は卑弥呼と同時代(三世紀中期から末期)としている。 

 とんでもない。いつから、箸墓古墳が卑弥呼の墓と決定したのか(発掘調査もされてないのに)。「魏志倭人伝」には倭人の墓は「棺あり槨なし」とあるのに、この五塚原古墳にはちゃんと石組みの石室(槨)がある。竪穴式石室も色々あるが、木棺のまわりを大小の石で囲み、上に木材や石を置いて覆ったものである。規模の大きいものは竪穴式石槨とも呼ばれる。(近年、発掘調査され、33枚の三角縁神獣鏡と一枚の画文帯神獣鏡が出土した箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳は規模も大きく、明らかに竪穴式石槨である。それと、画文帯神獣鏡は江南の呉地方に行かなくては手に入らないものである。)。それに、卑弥呼の墓は「径百余歩」(せいぜい50メートルぐらい)とあるのに、箸墓古墳は全長280メートルもある大型古墳である。むしろ、今回の発掘で五塚原古墳は黒塚古墳と同じく、卑弥呼の時代ではないと証明されたようなものである。つまり、四世紀i以降の古墳。それでも、黒塚古墳の発掘調査報告書によると、築造年代は三世紀末(邪馬台国時代)としている。「魏志倭人伝」の記事などまるで眼中にないようである。

 なぜ、「倭人伝」の記事を無視するのか・・。それなら、「倭人伝」のすべては著者・陳寿の創作だとの説も成り立つ。我々が高校世界史で学ぶ漢帝国と匈奴との覇権争いは、司馬遷の『史記』や『漢書』の「匈奴伝」「西域伝」を元にしている。中国の歴史書を否定するなら古代の東アジア史などは書けない。この学者も曹操の鉄鏡の学者も共に邪馬台国は大和とすでに証明された事実として、すべての論考を組み立てている。やはり、学問ではなく宗教である。宗教は教祖様の言ったことは一字一句変えてはいけないが、学問は違う。本当に韓国の噓とねつ造だらけの妄想的反日教を笑えない・・。

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閑話休題  ―日韓問題に思う―

2019年08月18日 | Weblog

 日韓関係は戦後最悪との論調がマスコミを賑わしているが、現在、第二次大戦以前の歴史問題を持ち出す国は韓国以外見当たらない。なぜ韓国だけが国連やユネスコなど世界中に持ち出すのか。そこに韓国人の異常なカルト性がある。韓国人にとっては、日本の植民地支配は世界史の大事件であり、人類史上の最大の犯罪なのである。世界中の人たちは当然、このことに深い関心があるとの自己中心のカルト宗教なのである。ところが、意に反して、世界中の大半の人は韓国が地理上どこにあるかも知らないし、韓国なんぞに何の興味も関心もない。むしろ、第二次大戦以前のことを持ち出す韓国に不快感を抱いているのが現実である。一方、それを当然と韓国サイドに立って韓国を擁護する一団が日本にいる。この人たちは決して左翼でも何でもなく、日本に嫌悪感を持つただの幼児にすぎない。

 -世界中で植民地支配に対して謝罪と賠償をしたのは日本だけであるー

 前のパク・クネも今のムン政権も日本は謝罪も賠償もしていないと声高に世界中で叫んでいるが、これは完全なウソである。日本は1965年の日韓条約で5億ドルもの大金を支払っている。では、イギリスはインドに誠意ある謝罪と賠償をしたから、インド人は今の韓国人のように、「イギリスは謝罪と賠償をせよ」などと言わないのか。かって、サッチャー首相もエリザベス女王もインドを訪問したが、一言も謝罪の言葉を述べていないし、賠償もしていない。同じくフランスはベトナムに、オランダはインドネシアに謝罪も賠償もしていない。勿論、過去のいきさつから教育や医療などに援助はしているが、賠償として現金は渡していない。では、日本が敗戦国であるからか、ところが、同じ敗戦国であるイタリアは植民地にしていたリビアとエチオピアに謝罪も賠償もしていない。

 ーアフリカ会議は謝罪と賠償を要求したが ー

 20年ほど前、アフリカ会議(全アフリカ諸国が集まる会議、今もあるかどうかは知らないが)は欧米諸国に対して、植民地支配と奴隷貿易に対して謝罪と賠償要求を決議した。これに対する欧米諸国の回答は「 完全ネグレクト(無視)」であった。その時、欧米各国の首脳は何のコメントも出していない。奴隷貿易に携わったスペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、また黒人奴隷を買った南北アメリカ諸国も同様であった。謝罪だけなら誰でもできるが、数百年間に約2千万人も家畜同様に強制連行したことを犯罪と認め、賠償すれば天文学的お金が必要である。だから無視したのである。

 ー世界には隣国を嫌い、憎みあう国はいくらでもあるー

 バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)とロシア、また、ウクライナ、ポーランド、ハンガリー、ジョージア(旧グルジア)などもロシアを嫌っている。現在、サウジアラビアとイランは完全に国交断絶している。バルト三国はかってのソ連時代50年を、ソ連による「軍事占領の時代」と歴史を書き換えた。それまでは、バルト三国人民の総意でソ連邦に加入したと学校で教えられていた。今の韓国の教科書と同じである(「日帝の強占時代」と教えている)。事実、スターリン時代に反ソ的と見なされ、処刑もしくはシベリア流刑で死んだ人はこの三国だけで100万人にものぼる。反ロシア感情を持つのは当然である。では、ロシア人はどうか。自分たちを嫌っているのは空気と同じで在(あ)るものであり、無反応、無関心が実体である。しかし、日本人は違う。人間はみな同じであり、誠意をもって対応し、謝罪すれば相手は分かってくれる。そうして、未来永劫、真の友好関係を築ける。そこに日本人の幼児性がある。そこを韓国人に見透かされ、無理難題を吹っかけてくるのである。

 -韓国人は一体何に怒っているのかー

 韓国・朝鮮人が過去のいきさつから日本に恨みを持つのは当然である。その恨みは単純である。自分たちが国を奪われ、植民地支配されたことに対する屈辱感である。(この場合、植民地統治の内容は関係ない。よく日本が朝鮮を近代化してやったとか、小学校から大学まで作って教育の場を与えてやったとか言う人がいる。それはその通りであるが、それはあくまでもモノであり、人間の心はそれと関係ない)。今の文政権は過去に日本と韓国が結んだすべての条約や約束事を破棄しようとしている。そうして、その根拠として被害者である韓国人の心の傷がいまだ癒(いや)されていないと言っている。つまり、日本への恨みは永遠に続くと宣言したのも同然である。

 では、植民地支配を受けたアジア、アフリカのすべての国は、かっての支配国である欧米諸国が誠心誠意、謝罪と賠償をしたから心の傷が癒(いえ)たのか・・。今、日本がとるべき道は、欧米諸国やロシアのように完全ネグレクト(無視)しかない。しかし、日本は民主主義の国だから、次の選挙でまた鳩山民主党と同じような政権が生まれる可能性がある。その時こそ韓国にとって、幼児国家日本を支配できるチャンス到来である。「日本は真の謝罪も反省もしていない」「天皇の謝罪で解決する」「たった5億ドルで韓国人の心の傷が癒(いや)されたとは言えない」と・・。(真の謝罪かどうか判定するのは韓国人である。客観的な基準があるわけではない)

