作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

廻りくる春の萌し

2010年03月02日 | 日記・紀行

 

廻りくる春の萌し

ここしばらく、雨が降ったり止んだりの日が続き、ジャガイモ畑の畝づくりに取りかかる機会を失っていた。ようやく、晴れ間の見えた今日、山の畑に向かう。

近年の冬は比較的に生暖かく、冬らしい寒い日も少なくなった。つらいけれども冬はやはり寒い方がよい。

そうこうしている間に、もう明日にはひな祭りを迎える。久しぶりの途中の道々に、ふたたび今年もまた梅などの蕾が綻び始めているのが見える。めぐりくる春の季節の象徴のように、梅や桜の花々にはあらためて時間の回帰を実感させられる。

私たちの生活が周期のなかで展開するのは、言うまでもなく地球が球体であることと、それが太陽の廻りを公転しているためである。そのために、周期の単位は一日と一年である。

円や楕円形においては端緒が終局でもあるということによって、冬の終わりは春の始まりとなる。地球上のあらゆる生命体はその無限に繰り返される回帰の影響を受ける。

ただしかし、宇宙自体の直線的に運動していることは、私たちの時間が生から死へと時間の方向が一方的であることによって感覚的にわかる。ただもしかして、宇宙があまりにも無限に広大であるがゆえに、その円弧があたかも無限の大きさをもつ直線のように感じられるだけであるとするならば、いつの日か、その無限の時間の経過の後に、鉄の必然性をもって、私たちの生命体の復活の日が訪れるにちがいない。想像すらもできないほどの無限に近い時間が、たとえその時までに経過しているとしても。復活した新しい私は昔の自分のことを忘れてふたたび思い出すこともないにちがいない。

先に、畑に行く途上に時折見かける老人と、自転車を降りてはじめて話をした。背をかがめながら、鎌をふるって農作業をしている彼の姿はよく見かける。耳のよく聞えないせいか言葉も不自由である。それで筆談になったけれど友だちになった。いわゆる市民社会では決して見かけることもない天使のように純粋な人のように思ったが、果たして現実にそうした人間があり得るのかよくわからない。

2010年のはじめての春の記録として、いくつかの写真を撮る。色づきはじめたばかりの菜の花畑は、バッテリー切れで写せなかった。いつまで残るか記憶に刻み映すのみ。

 

市内遠望20100302

白梅

山中に忘れられて野生化して咲く紅梅

 

 

 

 

 

 


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