作雨作晴

日々の記憶.....

桓武天皇皇后陵

2008年03月07日 | 日記・紀行


桓武天皇皇后陵


相変わらず寒い日が続く。久しぶりに自転車で散歩(散輪)にでる。散歩はやはり、何の目的も持たず、気の向くまま、足の向くままがいい。

その途中に、桓武天皇の奥様の御陵に出くわした。たぶん、何度もこのあたりも行き来しているはずだけれども、これまでも、このような御陵に関心も何もなかったので足を止めることもなかった。

しかし、以前と違って最近はどうもこのような歴史的な遺物というか遺産に惹かれるようになったと思う。それには、テレビなどでしばしば世界遺産などをテーマにして、世界各国の歴史的事跡や遺産などが放映されるようになったことも影響しているのかも知れない。

近年にも弘法大師のご開山になった金剛峯寺のある高野山が世界遺産として認められたこともある。それに若いときには未来にしか眼が行かなかったのに、年を経るにつれて、それだけ過去を顧みるようになったということかも知れない。おそらく、与えられた時間としては、すでに未来において想定される時間よりも、事実として過ぎ去った時間の方が長くなってしまったからだ。個人として過去に蓄積された時間の方が長い。時間を線分にたとえればおそらくそうなる。その結果として自分の過去の時間の延長として歴史を見るようになったためだろうと思う。

過去の歴史に眼が行くようになった。それで、最近は散歩にもデジカメを持参して、興味のある対象は写真にとって記録してゆこうと思っいる。そして、それと同時にそれに関連する歴史の事跡や背景もできる限り調べて記録しておこうと思うようになった。その調査も昔と比べて、ネットの普及などでずいぶんやりやすくなったこともある。

上の写真は、桓武天皇皇后の御陵で高畠陵(長岡陵)と呼ばれている。この皇后様は藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)と言うそうで、760年(天平宝字4年)に生まれ、 790年5月2日(延暦9年閏3月10日)に没した。続日本紀には、この皇后について、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り。」と記録されているそうだ。平城天皇・嵯峨天皇の母でもある。物腰が柔らかでしとやかな美しい女性であったようで、妻としても母としても、婦人としてのたしなみ深い人であったようだ。わずか三十一歳の若さで亡くなっている。この人の事跡を読んで、すぐに光源氏の母の桐壺の更衣のことを思い出した。もちろん、この方は皇后として亡くなられたのであって、更衣という身分ではなかった。贈り名は、天之高藤広宗照姫之尊。

桓武天皇は平安京に遷都する前に、今の洛西に位置する乙訓の地、長岡京に奈良の平城京から都を移している。だから、長岡京はわずか10年足らずの造営で終わったらしいが、調べて見ると、その再遷都の背景には長岡京建設の命を受けていた藤原種継が何者かに暗殺されるという事件があったらしい。また「海ゆかば」の和歌の作者で万葉集の編者として知られる大伴家持も、この事件に連座していたらしい。

この桓武天皇の時代は、伊勢物語の主人公である在原業平や藤原高子たちの生きた時代でもあり、空海や最澄も同時代人であるという。とすれば、この桓武天皇の御代は、今日の日本の礎を築いた大変な時代ともいえ、興味をそそられることも多い。できうる限り、そうした歴史的な事跡もたどってみたい思う。

業平の墓も遠くないところにあるようだし、また、三月末の日曜日には小野小町のゆかりの随心院で「はねず踊り」もあるそうだ。忘れずに一度は訪れて見たいと思う。

参照

長岡京

藤原乙牟漏

桓武天皇

 



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