2004年9月7日、講談社より書き下ろし長編小説として初版が発行、2006年9月15日には文庫版が発行。キャッチコピーは「新世界へ向かう村上小説」。
「何かをやり過ごそうとするように真夜中の街に留まる少女・浅井マリと、静かに純粋に眠り続ける浅井エリ、物語は二つの視点から交互に展開される。真夜中のデニーズで、浅井マリはひとり熱心に本を読んでいた。そこに彼女を知るという青年・タカハシが声をかけてくる。一方、暗い部屋の中でひとり眠り続ける、マリの姉エリ。その部屋の片隅にあるテレビが、0時ちょうどになった瞬間奇妙な音を立て始め、そして不可解な映像を映し出す」。(ウィキペディア)
昨年から読み始めた村上作品も、本作をもって長編小説作品だけは読破しました。村上作品の感想文で何度も引用した清水良典さんの「村上春樹はくせになる」(朝日新書)の中で、清水さんはその理由として、一貫性、不思議な浸透力、変化と多様性をあげています。まさに私も村上ワールドに嵌ってしまったようです。本作でも、脇役であるラブホの女性従業員コオロギが語る次のことばに思わず納得してしまいました。
「それで思うんやけどね。人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。だだの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、日にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
タイトルは作品中にも登場するジャズ・トロンボーン奏者、カーティス・フラーによるアルバム『ブルース・エット』に収録されている楽曲「ファイブ・スポット・アフターダーク」にインスパイアされています。
カーティス・フラー(Curtis Fuller, 1934年12月15日 - は、「アメリカミシガン州 デトロイト出身のモダンジャズのトロンボーン奏者。幼少の頃に両親と死に別れ孤児だったフラーは、デトロイトの学校でポール・チェンバース、ドナルド・バードと知り合う。1953年から1955年軍隊に在籍し、その後ユセフ・ラティーフのバンドに加わった」。
「1957年にニューヨークへ行き彼はプレスティッジ・レコードに初リーダーアルバムを録音した。以後ブルーノートレコードでも活躍し、特にジョン・コルトレーンのリーダー作である"ブルー・トレイン"は、リー・モーガンと共に3管の一人として参加し評価された。彼自身も、ブルーノートにはリーダー作をいくつか残した。又、アート・ブレイキーやジョー・ヘンダーソンのグループでの活動も有名である」。(ウィキペディア)
「ハード・バップ~ファンキー・ジャズ時代の人気トロンボーン奏者で、特に50年代末から60年代にかけてのジャズテット、そして3管ジャズ・メッセンジャーズにおける活動は有名。代表作はサヴォイ盤『ブルースエット』。(CDJournal.com)
また作品中に登場するラブホの名前、「アルファヴィル」もゴダールの映画が重要なモチーフとなっています。
「アルファヴィル」(仏、伊/1965年)
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:エディ・コンスタンチーヌ、アンナ・カリーナ、エイキム・タミロフ、ハワード・ヴェルノン
「アルファヴィルはフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールによる映画作品。1965年公開。製作国はフランス及びイタリア。1965年ベルリン国際映画祭において最高賞である金熊賞を受賞、同年のトリエステSF映画祭でもグランプリを受賞。『実験的、芸術的、冒険的、半SF』とゴダール自身が名付けたSFによる文明批評映画」。(ウィキペディア)
ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard、1930年12月3日 - )は、「フランス・スイスの映画監督。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。欧州のみならず世界レベルで最も重要な映画作家の1人」。(同上)
