読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

それは真相に近づいたのか、「碧眼の反逆児 天草四郎」(松原誠著/日本放送出版協会刊)

2009-01-03 09:33:55 | 本;小説一般
<目次>
序章 聖地・原城跡
第一章 天使はいずこ
第二章 天草四郎の誕生
第三章 原城篭城へ
第四章 夢の国、もうひとつの故郷
第五章 攻める者と守る者
第六章 遥かなる夢
あとがき

「島原の乱とは江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模なキリシタン一揆による反乱であり、幕末の動乱に至るまでの最後の本格的な内戦であった。島原・天草一揆、島原・天草の乱とも呼ばれる。宗教戦争と見なすのが一般的だが、それはこの内戦の一面しか見ていない。この乱は一般に寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている」。<島原の乱 - Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1


本作の主人公、天草四郎は一般的には、肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされますが、宇土郡江部村(現在の宇土市)または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしていないとされています。ウィキペディアには次の解説があります。


天草四郎(元和7年?(1621年?) - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、「江戸時代初期のキリシタン、農民反乱である島原の乱の指導者とされている人物で、幕府の原城攻により自害。本名は益田四郎時貞(苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞)。洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。一般に天草四郎時貞という名で知られる。本名については愛知時貞(えち ときさだ)という説もある。益田家は小西氏滅亡後浪人百姓として一家で宇土に居住したという。頭がとても良く、容姿端麗で女が見たら一目惚れするとまで言われたほどだった」。

これらの天草四郎の出自説の一方で、天草四郎は実在しなかったという説を唱える識者もおられます。このような天草四郎の実在を認めつつ、著者には次のような疑問がありました。

「これまでの著作物では天草四郎なる若者が戦のなかで、具体的にどのような役割を果したのか。かれは真実、甚兵衛の子であったのか。疑問は尽きないのである。さらに視点を変えてみると、新たな疑問が生じてきた。それは天草四郎なる若者を描いた肖像画が、一枚も伝わっていないという事実である。・・・そうであれば真実のかれは、どうして描かれることがなかったのか。また描かれたとしても、いまに遺っていない理由は何なのか。その裏には秘めた物語がなければならない。これが私の執筆の動機になった」

「そもそも普通の日本人とは異なる容姿の持ち主ではなかったか。有名なキリシタン大名の孫姫とポルトガル人の神父との間に生まれた運命の混血児!これならば民衆から見て、天使にふさわしい存在として映る。私はこうして、碧眼の天草四郎にめぐり合ったのである」。(「あとがき」より)

そして、著者が構築した新たな天草四郎像は、安土桃山時代、江戸時代の武将で、代表的なキリシタン大名として知られる。高山右近(たかやま うこん)のひ孫という存在としてでした。高山右近は、洗礼名はユスト。茶道を究めた右近は「南坊」と号し、千利休の七高弟(利休七哲)の一人としても知られています。<高山右近 - Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

その高山右近の嫡男:高山長房(洗礼名ジョアン)の娘で、孫にあたる麻理亜(洗礼名ジュリアナ)が、イエズス会から密命を帯びて日本に潜入していたバテレン、フランシスコ・ピレズと結ばれたのが、天草四郎であったというプロット。つまり、「雲ひとつない秋の空のような澄んだ」碧眼を持った天草四郎の誕生であります。

史実として有力視されている天草四郎の父は、本作では村の相談役と親しまれている益田甚兵衛好次(洗礼名ヘイトロ)とされ、彼がママコス・フェローラという、耶蘇教といわれたキリスト教の神父、宣教師(バテレン)に言われた言葉を回想することによって、長崎の唐人商人、李秀堯(り・しゅうぎょう)宅で暮す高山右近のひ孫、加賀丸を見出すことになります。

「そのママコス様が、天草を去るにあたってこう予言されたのだ――これより二十六年の後、この地に一人の善なる若者が立ち現れるであろう。その雲が焼け、海の水が赤々と染まるときが、そのときである。その若者は智勇にすぐれ、諸人の頭にクルス(十字架)を立てる使命をおびている、と」(P16)

天草四郎は実在したのか、実在したとすればその出自はどうであったのか興味の尽きないところではありますが、それならば、前世は天草四郎と公言する美輪明宏さんが何か語ってくれているのではないかとネットで検索してみると、ありました。

百瀬直也さんのブログ「島原の乱~天草四郎~美輪明宏~新庄剛志 - 探求三昧」に、美輪さんの著書「霊ナァンテ怖クナイヨー」(PARCO出版)で、美輪さんが出会った霊媒師に天草四郎が降りて語った内容が次のようなものでした。http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20080731/shimabara

~天草四郎は、肥後の小川(熊本県宇城市小川町)で生まれた。父の名は益田甚兵衛吉次(本名は諸説あるが、益田四郎時貞が正しいことになる)。母の名は益田ヨネ(洗礼名はマルタ)。姉は福(洗礼名はレシイナ)といい、渡辺佐太郎に嫁いだ。妹は万という。

島原の乱では、原城で自ら火の中に入って死んだ。磯部運之丞が自害した首を切り、その父が天草四郎の首だといって幕府に渡した。マリア観音が守護していた。誕生日は21日(月は不明)~

フィクションとしての本作には、天草四郎が小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であると考えられていたように、それなりの逸話が盛り込まれていますが、伝説として伝えられるさまざまな奇跡の一つ、盲目の少女に触れると視力を取り戻したという話については、その少女をミワとして描き、視力回復の理由を現実的な方法として示しています。


本作は天草四郎と島原の乱についてどこまで真相に近づいたのか、それは読者に託された命題ですが、いずれにしても、今のところの史実は、「四郎法度書」の文言の意訳としての、天草四郎が言ったという「いま籠城している者たちは来世まで友になる」との言葉を胸に、原城址に篭城した3万7000人の老若男女の民百姓たちが、幕府派遣軍と諸大名による12万5800人(上使板倉重昌以下死者1900人 負傷11000人)の兵と戦い、約束の地「パライゾ」を目指して散っていったことを伝えます。


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