 <追記>

 ナチス・ドイツの敗色が濃くなり、チェコ国内にソ連軍が進攻してきた時、ドイツ軍はチェコ国内のドイツ系住民を置き去りにしていち早くドイツ国内に撤退した。その時、とり残されたドイツ人は国境のズデーデン地方(元々、この地域はドイツ系住民が多く、ヒトラーの併合により第二次大戦の導火線となった)で約10万人がチェコ人からリンチにあい殺害されている。実は、これには伏線があった。チェコ軍はほゞ無抵抗でドイツに降伏したので戦死者はごくわずかであったが、その後、対独レジスタンスで約30万人の死者を出している。(チェコ・スロバキアから強制収容所に送られたユダヤ系チェコ人も含めて、その数は20万人を超える)。フランスやポーランドでも同様であったが、ドイツ軍は市民のレジスタンスに対し残虐な報復で応じた。ごく近年、ドイツとチェコ両政府はお互いに侵略と報復を謝罪し、今後、いっさい政治問題にしないと合意し和解した。今では、プラハーベルリン間に特急列車も走っている。

 では、終戦時の朝鮮半島ではどうだったのか。1945年8月15日(韓国の光復日)以降、朝鮮総督府から米軍政下を経て、1948年大韓民国が成立するまでの3年間、およそ80万人の日本人が半島から帰国したが、なんと、朝鮮人からリンチにあって暴行、殺害された日本人はただの一件の報告もない。満州では中国人に襲われて多くの日本人が殺されたが、鴨緑江をいち早く超えて朝鮮に入った日本人は、朝鮮人の農家の納屋にとめてもらい、出発時に握り飯をもらい助けられたとの証言が数多く残されている。一体全体、これはどういうことか。20万人の少女を強制連行して慰安婦にしたり、数百万の若者を強制徴用して奴隷労働させたというのに、その親兄弟はなぜ日本人を襲撃しなかったのか、日本の軍と警察の機能は完全に麻痺していたのに・・。それどころか、むしろ日本人を助けている。この事実がすべてを物語っている。( 厚生省は満州から帰国できなかった日本人を約15万人としている。一方、朝鮮、台湾からはほゞ全員が帰国した )

 たしかに、徴用されたのは事実であるが、それは日本人とて同じであった。今の高校生に当たる旧制中学、女学校の生徒たちは皆、勤労奉仕として軍需工場や陣地構築に動員されていた。今の韓国で流布している歴史はすべて創作である。しかし、このねつ造歴史を信じ、A新聞のように積極的にねつ造に関与して、日本を犯罪国家にしたい一部の日本人がいるのも又事実である。選挙でこのような勢力が政権を取ったとき、世界から尊敬される平和憲法を順守して、日本は本当に世界地図から消え去るであろう。

 最後に、日韓が永続的に友好関係を築ける方法は無いことはない。それは、すべての日本人が韓国側のいう「正しい歴史認識」を持つことである。つまり、日本は朝鮮の植民地支配という犯罪を犯した。現代の日本人もすべて犯罪者の子孫であり、この罪は永遠に時効となることはないという認識である。従って、日本人は犯罪者である以上、韓国・朝鮮には逆らえず、従属しなければならない。李氏朝鮮時代のヤンバン(貴族・地主)と白丁(奴婢)の関係と同じである。今の文政権は明らかに李氏朝鮮のヤンバンのDNAが濃厚である。犯罪者(白丁)が何をぬかすかと・・。過去のいきさつはどうであれ、国連加盟の独立国に対して「盗っ人たけだけしい」などの言葉を大統領や国会議長が平然と口にする国は韓国以外にない。ただ、問題は日本を犯罪国家と認識している日本人が少なからずいることである。韓国ではこういう人を「良心的日本人」(実際は「白丁」扱い)と呼ぶが、世界には良心的イギリス人もフランス人もいない。 よく韓国人が言う「ドイツは謝罪と賠償をした」というのは嘘である。日本と比べるとスズメの涙ほどである。だから今、ポーランドやギリシャの首脳はその不満を口にしている。 自分たちが受けた被害は数十兆円にのぼると・・。だが、メルケル首相はダンマリを決め込んでいる。

 

nao

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邪馬台国をなぜ 「ヤマタイ国」と読むようになったのか -皇国史観の呪縛ー

2019年05月18日 | Weblog

 これは先の私のブログ ー「ヤマタイ国」はなかったー  の続編に当たる。どう考えても「ヤマト国」としか読めない「邪馬台国」を無理やり「ヤマタイ国」と読ませるようになったのはなぜか。その理由を書く。(「台」は万葉仮名で乙類の「ト」であり、「古事記」表記の「夜麻登(ヤマト)」の「登」も同じく乙類の「ト」であり一致している)

 -『日本書紀』の編者は「ヤマト国」と読んでいたー

 日本で「魏志倭人伝」の記事が最初に登場するのは『日本書紀』の「神功皇后紀」である。そこに2ヵ所「倭人伝」の本文(倭女王の魏への遣使部分)をそのまま筆写して載せている。それには「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等詣郡、求詣天子朝献・・・」とある(「倭人伝」と多少の違いはあるが)。これは何を意味しているのか。「書紀」編纂の史官たちは「魏志倭人伝」にある「邪馬台国」を「ヤマト国」と正確に読んでいたからである。つまり、「ヤマト国」である以上、それは大和朝廷にほかならず、女王・卑弥呼にふさわしい人物を探すと、当然、神功皇后以外には見当たらない。そこで、卑弥呼は神功皇后のことであろうと考え、「書紀・神功皇后紀」に書き入れたと思われる。「書紀」によると、神功皇后は優柔不断な夫、仲哀天皇の死後、半島に出兵し新羅を征討した。まさに女帝にふさわしい事蹟がある。(この書き込み部分は後世、平安時代あたりに公家が書き入れたものだとの説もあり、もしそうだとしても、その人の見た「魏志」には「邪馬台国」とあったからである)。

 勿論、「書紀」史官の見た『魏志』は残っていないが、そこには「邪馬台国」とあった証明にもなる。もし、古田武彦の言うように「邪馬壱国」とあったら、史官たちは大和朝廷とは違う別の国だと判断して無視したはずである。古田氏が使っている『魏志』はずっと後の12世紀、南宋代の版木本である。五世紀に書かれた『後漢書』にはちゃんと「邪馬台国」はあるのである。それと、この部分(倭人の条)、『後漢書』は明らかに『魏志』(三世紀末成立)をそっくり写している。また、七世紀初頭に成立した『梁書』も『魏志』を筆写しており、そこにも「邪馬台国」と「台与」はある。(今でいうコピペである)

 -江戸時代に「邪馬台国」はどう認識されていたのかー

 本居宣長(1730 ~1801)は「書紀」編者とは全く別の見方をした。ただ、「邪馬台国」を「ヤマト国」と読むのは同じだが、「魏志倭人伝」にある女王遣使記事は大和朝廷の女帝ではなく、九州の熊襲(くまそ)あたりの女酋長が、大和の神功皇后の名をかたって勝手に魏に遣使したものだと断定した(熊襲偽僭説)。つまり、大和の天皇家が中国(魏)に朝貢などするはずがないとの皇国史観の魁(さきがけ)である。(本居宣長著『 馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』)

 これを受けて幕末の国学者、鶴峯戊申は中国や朝鮮の史書にある「倭」「倭人」「倭国」などすべて大和朝廷ではなく、南九州の「襲(そ)」の国が大和の天皇家をかたって通交したものだと主張した。なんと、五世紀の「宋書・倭国伝」にある「倭の五王」すら襲国の王が大和の天皇を勝手に僭称したものだと言って憚らなかった(『 襲国偽僭考 』)。 明治の世になっても歴史学者(国学者でもある)の古代日本の認識は江戸時代とさほど変わらなかった。しかし、これら皇国史観にどっぷりつかっていた国学者たちでさえ、邪馬台国は「ヤマト国」と正しく読んでいた。だからこそ、大和の天皇家ではないと否定したかったのである。大和朝廷の天皇が中国に朝貢して冊封を受ける、そんなことは絶対にあってはならないことなのである。この時点では「ヤマタイ国」は生まれていなかった。ではいつから奇妙な「ヤマタイ国」が出現したのか・・。