ところで、本作の中には中盤でもう一つ映画の話が出てきます。「ある愛の詩」(アーサー・ヒラー監督/1970年)。タカハシがマリに、バンドから足を洗って司法試験の勉強をすることを説明くだりで、突然この映画の話が出てきます。大まかなストーリーを話した後「で、そのあとどうなるの?」と尋ねられ、「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利」と応えます。
これは間違い、いやウソですね。「最後の方はよく見なかったんだ・・・」と言い訳がましく弁解してはいますが、映画のエンディングでは、妻のジェニファーは父に見守られ、愛する夫のオリバーに抱かれて死んでいくことになります。『愛とは決して後悔しないこと』(Love means never having to say you're sorry)という言葉が当時流行りました。
これはタカハシの、いや作者のトラップなのでしょうか?「最後の方はよく見なかった」と言いながら、勘当されたオリバーの父のことについては「糖尿病と肝硬変とメニエール病に苦しみながら、孤独のうちに死んじゃうんだ」と詳しいのです。もう忘れてしまったのですが、このことの真偽は定かではありません。
この有名なストーリーを唐突に持ってきて、エンディングを変えた作者の意図は何だったのでしょうか?資産家に生れながら愛のためにその父親と反目しながら自力で優秀な弁護士になっていくというオリバーのことが気に入らなかったのか?話を切り出したものの、「そういえば、最後にジェニファーは死んじゃうんだった。まずいな」と思って話を切り替えたのか?この程度の話はどちらでも構わないという批判なのか?とにかく謎です。
「ねじまき鳥クロニクル」第一部、二部を書き終え、謎は謎のままでいいといった作者ではありますが、一方でその謎に応えるべく一年後に第三部を書き上げたのも作者です。清水氏は本作を次のように見ています。「いちおうの解決を見たかに思えるこの作品は、巨大な『タコ』との戦いのプロローグであるように見えてくる。ちょうど『ねじまき鳥クロニクル』の完成前に『国境の南、太陽の西』が生れたように、『アフターダーク』とは、今作者が格闘している暗闇の『ビフォーダーク』なのかもしれない」。
「何かをやり過ごそうとするように真夜中の街に留まる少女・浅井マリと、静かに純粋に眠り続ける浅井エリ、物語は二つの視点から交互に展開される。真夜中のデニーズで、浅井マリはひとり熱心に本を読んでいた。そこに彼女を知るという青年・タカハシが声をかけてくる。一方、暗い部屋の中でひとり眠り続ける、マリの姉エリ。その部屋の片隅にあるテレビが、0時ちょうどになった瞬間奇妙な音を立て始め、そして不可解な映像を映し出す」。(ウィキペディア)
昨年から読み始めた村上作品も、本作をもって長編小説作品だけは読破しました。村上作品の感想文で何度も引用した清水良典さんの「村上春樹はくせになる」(朝日新書)の中で、清水さんはその理由として、一貫性、不思議な浸透力、変化と多様性をあげています。まさに私も村上ワールドに嵌ってしまったようです。本作でも、脇役であるラブホの女性従業員コオロギが語る次のことばに思わず納得してしまいました。
「それで思うんやけどね。人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。その記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうでもええことみたい。だだの燃料やねん。新聞の広告ちらしやろうが、哲学書やろうが、エッチなグラビアやろうが、一万円札の束やろうが、日にくべるときはみんなただの紙切れでしょ。火の方は『おお、これはカントや』とか『これは読売新聞の夕刊か』とか『ええおっぱいしとるな』とか考えながら燃えてるわけやないよね。火にしてみたら、どれもただの紙切れに過ぎへん。それとおんなじなんや。大事な記憶も、それほど大事やない記憶も、ぜんぜん役に立たんような記憶も、みんな分け隔てなくただの燃料」
タイトルは作品中にも登場するジャズ・トロンボーン奏者、カーティス・フラーによるアルバム『ブルース・エット』に収録されている楽曲「ファイブ・スポット・アフターダーク」にインスパイアされています。
カーティス・フラー(Curtis Fuller, 1934年12月15日 - は、「アメリカミシガン州 デトロイト出身のモダンジャズのトロンボーン奏者。幼少の頃に両親と死に別れ孤児だったフラーは、デトロイトの学校でポール・チェンバース、ドナルド・バードと知り合う。1953年から1955年軍隊に在籍し、その後ユセフ・ラティーフのバンドに加わった」。
「1957年にニューヨークへ行き彼はプレスティッジ・レコードに初リーダーアルバムを録音した。以後ブルーノートレコードでも活躍し、特にジョン・コルトレーンのリーダー作である"ブルー・トレイン"は、リー・モーガンと共に3管の一人として参加し評価された。彼自身も、ブルーノートにはリーダー作をいくつか残した。又、アート・ブレイキーやジョー・ヘンダーソンのグループでの活動も有名である」。(ウィキペディア)
「ハード・バップ~ファンキー・ジャズ時代の人気トロンボーン奏者で、特に50年代末から60年代にかけてのジャズテット、そして3管ジャズ・メッセンジャーズにおける活動は有名。代表作はサヴォイ盤『ブルースエット』。(CDJournal.com)
また作品中に登場するラブホの名前、「アルファヴィル」もゴダールの映画が重要なモチーフとなっています。
「アルファヴィル」(仏、伊/1965年)
監督:ジャン=リュック・ゴダール
出演:エディ・コンスタンチーヌ、アンナ・カリーナ、エイキム・タミロフ、ハワード・ヴェルノン
「アルファヴィルはフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールによる映画作品。1965年公開。製作国はフランス及びイタリア。1965年ベルリン国際映画祭において最高賞である金熊賞を受賞、同年のトリエステSF映画祭でもグランプリを受賞。『実験的、芸術的、冒険的、半SF』とゴダール自身が名付けたSFによる文明批評映画」。(ウィキペディア)
ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard、1930年12月3日 - )は、「フランス・スイスの映画監督。パリに生まれる。ソルボンヌ大学中退。ヌーヴェルヴァーグの旗手。欧州のみならず世界レベルで最も重要な映画作家の1人」。(同上)
ところで、本作の中には中盤でもう一つ映画の話が出てきます。「ある愛の詩」(アーサー・ヒラー監督/1970年)。タカハシがマリに、バンドから足を洗って司法試験の勉強をすることを説明くだりで、突然この映画の話が出てきます。大まかなストーリーを話した後「で、そのあとどうなるの?」と尋ねられ、「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利」と応えます。
これは間違い、いやウソですね。「最後の方はよく見なかったんだ・・・」と言い訳がましく弁解してはいますが、映画のエンディングでは、妻のジェニファーは父に見守られ、愛する夫のオリバーに抱かれて死んでいくことになります。『愛とは決して後悔しないこと』(Love means never having to say you're sorry)という言葉が当時流行りました。
これはタカハシの、いや作者のトラップなのでしょうか?「最後の方はよく見なかった」と言いながら、勘当されたオリバーの父のことについては「糖尿病と肝硬変とメニエール病に苦しみながら、孤独のうちに死んじゃうんだ」と詳しいのです。もう忘れてしまったのですが、このことの真偽は定かではありません。
この有名なストーリーを唐突に持ってきて、エンディングを変えた作者の意図は何だったのでしょうか?資産家に生れながら愛のためにその父親と反目しながら自力で優秀な弁護士になっていくというオリバーのことが気に入らなかったのか?話を切り出したものの、「そういえば、最後にジェニファーは死んじゃうんだった。まずいな」と思って話を切り替えたのか?この程度の話はどちらでも構わないという批判なのか?とにかく謎です。
「ねじまき鳥クロニクル」第一部、二部を書き終え、謎は謎のままでいいといった作者ではありますが、一方でその謎に応えるべく一年後に第三部を書き上げたのも作者です。清水氏は本作を次のように見ています。「いちおうの解決を見たかに思えるこの作品は、巨大な『タコ』との戦いのプロローグであるように見えてくる。ちょうど『ねじまき鳥クロニクル』の完成前に『国境の南、太陽の西』が生れたように、『アフターダーク』とは、今作者が格闘している暗闇の『ビフォーダーク』なのかもしれない」。
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