 -東大の白鳥庫吉と京大の内藤湖南の論争ー

 この二人は共に最幕末の生まれであり、明治の教育を受けた人である。江戸後期の狂信的な国学者とは一線を画していた。当然、邪馬台国は「ヤマト国」と読むべきであると考えていたであろうが、時代的制約があり、そこで妥協案として思い付いたのが「ヤマタイ国」という世にも不思議な架空の国名であったと思われる。「ヤマタイ国」は大和朝廷とは違うとの言い訳ができる。日本人のこのような思考法は得意技でもある。現行憲法には陸・海・空の戦力を保持しないとあるのに、実際は強力な軍隊を持っている。かって、自衛隊は戦力ではないとの迷答弁をした首相もいた。

 それはさておき、この両人の論争、白鳥の九州説、内藤の大和説の激しい論争は有名である。そうしてこの論争は今も続いている。しかし、戦後、日本と中国での考古学上の発掘の結果、京大系の大和説はすでに破綻している。それでも、いまだに三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった魏鏡であるとの自己信念のみに固執しているのが現状である。本家の中国では、後漢、魏、西晋(二~四世紀)の発掘調査が飛躍的に進み、出土した鏡も写真入りで出版されている。ごく最近、なんと魏王朝の開祖・曹操の墓さえ発見された。それでも三角縁神獣鏡はただの一枚も出ていない。中国の学者は日本製と断定している。(元々、鏡の神獣文様は江南の呉地方で流行したもので、北部の魏領域ではまず作られることはない、事実、黄河流域からは神獣鏡の出土例はない・・中国考古学者の見解)

 なお、津田左右吉は自著『古事記及び日本書紀の研究』の中で「魏志倭人伝」の邪馬台国を「ツクシのヤマト国」と正確に読んでいる(津田は九州説)。しかし同時に、ヤマトの大和朝廷は悠久の昔からヤマトにあり、この両者の関係についての言及はない。あえて避けたようである。この本で、神武東征や神功皇后の三韓征伐を史実ではないと否定したため、紀元二千六百年祝典(昭和15年)前に不敬罪に問われ、早稲田大学教授の職を追われた。

 <追記>

 いまでも古代史や考古学で、日本の古墳時代の始まりは三世紀中葉とか三世紀末と書かれた論文や出版物を数多く目にする。三世紀にこだわる理由は、女王・卑弥呼が三世紀半ばの人だからである。三世紀中葉説の人は箸墓古墳は卑弥呼の墓だと決めてかかり、三世紀末説の人は箸墓古墳は宗女・台与の墓に比定しているからである。この両説とも何の根拠もない。発掘調査すらされていない古墳を、実在した歴史上の人物の墓だと決め付けることに学者としてのうしろめたさを感じないのであろうか。(こんな例は世界にない)

 21世紀にノーベル科学省をもらった人の数では日本が世界一である。自然科学の世界では当然、英語で論文を発表するので世界中の学者の批判に耐えなければならない。日本の古代史といえども、鏡の場合は本家の中国の学者の意見にも耳を傾けるのが常識であろう。それとも、中国の古鏡研究能力など低すぎて論評にも値しないとでも思っているのだろうか。日本には虫メガネの鑑定で中国(魏)製か日本(倭国)製か識別できる神の目を持った学者(阪大教授)がいるのだからと・・!? 卑弥呼がもらった銅鏡百枚は三角縁神獣鏡だとの説は学問というより最早宗教に近い。この学説に反論する者は宗教的異端者として排斥されるのがオチであろう。(勿論、中国の学者も異端者である)

 少し前、テレビで大英博物館特集番組があり、そこの日本コーナーには鎧、甲冑、刀剣など貴重な品々と共に、古墳時代の出土物も数多く展示されていた。私が驚いたのは英語と日本語の説明文であった。そこには、日本の古墳時代の始まりは「三世紀中期」(卑弥呼の時代)と明確に書かれていた。おそらく、この古墳時代展示物に日本の邪馬台国=大和説の学者が協力したのであろう。同じような事例は日本国内の歴史博物館にも少なからず見うけられる。地元の古墳から出土した三角縁神獣鏡を「中国・魏鏡(三世紀)」と説明している。かって、森浩一は強く批判していた(森氏は日本製説)。しかし、選挙のように投票で決めたら、邪馬台国=大和説派が圧勝するのが現実である。三角縁神獣教(鏡)というカルト宗教そのものである。日本人の病根は深い。

 

 

 

 

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天皇家にはなぜ姓がないのか?

2019年05月08日 | Weblog

 天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
 この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。
 日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。

(1)『宋書』倭国伝の記事
 五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭済」「倭武」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。
 高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。
 新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語   aisin   金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七~八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。

(2)『隋書』倭国伝の記事
 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
 

 はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。
『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。

 では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
 
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは外国語表記でよくあることである)。
 このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
 

(3)氏姓制度と大王(天皇)家
 日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の  ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
 
 不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。
 貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を有していた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
 
 私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。
 なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発展と武士の登場に由来している。

 <追記>
 アラブ系の民族(イスラム教徒)も同じく姓を持たない。あるのは個人名と部族や氏族の名称だけである。これでは個人の識別が困難なので、自分の父親の名前を便宜上、姓として使っている。中国のトルコ系のウイグル人も同様である。例えば、名前は「メフルグル」で父親の名前が「アブリズ」なら、「メフルグル・アブリズ」と名乗る。がしかし、これでは代替わりごとに姓が変わるので不便である。おそらく中央政府は中国人のように固定した姓を持たせたい思っているだろうが、いまだそうなっていない。ウイグル人は頑迷に民族固有の文化を守っている。
 北隣りのモンゴル共和国では、ごく最近、固定した姓を全国民が持つように決め、各自がそれぞれ好きな言葉を選んで登録していることを新聞記事で読んだ。それによると、やはり、地名とか山や川の名前などが多いとのことだった。やはり、国が近代化すれば行政上やむを得ないのであろう。中国のウイグル人も早晩そうなるであろう。なお、ウイグルと同じトルコ系のウズベキスタンではソ連時代に「姓」を名乗るようになったが、ロシア人とは違い、日本人と同じく「姓・名」の順である。やはりアルタイ系の言語を話す民族のゆえんである。なぜか親近感を覚える。 

 

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NHKの 「歴史秘話・ヒストリア」 を見て(2019・2・9) ー銅鐸の謎ー

2019年02月07日 | Weblog

 今回は古代日本の最大の謎「銅鐸」についてであった。この番組の前半は非常に科学的で、銅鐸を再現するものであった。さすが、NHKでなければこれほどの資金を投入して出来なかったであろう。石製の銅鐸の鋳型断片が出土していることから、その石と同じもので鋳型を作ることから始め、銅職人に依頼してその時代の工法でやってみたが、うまく行かず、試行錯誤のすえに完成した。私もここまでは非常によくできた番組と見ていたが、最後にとんでもないドンデン返しがあった。NHKはいつもそうであるが、邪馬台国=大和説に国民を誘導するものであった。最後に大和説の学者が出てきて、銅鐸が地中に埋められたり、破壊されたのは女王・卑弥呼の時代であり、その後、邪馬台国は銅鐸に代わって銅鏡を祀るようになったとの説明であった。突然、科学から小説・漫画の世界に引き戻された感があった・・。

 -邪馬台国は軍事国家かつ大陸国家ー

「魏志倭人伝」には 「兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」とあり、兵士は矛(ほこ)、盾(たて)、弓(ゆみ)を用い、すでに鉄の鏃(やじり)を使っていた。また、卑弥呼は南の狗奴國男王(肥後・・熊本県であろう)との戦争で帯方郡に救援を求め、郡は軍事顧問「張政」を派遣して 詔書、 黃幢(錦旗)をもたらし、督戦している(為檄告喻)。また、卑弥呼の遣使二人は皇帝から魏の官職をもらい、銀印を授けられている。これらの記事を読むと、この時代、倭国はすでに大陸国家と言えるほど魏と親密な関係を有していた。 「親魏倭王」の金印綬受は当然とも言える(卑弥呼の200年ほど前の倭奴国王は後漢皇帝から印綬をもらっている・・AD57年)。考古学上の発掘でも北部九州から鉄製の鏃(やじり)は大量に出土しているし、後漢の鏡も同様に数多く出土している。この時代、畿内大和からは鉄製品は何も出ていないし、後漢鏡もほとんど出土例がない。大和から鉄製品が出土するのは4世紀以降である。

 -纏向(まきむく)遺跡は平和そのものー

 邪馬台国=大和説の学者は近年発掘調査された纏向遺跡の大きな建物あとが、あたかも卑弥呼の宮殿のように宣伝しているが、そこからは「倭人伝」に書かれているようなものは何一つ出土していない。銅鐸は平和な農耕社会の象徴であり、この番組でも、ある銅鐸に刻まれた絵は春夏秋冬の田んぼの様子を図案化したものであるとのこと。たしかに、私の子供の頃の田んぼには、春にはメダカやフナ、夏にはカエルやカメ、秋には赤トンボが舞っていた。二千年前と変わりなかった。

 銅鐸の出土する地域、出雲、吉備、阿波、淡路島、畿内、近江、尾張こそ「倭人伝」にある「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種」のことであろう。北部九州に住む卑弥呼も東の方に同じ倭人の国があることを知っていたのである。紀元前から大陸との交流で軍事的に優位であった北部九州の邪馬台(ヤマト)国が東に移り、四世紀に大和政権となったと考えるのが一番無理がない。そのことを「記紀」は神武東征神話として書き残している。九州から来た征服者は鏡の愛好者たちであった。そのとき、銅鐸は地上から消えた。だが、銅鐸作りの技術はそのまま三角縁神獣鏡作りに受け継がれた。

 <追記>

 邪馬台国=大和説はすでに破綻している。卑弥呼は景初二年(239年)初めて魏に遣使している。後漢から魏に王朝が変わってわずか20年ほど後である。そのとき「賜汝好物」として銅鏡百枚をもらっている。この鏡が大和説の人はすでに五百枚以上も出土している三角縁神獣鏡だと断定しているが、中国の学者はすべて日本製と言っている。中国からはただの一枚も出土していない。つまり、卑弥呼がもらった銅鏡はすべて後漢鏡であるとのこと・・。おかしな話である。魏皇帝のいう「賜汝好物」との意味は、倭国と中国王朝との交流は200年以上も前からあり、その頃から、倭人が鏡に異常とも言えるほどの愛着を持っていたことを魏の官僚たち(そのすべては後漢官僚・・魏は禅譲により後漢王朝をそっくり受け継いだ)から聞いていたからこその発言だったと思われる。

 では、その200年間に後漢から倭国に渡った鏡はどこから出土するのか? 大半は北部九州である。伊都国(福岡県)があった平原遺跡からはなんと40枚もの後漢鏡が出ているし、鉄製の素環頭太刀一振りも出土している。卑弥呼が居たはずの畿内大和から後漢鏡はほとんど出ていない。たしかに出土例はあるが、ごく僅かである。椿井大塚山古墳では32枚の三角縁神獣鏡と3枚の後漢鏡が出土している。近年発掘された箸墓古墳のすぐ近くの黒塚古墳では33枚の三角縁神獣鏡が出土しているが後漢鏡はない。ただ一枚の画文帯神獣鏡が被葬者の棺内と考えられる位置から発見されている。

 画文帯神獣鏡は中国南部の呉地域、のちの南朝(3~5世紀)で流行した鏡である。邪馬台国が交流したのは北部の魏と西晋である。この二つの古墳は明らかに四世紀以降の大和政権の時代であり、後漢鏡の出土数は北部九州が圧倒的に多い。先に述べたように、瀬戸内海の東から東海地方にかけて出土するのは銅鏡ではなく銅鐸である。つまり、後漢・魏との交流があったのは北部九州の倭人であった証明でもある。「倭人伝」には女王・卑弥呼の前には男王があり、倭国が乱れ、数年戦争状態にあったとある(倭國亂相攻伐歴年)。そこで共立されたのが卑弥呼である。卑弥呼の宮殿は北部九州以外ありえない。

 また、2月27日の同じ番組で、三角縁神獣鏡の銅原料が中国産であったことが科学的に証明されたとのこと。これがあたかも古代史の大発見のように言っていた。そんなことは以前から分かっていたことであり、大和説の学者の流すプロパガンダにすぎない。日本で初めて銅の鉱床が武蔵国・秩父郡で発見され、「和銅」(708年)と改元されたことは日本史教科書にも出ている。では、銅鐸の原材料も中国産と証明されたら、NHKは、銅鐸は中国からの輸入品だと大々的に報道するのだろうか。こんな論理が通用するなら、日本製の自動車の大半は オーストラリア製になってしまう。バカバカしい話である。

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大石内蔵助の「暇 (いとま) 乞い状」 出現 

2018年12月22日 | Weblog

 

大石内蔵助が討ち入り前日に心情をつづった手紙。「十二月十三日」の日付が記されている=共同                                                                                                            大石内蔵助 の書状(元禄15年12月13日付)

 今、徳島市立徳島城博物館で、「討入りとその周辺」と銘打って赤穂義士と阿波徳島藩との関係の特別展が開催されている。ここでの最大の目玉展示は大石内蔵助が討ち入り前日(12月13日付)に、徳島藩の中老・三尾豁悟(みおかつご)に書き送った「暇乞い状(遺書)」である。これまで内蔵助の遺言状は同じ日付で、赤穂・浅野家の菩提寺である花岳寺あての一通が現存しているが、これで二通となった。実は、この遺言状は昭和30年頃、東京や大阪で何度か展示公開されたが、その後、所在不明になっていた。ところが、やはり手紙の宛先の三尾家の御子孫宅にあったことが分かり、この度、ゆかりの徳島城博物館に寄託され特別展が催されたのである。この手紙には数々の興味ある事実が書かれている。

 -徳島藩士、三尾豁悟(みおかつご)とはいかなる人物かー

 大石内蔵助の母親は岡山藩家老・池田家から来ている。内蔵助の母の父親、つまり、母方の祖父の弟がなんと徳島藩に招かれて家老になっている。徳島藩・蜂須賀家は岡山藩・池田家と親密な関係を築きたかったのであろう。その初代徳島藩家老・池田由英の子がこの手紙の受取人、三尾豁悟なのである。おそらく次、三男であったので、中老の三尾家を継いだのであろう。つまり、内蔵助の母親と三尾豁悟はイトコ同士なのである。それと、三尾豁悟は理由はよく分からないが、母の実家のある大津で暮らしていた(母親は三井寺・円満院の西坊家)。この時、内蔵助が京都・山科で隠棲生活をしており、大津と山科は近く、二人の接点はこのとき生まれたのではないかと思われる(博物館学芸員の話)。

 たしかに、手紙の中で「御志恭奉存候、御礼申候・・・」とあり、三尾豁悟は内蔵助に対してかなり経済的援助(御志)をしていたことが伺える。また、「備前一家共へも御通達可被下候」ともあり、「備前一家」つまり、徳島藩家老・池田家へもお伝えくださいとのことなので、援助の資金の出所は三尾の実家、家老・池田家であることが察せられる。そうして、最後に「口上書掛御目候 御披見火中可被下候 阿州へも可然御通達奉頼候」とあり、この手紙を見たあとは、燃やして処分してほしいとの文言は当然としても、「阿州」つまり、藩主・蜂須賀公にも伝達をよろしくと頼んでいる。普通は「阿州様」となるはずであるが、討ち入り前日の緊張感から、うっかり忘れたのであろう。がしかし、三尾豁悟はこの手紙を処分せず、三尾家は明治までずっと保存してきた。それゆえ今日、私たちはこの大石内蔵助の遺言状を目にすることが出来るのである。

  <追記>

 この書状の本文冒頭に「一筆致啓上候」がある。中根雪江あての龍馬の手紙で書いたように、「一筆啓上」は親しい間柄でしか使われない。大石内蔵助と三尾豁悟はかなり近い親戚関係にあり、また同世代でもある。山科隠棲時にかなり親密な交流があったようである。だからこそ、「一筆啓上」を使い、自分の胸の内を吐露して最後の遺言状を書く相手に選んだのであろう。同じ日付の花岳寺あての遺言状には「一筆啓上」はない。当たり前である。目上の存在として敬意を払わなくてはならないからである。また、内蔵助は末尾の署名の横に花押を書き入れている。吉良邸討ち入りは元禄15年(1702年)、この時はまだ戦国の遺風が残り、上級武家は花押を用いていたようである。龍馬がとくに親しくもない60歳の他藩の重役(中根雪江)に「一筆啓上」なる文言を使うはずがないし、また、他藩の上級武士(福井藩士・村田氏寿)に花押型の署名などするわけがない。この二通は間違いなくニセモノである。

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信長の「天下布武」についての再論  - 天下は天下 (あめのした) ー   

2018年11月22日 | Weblog

 信長の「天下布武」の印章について、この場合、信長のいう「天下」とは京を中心とした畿内の意味であるとの説が出た(金子拓著『織田信長<天下人>の実像』)。この説を立てた人はすでにいることが同書の中で紹介されている。金子氏はそれを受けてより詳しく発展させたにすぎない。その人とは、神田千里と池上裕子である。この両氏の言わんとするところは、「天下布武」とは足利将軍・義昭を伴って入京し、畿内を平定して、将軍を中心とする畿内の秩序が回復することであり、それは永禄11年に信長が上洛することで実現したとの主旨である。この説には根本的な錯誤(思い違い)がある。

 -言語の意味を誰であれ、いかなる独裁者であっても勝手に変えられない-

 分かり易いたとえ話をしよう。ある小さな町のラーメン店が「天下一のラーメン」と書いた看板を掲げたとしよう。では、この店の店主は、「ここでいう天下とは私の住む町のことだ」と言うだろうか。たしかに、本音は町一番のラーメン店を目指していたとしても、言語としての「天下一」とは全国一、日本一の意味であり、それぐらいの気概を持って自分は誰にも負けない良い味のラーメンを作っているのだ、と答えるであろう。言語の意味とその使用意図は違うのである。

 あと一つ、滝廉太郎作曲の有名な唱歌「箱根八里」では、「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず・・」とあるが、ある人がこの歌の正しい意味は「日本国内には箱根の山より険しい山越えはいくらでもあり、この場合の天下とはせいぜい関東地方の意味で使っているのだ」と説明したとしよう。普通の日本人なら誰でも首をかしげるであろう。「天下の険」とは、「天下」と、難所で有名な中国の「函谷関」を持ち出すことで、それぐらい険しい山だと比喩的に使っているにすぎない。それが真実かどうかなどは関係ない。つまり、どのような使い方であれ、「天下」の意味は一つしかなく、信長の「天下布武」もそれぐらいの気概、意識を持っていることを表明したにすぎない。その証拠に信長が上洛したあとは「天下布武」の印章は使っていない。一地方大名から天皇や将軍に近侍するようになれば、他の有力大名にも配慮しなければならないし、それと、形式上、将軍・義昭の家臣の立場にある信長が、征夷大将軍を差し置いて「天下布武」などを公言することは憚られたのであろう。

 また、金子氏は同書の中で、『信長記』にある信長が「天下を仰せ付けられ」と「京師鎮護」を取り上げ、この場合の「天下」は「京師」と同じ意味であり、せいぜい、地理的には五畿内、概念的には足利将軍の勢威が及ぶ地域にすぎないと断定している。この見解は先の神田、池上両氏とほぼ同じである。

 とんでもない誤解である。天皇は形式上、日本国の最高主権者であり、足利将軍は名目上天下人なのである。だが、現実は全国の大名や国人領主たちはその威令に服さず、勝手な行動をとっている。13代将軍・義輝にいたっては三好・松永一党に殺害されている。まさに「天下大乱」である。そうであっても、天皇や将軍の出す詔書や御内書は「天下の命(めい)」であり、その政治活動は「天下の儀」なのである。「天下を仰せ付けられ」とは、天皇(朝廷)が「天下静謐」を信長に命じたにすぎない。実際にそれが成就するかどうかは別として・・。その第一歩として畿内支配は当然である。その後、名実共に天下人となり、「天下安寧」を成し遂げたのは次の豊臣秀吉であった。「天下」は決して特定の地域をさす言葉には使われないし使えない。「天下」の意味は一つである。

 <追記> 

 漢語「天下」の意味は不変である。それは中国でも日本でも同じである。百歩ゆずって信長が「天下布武」を京と畿内の意味で使ったとしても、その印章付きの書状を見た武田信玄はそれを文字どおり解釈して、「尾張のこわっぱが何をたわけたことを・・」と激怒するであろう。信長の意図など百パーセント伝わりはしない。言語とはそういうものである。

 なぜ日本の一部の歴史学者はこのような単純なこと(言語の意味とその使用意図は違うとのこと)が分からないのであろうか。その原因を私は日本の国語教育にあると思っている。小・中・高 12年の国語教育で言語についての学習は全くと言っていいほどない。国文法は決して言語(日本語)の文法ではない。大方の日本人は学校で学んだ国文法など何の記憶もない。「当てる」「上げる」「開ける」「飽きる」「荒れる」「浴びる」の語幹  stem はすべて「あ」など、外国の言語学者にどう説明できるのか。日本人の言語に対する無知、無関心が「天下布武」についての奇妙な論考に現れているのではないか。「天下布武」の意味は一つである。では、なぜ織田信長が岐阜時代にこの印章を使ったのか 。それは信長本人に聞いてみるほかない。 

 龍馬の「八策」にある「顧問」「大典」「部下」を、おかしいと指摘したのは私(小松)が初めてと思う。不思議なことに、この三つの言葉はどの国語辞典にも言語資料として引用されていない。「顧問」と「部下」を現代風に最初に使ったのは坂本龍馬であるのに・・。「大典」も帝国憲法発布の23年も前に幕末の史料に出ているのに!?  本来、言語と歴史はコインの表と裏の関係であるのに日本では全く別物である。最後に今一度言っておくが、日本国で臣下に「天下静謐」を命じることのできる存在は唯一「天皇」だけである。

 

 

 

 

 

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日本語の諸問題(43) 文語形容詞語尾 「し」 について ー再論ー

2018年10月07日 | Weblog

 これまで繰り返し述べてきた文語形容詞活用語尾「し」は矛盾だらけである。「波高し」とか「うるわし」の「し」は文語形容詞の終止形とされている。ところが、形容詞「正しい」は語幹「ただ」を動詞化して「正す」、その名詞形(連用形)「正し」から「正しい」「正しく」が生まれている。この場合「正し」の「し」は明らかに国文法では動詞「する」の連用形のはずである(例、襟を正します)。また、古語辞典には「しく活用」として 「まさし」があり、本当、現実などの意味として古文には数多く使われており、「まさしき」「まさしく」などと活用することになっている。この「ただ」も「まさ」も語幹に当たる。(「まさす」との動詞はないが「まさる」はある)

 ―「する」の連用(名詞)形「し」と文語形容詞語尾「し」は同じものー

 「正す」の連用形は「正し」、この語幹「ただ(正)」から「只今(ただいま)」「ただちに」「ただただ恐れ入る」とかの言葉が生まれ、同じく、「まさ」から「まさし」「まさしく」「まさしき」「まさに」「まさか」「まさる」「正夢」などの言葉が出来ている。つまり、文語形容詞語尾の「し」は動詞「する」、古語では「す」の連用形(私の文法論では名詞形)であるとのことなのである。結論として、日本語形容詞は活用などしない。その語幹部分に様々な接尾語が付いたものにすぎない。「安かろう (から・う)」「良かった (かり・た)」、文語の「良からぬ噂」「良かれと思って」「若かりし頃」」「遅かれ早かれ」も助動詞(接尾語)「かる」(そういう状態にある)が付いたものである。当然、「から、かり、かれ」と活用する。「安ければ買う」の「ければ「(仮定)は「かれば」からの音変化であろう。

 -万葉集にある大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌ー

  わが背子(せこ)を大和へ遣(や)るとさ夜深(ふ)けて暁(あかとき)露(つゆ)にわが立ち濡れし

 実の弟(大津皇子)の身を案じて詠んだ有名な歌であるが、この最後の「わが立ち濡れし」の「し」は国文法(文語)ではなんと過去・完了形成の助動詞「き」の連体形「し」と説明されている(連体止め)。「き」は「読みき」「有りき」というように、これ単独で過去形を作る助動詞であり活用などしない。無理に活用させようとするから全く違う言葉を同じ活用表に入れてしまう。「濡れし」の「し」は「正し」「まさし」「久し」の「し」と同じで、「する」の名詞形である。意味は「そういう状態にある」。現代語の「お久しぶりです」「3年ぶり(振り)ですね」の「久し」をどう説明するのか。「久し」は文語形容詞の終止形のはずであるが、「3年」と同じく名詞として使われている。他にも「なしの礫(つぶて)」の「なし」、「重しが取れた」の「重し」も名詞形のはずである。

  ー「私ならそうはしない」の「なら」は文語「ならば」の略ー

 国文法(現代語)でも、「君ならどうする」の「なら」を断定の助動詞「だ」の仮定形として同じ活用表に入れている。「なら」は助動詞「なる」の未然形(発展形)であり、文語表現が現代日本語に生きているにすぎない。文語では「東風 (こち) 吹かば・・・」のように未然形で仮定をつくるが、現代語では「春になれば・・」と仮定形(正確には静止・完了形)で作る。「寄らば大樹の陰」「良からぬ噂」「浅からぬ因縁」や「古き良き時代」「成れの果て」も文語表現であるが、これらもれっきとした現代日本語である。中学や高校の国語で、現代語に残る文語表現と教えたら何の問題もない。「成れの果て」の「成れ」は「成る」の已然形(静止・完了形)が名詞化したもの。

 唐に渡り、帰国が叶わなかった阿倍仲麻呂の有名な歌、「・・・春日なる三笠の山にい出し月かも」の「し」も同じ用法で、決して過去形ではない。今、目の前に月が出ているのである。その情景を詠んだにすぎない。なぜなら、「い出たる月かも」とも言い換えられる。しいて言えば英語の現在完了に当たる。日本語を言語学的に研究している外国人学者にどう説明していいのか。助動詞「き」が「し」に活用(語形変化)したなどと、とても恥ずかしくて言えない。

 <追記>

 現在、中学では口語(現代語)文法を学ぶが、実はその国語教科書には『平家物語』冒頭の「祇園精舎」、『枕草子』の「春はあけぼの・・」、芭蕉の『奥の細道』などが出てくる。たしかに、中学国文法教科書の末尾には口語と文語の活用の一覧表が出ているが、文語文法の説明は一切なかったと思う。文語文法は基本的に高校の国語で学ぶ。中学国語には「万葉集」も出てくる。私が中学時代に最初に憶えた万葉歌は「あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり」と「春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」の二つであった。多分、教科書に出ていたのであろう。中学生ともなると、これらの歌の意味ぐらい分かる。しかし、中学国文法は全く理解できなかった。高校で学んだはずの文語文法はそれに輪をかけて理解不能であった。先の大伯皇女の歌も「わが立ち濡れし」と「し」で終わることで余韻を残しているのだと理解していた。大方の日本人はそうであろう。日本の古典文学は好きであっても国文法などは拒否、つまるところ要らない(故・井上ひさし氏も自著にそう書いていた)。これが現実である。国文法の罪は深い。

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またまた龍馬のニセモノ出現

2018年08月28日 | Weblog

 8月24日(2018年)の朝日新聞に「龍馬のサインで候」との見出しで、坂本龍馬の花押形式の手紙(8年前に雑誌で写真が紹介されていた)が、この度、専門家の鑑定で龍馬直筆と認定され、福井県立博物館の幕末維新の特別展で展示されるとの記事が出た。私はこの新聞の花押の写真を見てすぐにニセモノと判断した。その理由は・・

 まず、本物と判断した専門家は花押についての基礎知識さえないと思わざるをえない。戦国時代の足利将軍とか有名な武将の花押付きの書状は数多く残されている。花押とはその人の権威の象徴であり、ヒラの家臣が気軽に使えるものではない。ウイキペディアで調べても、江戸時代以降あまり使われなくなり、農村の庄屋階級は花押に代わって印鑑を使うようになったとある。たしかに、幕末の著名な人の書状でも、花押形式の署名などほとんど見かけない。坂本龍馬はいつから権威主義者になったのか。龍馬こそ身分や権威をもっとも嫌う自由人の魁(さきがけ)ではなかったのか。それと、この手紙のあて先は福井藩士の村田氏寿、この人と龍馬がどういう関係があったのかは知らないが、龍馬がこんな失礼な手紙をれっきとした武士に書くわけがない。それと、この手紙も先の中根雪江あて同様、行間もきちんと一定であり、文も左右にぶれず、間違いなく書道の師範の模範的書体である。

 <追記>

 幕末、多くの人の書状が残されているが、どの人であれ筆跡や書体は大体一定している。例えば、土方歳三の手紙はまるでパソコンで打ったかの如く上下も一直線に並び、行間もきちんと一定している(『土方歳三、沖田総司全書簡集』新人物往来社)。土方の几帳面な性格がよく出ている。「士道にそむく者は切腹」と実際それを実行してきた。   一方、龍馬は土方とは正反対で、性格も自由奔放であり、細かいことにはこだわらない。龍馬の手紙にもそれがよく出ている。ただ、問題は龍馬の手紙の写しとか書道の師範が書いたニセモノを龍馬直筆と認定した結果、龍馬は二種類の筆跡・書体を持つ異例の人になってしまった。暗殺5日前(11月10日)にも全く筆跡、書体の違う手紙を二通書いたことになる。

 何度も言うが、真贋の最終決着は人間の目ではなく科学鑑定しかない。なぜ、日本の学者は自分の目を絶対視できるのであろうか。かの有名な志賀島出土とされている国宝の金印も、京都の金細工の匠(たくみ)が「あれは明らかに江戸時代の技法だ」とあるテレビ番組で言っていた、(これを本物と認定したのは東大や京大の権威ある古代史学者たちであった)。また、三角縁神獣鏡=魏鏡説や箸墓古墳、卑弥呼の墓説しかり。この二つの説も何の根拠もない。たしかに、日本人は韓国・朝鮮人のように有りもしない歴史を創ったりはしないが、目の前にあるものを非科学的かつ自己信念のみで自信たっぷりに断定する人が相当数いるのもまた事実である。戦前の帝国軍人にもそういう人が多かった。ノーベル科学賞をアジアでは断トツで受賞しているのに・・。不思議な現象である。

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日本語の諸問題(42) -飲んだら乗るな、 乗るなら飲むなー

2018年07月13日 | Weblog

 これは日常よく耳にする交通安全標語である。日本人なら誰でもその意味は分かるが、日本語の文法構造上ではどうなっているのか説明できる人は国語の教師でもほとんどいないであろう。

「飲んだら」は「飲み・たら」からきたものであるが、この「たら」は国文法では過去・完了・確認などの意味を持つ助動詞「た(だ)」の仮定形ということになっている(中学国文法教科書にはそうある)。しかし、これはおかしい。例えば、「地震が起きたら、すぐ逃げよう」ではたしかに仮定でいいが(「たら・ば」の略)。「朝、起きたらもう8時だった」とか「行って見たら、もう桜は散っていた」は仮定ではなく完了の意味である。「たら」は「た(だ)」の活用表などには入れず、文語から生まれた完了や仮定の意味を持つ独立した助動詞(接尾語)とすべきである。勿論、「たら」は文語助動詞「たる」(そうある)の未然形(発展形)であるが(例、堂々たる人生)、現代日本語では別の意味にも派生している。

「乗るなら」の「なら」も国文法教科書では断定の助動詞「だ」の仮定形ということになっている。以前にも書いたが、「だ」と「なる」は全く違う言葉である。これを一つの活用表に入れるなど、言語学では有り得ない。国文法は決して言語の文法 grammar ではない。「なら」は文語助動詞「なる」(例、静かなるドン)の未然形(発展形)「なら」であり、「私ならそうはしない」と言うようにれっきとした現代日本語である(「なら・ば」の略)。「なる」は動詞と助動詞の二つの機能がある。「先生になる」は動詞であるが、「君ならどうする」の場合は「そうある、・・である」との意味の助動詞であり、「なら、なり、なれ」と活用する。同じく「たる」は「たら、たり、たれ」と活用し、第一型動詞の活用の法則に一致している。つまり、「たら」も「なら」文語表現が現代語の中に生きているのである。

 <追記>

 私は中央アジアのウズベク語とウイグル語の辞書を出版したが、ウズベキスタンではウズベク語で書かれたウズベク語入門書(当時はソ連時代であったのでロシア文字表記)を書店で手に入れた。同じく中国新疆のウルムチでウイグル語(アラビア文字表記)で書かれたウイグル語入門書を書店で購入した。これらの本は、勿論、外国人も学習できるが、基本的にはウズベク人、ウイグル人のための概説書であった。翻って、わが日本には日本人向けの日本語入門書はあるのだろうか。図書館でも書店でも見たことがない。(外国人用教科書は沢山あるが、日本語の文法説明は全くない)。たしかに、国文法に関する本や論文、それと日本語論(随筆)は山ほど出ているが、純粋、日本人向けの現代日本語の入門書はまったくない。なぜだろうか。そこに私は国文法の呪縛を感じる。国文法を基本に日本語入門書を書いてもだれも見向きもしない。元々、理解不能な文法なのだから・・。これが現実である。

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閑話休題  -ザギトワ選手の愛犬 「マサル」-

2018年06月07日 | Weblog

 平昌五輪金メダリスト、ロシアのザギトワが秋田県から秋田犬を贈られ、その贈呈式がテレビで報道されていた。その犬の名前は「マサル」、日本語で「勝つ」意味なのでザギトワ自身が名付けたとのこと。日本語を知らないザギトワに誰が教えたのかは知らないが、正確には「まさる」に「勝つ」との意味はない。すでに書いたように、「まさる」の語幹「まさ」に動詞形成の接尾語「る」が付いたものであり、「(人より)すぐれている、上回る」などの意味である。(例、健康にまさるものなし、男まさりの怪力)。「まさる」に漢字「勝」を当て字したため(勝る、優る)、「勝利」との意味があると誤解した人が教えたのだと思うが、ザギトワが「マサル」の正しい意味を知ったら、かえって喜ぶであろう。「マサル」とは「人よりすぐれていて、上に立つのであるから、私にもっともふさわしい」と・・。

 -日本語の構造は単純であるー

 この「まさる」の他にも「まさに」「まさか」「まさしく」と様々な接尾語が付いて造語してゆく。「正夢」「柾目」などの名詞も作る。古文には現実、真実などの意味で形容詞「まさし」もある。また、「まさ」によく似た言葉の「ただ」も同じく、動詞化して「正す」、その名詞形(連用形)「ただし」(襟を正して・・)から「正しい」「正しく」が生まれている。「ただし」は副詞としての意味もある。また、語幹「ただ」は副詞としても使われる。例文として「ただ、次のことだけは言える」(この場合、「ただ」は「真実、事実、実際」などの意味)

 -日常、普通に使っている言葉の語源も至極単純ー

 私の日本語文法理論の第二型動詞はすべて語幹がある。その語幹から次のような言葉ができている。                  

 見える ➝ 見え(見栄を張る)、 見せる ➝ みせ( 店 )、見世物、 寄せる ➝ よせ( 寄席 )、 落ちる ➝ おち(落語のオチ) 

 慣れる ➝ 慣れ、 なれなれしい、 掛ける ➝ かけ( 賭 )、 はめる ➝ はめ(ハメを外す)、 尽きる ➝ つき(運の尽き)

 似る ➝  似せる(使役形) ➝   似せもの (偽物)、 出来る ➝ でき(「出」も「来」も名詞語幹) 出来不出来、 おでき(腫物)

「ツキが回ってきた」の「ツキ」は第一型動詞「つく」(身につく、手をつく)の名詞形である。この名詞形「つき」から「尽きる」との動詞ができている。なお、「ツケをまわす」の「ツケ」は「帳簿をつける」の語幹「つけ」から来ている。日本語は「つく」「さわる」「触れる」「撫でる」「さする」「こする」などの微妙な言い回しを持った世界でも稀有な言語である。しかるに、 国文法(学校文法)では上一段活用とか下二段活用などの意味不明の用語が出てくる。大方の日本人は完全にスルーしている。国民にまったく理解されず、かつ無視されている母国語の文法を義務教育で教えている国が日本以外にあるのだろうか。私は寡聞にして知らない。

 <追記>

 NHKで「国語辞典」の編纂の仕事に従事している編集者を取り上げた番組があり、そこで、「的を得る」との言葉は「的を射る」が正しく、その誤用ではないかとの説が国語学者の間であることを知った。事実、多くの「国語辞典」は誤用説をとっている。その編集者が調べた結果、「的を得る」は江戸時代にも使用例があり誤用ではないとの見解であった。

 弓道の「的(まと)」は「書紀」にも出てくる古い言葉である。「国語辞典」には「弓を射る的(まと)」が転じて「目的、目標、要点」などの意味を持つともある。「的を外した」は弓道用語であるが、「的外れの議論」はその弓道用語から生まれた表現である。つまり、論点がボケた議論。また、「的をしぼる」の「的(まと)」は目標とか狙い所、要点などの意味であるので、「要領を得ない説明」などの表現があることからしても、「的を得た意見」などの言葉があって当然と思う。(この場合の「的」は派生語の「要点」とか「狙い目」の意味)。決して誤用ではない。また、動詞化して、「まとめる」「まとまる」との言葉もできている。二次語幹「まとめ」は日常よく使う言葉である。

 

 

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木戸から龍馬あての手紙出現  - これもニセモノ -

2018年04月13日 | Weblog

 今日、4月13日(2018年)、朝日や読売などの朝刊に、木戸(桂小五郎)から龍馬あての手紙の原本が新発見されたとの記事が出た(この手紙の写しの存在は知られていた)。日付は慶応3年(1867)9月4日、大政奉還の40日ほど前である。この記事を読んで、早速、ヘボンの『和英語林集成』を見たが、すぐに完全なニセモノであると判断した。その理由は二つある。なお、手紙の写しがあるからといって原本が本物とは限らない。ニセモノのニセモノである。

 理由その1)

 手紙の中で、土佐藩兵の上京を要請して、「場合に後れてハ・・・大舞台は其れきりと奉存申候」とあることである。この「大舞台」は「語林集成」第3版(明治19年)にも無い。勿論、「舞台」はあるが、現代風に「甲子園の大舞台に立つ」などの表現は明治以後の用語である。一方、「大舟(おおぶね)」はすでに初版(慶応3年)にある。それは「大舟にのったつもりで・・」などの表現は江戸時代にも使われていたからである(『江戸語大辞典』講談社)。なお、この『江戸語大辞典』にも「舞台」や「檜(ひのき)舞台」はあるが「大舞台」はない。他の「国語辞典」にも明治以降、「大舞台」を使った例文は出ている。言うまでもないが、「大舞台」は「大きい舞台」の意味ではない。「檜舞台」とほぼ同じような意味である。「大地震」や「「大騒動」とは違う。

 理由その2)

 手紙の中で、板垣退助を芝居興行の「頭取」、西郷隆盛を「座元」に擬して書いていることである。「頭取」とは一座の首領、「座元」とは興行主のことであり、この文を書いた人は明らかに江戸時代の身分社会を知らない「四民平等」の時代、つまり、明治以後の人である。江戸時代には歌舞伎役者は河原者とさげすまれ、幕府や諸藩は歌舞伎などの芝居小屋への武士の出入りを禁止していた。しかし、これは建前だけで、実際、尾張藩土、朝日文左衛門の『元禄御畳奉行の日記』を読んでも武士も芝居見物には行っている。

 天和元年(1681)の「絵島・生島事件」で江戸城大奥の御年寄、絵島が歌舞伎役者とねんごろになったことがバレて処罰された話は有名。たしかに、明治以後は歌舞伎役者も人々の尊敬を受けるようになり、現代では人間国宝にもなっている。だが、江戸時代は違う。れっきとした武士(桂小五郎)が芝居興行をたとえ話に、同じ武士にこんな手紙を書くことは100パーセント有り得ないことである。龍馬を暗殺した京都見廻組にも「芝居小屋には一切、立ち入らないこと」とのお達しが幕府差配役から下されている(菊地明著『京都見廻組秘録』)。裏を返せば、芝居見物に行く者がいたということでもある。この手紙を偽造した人物は本当に江戸時代を知らない。おそらく、金持ちの御大尽をだまして大金をせしめたのであろう。

 <追記>

 世界の浮世絵ファンを魅了してやまない謎の絵師、東洲斎写楽とは誰かとの本が数多く出版されているが、 斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保15年・・1844年)には写楽、「斎藤十郎兵衛、居江戸八丁堀に住す。阿波候の能役者也」 とあり、斎藤十郎兵衛は阿波徳島藩主・蜂須賀公のお抱え能役者であったことは間違いない。十郎兵衛本人の過去帳も見つかっている。私の住む徳島県にも写楽を顕彰するNPO法人もできている。

 たが、たった一年でなぜ役者絵を描くことをやめたのか。これにはやはり、能役者とはいえ、徳島藩の下級武士であったことが大きく影響していると思われる。おそらく、何かの事情で江戸藩邸の重役の知るところとなり、幕府や他藩のてまえ、芝居小屋に出入りすることはよろしくないと禁止されたのであろう。本人は不本意であったろうが、武士としては仕方なかったと思われる。そのため、たった一年で消えた謎の絵師となった。江戸幕藩体制とはそういう時代であったのである。木戸が芝居興行をたとえ話に出すわけがない。もし、この話を西郷が龍馬から聞いたら、薩長同盟も破棄されかねない。                                  

 

 

 

 

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幕末史に激震 ! -「新政府綱領八策」はやはり捏造 ー

2018年02月15日 | Weblog

  幕末安政6年(1859)来日したアメリカの宣教医であったヘボン博士( 本名は Hepburn 日本式に「ヘボン」を名乗った。ヘボン式ローマ字の考案者として有名)が、慶応3年(1867)に中国・上海で印刷し、横浜で発行した和英辞典、『和英語林集成』という本がある。この本は第2版(明治5年)と第3版(明治19年)の三部作として現存している。今、これらの本は博士が創立に尽力した明治学院大学図書館デジタルアーカイブスで検索して誰でも閲覧できる。また、初版本は大阪府立図書館にも所蔵されており、私はそこで直接手に取って見たが劣化がひどく、デジタル化されて本当に良かったと思っている。 さてその結果は・・・

 -「新政府綱領八策」にある「顧問」も「大典」も「部下」も初版本(慶応3年)には無かったー

 慶応3年はまさに龍馬が書いて処々に配ったとされるこの「新政府綱領八策」と同じ年、この年の五月に『和英語林集成』は横浜で刊行されている。ヘボン博士は日本人弟子たちの協力を得て、当時の日本語約2万語を収録している、(第2版は約2万3千語、第3版は約3万5千語)。見出しはローマ字なので非常に分かりやすい。

 「顧問」は明治19年の第3版に出ており 「 Komon  顧問  Adviser 」とある。 福沢諭吉の『文明論之概略』(明治8年)は当時のベストセラーとなったので、その影響で一般化したのであろう。だが、龍馬の「八策」にある「部下」も「大典」も第2版にも第3版にも無い。ただ、「部下」という言葉の元となったと考えられる 「本部」 は「顧問」と同じく第3版にはある。がしかし、「部下」との言葉は明治19年段階ではまだ生まれていなかったようである(「配下」は初版本にすでに出ている)。「部下」を龍馬が普通に使うぐらいに一般化していたなら、初版本に当然あってしかるべきである。「大典」も大日本帝国憲法発布時(明治22年)の明治天皇の勅語で初めて出てきた言葉であることはこれでハッキリしたと思う。

 また、佐藤亨著『 幕末・明治初期「漢語辞典」』(明治書院 2010年)にも「部下」も「大典」もない。著者はこの時代の様々な文献資料から引用しているが、龍馬の「八策」は知らなかったのであろうか? いや、知ってはいたが資料的価値はないと判断したのか、つまり、ニセモノと・・。ただ、「部下」の元となった「部局」との用語は長束宗太郎著『主権論纂』(明治15年)から引用している。勿論、「顧問」はあるが、私と同じく福沢諭吉(明治8年)とヘボンの『語林集成』を引用している。幕府や諸藩の資料には無かったようである。ただし、「教官」は幕末の資料にあり、明治時代にはそのまま軍隊や官立の諸学校で使われている。

 <追記>

「船中八策」や「新政府綱領八策」をねつ造して、坂本龍馬を維新のヒーローに祭り上げようとした集団に対して私は怒りすら覚える。さらに、それに便乗して龍馬の手紙や様々な資料を偽造して金儲けを企んだ連中も沢山いたと思う。私のこの論考は、薩長同盟条文の龍馬の朱筆の裏書きや暗殺5日前の中根雪江あての手紙などへも波及していくと思っている。この二つもやはりニセモノであろう。帝国憲法の草案には多くの漢学者が協力している。明治天皇の勅語の「大典」も、明の『永楽大典』が念頭にあり、「大典法」の略として思いついたものであろう。朝鮮の『経国大典』(15世紀末)も同じ発想と思われる。「大典」とは憲法の意味と思っている人が多いようであるが、戦後の日本国憲法は「大典」ではない。「大典」とは、皇帝、天皇、国王が勅命により、臣民に与えるものである。龍馬は明治憲法が「大典」(欽定憲法)になることを幕末にすでに予言していたことになる。龍馬はまさに神に近い天才である!?。

 思うに、龍馬は当代一流の多くの人士との交流で、世界を見据えた開明的な考えに到達していた(この点では明治維新の波にうまく乗って成功した同郷の岩崎弥太郎や幕臣の渋沢栄一より遥かに先を行っていた)。だが、龍馬はこれら先人の構想を借用して、あたかも自分の思想のように文書にして残したことはただの一度もない。龍馬はそれぐらいの節度と礼儀はわきまえていた。これら一連のねつ造文書は坂本龍馬に対する侮辱以外なにものでもない。泉下の龍馬も怒っているのではないか・・。

             

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