作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

山岸の正月

2012年01月17日 | 日記・紀行

山岸の正月
 
AUCH    ICH    IN    ARKADIEN
 

 
ヤマギシズム京都供給所の林さんに誘われて、豊里の村で行われる、新春の「お父さん研鑽会」に参加した。名神高速道路の京都南インターチェンジから、栗東まで行き、そこから国道一号線に乗って関まで、そして、ヤマギシズム生活豊里実顕地のある高野尾町へと出た。途中少し道に迷いはしたが、まず順調な旅であった。

滋賀の県境で、小雨が降り出したが、すぐに止み、鈴鹿峠を越えて、伊勢の平野に入ったときにはすっかり晴れて正月らしい青空が広がった。日の丸の掲げられた、町立小学校の校舎の脇を右に折れて小道にはいると、低い冬枯れの木立の向こうにヤマギシの鶏舎特有の青いトタン屋根が見え隠れしていた。



駐車場に車を入れ、誘導板に従って歩いてゆくと、道路の辻々に案内人が立っていた。正月にヤマギシの村では様々の催しがあり、子供から老人に至るまで、この村に集ってくる。

左手に壬生菜の植わった畑を眺めながら、坂を降りきったとき、いかにも百姓らしい風采をした男が立っていたが、近寄ってみると、昨秋、村に参画したばかりのK氏であった。「よくいらっしゃいました」と言って、彼は固い握手で、私を迎えてくれた。彼は厚い防寒着に帽子を被り、その上に風よけの手ぬぐいを巻いていたので、近づくまで気がつかなかった。

彼が、支部の仲間の会員に送り出された研鑽会で、参画に至るまでの迷いや心境を語っていた時も、私は平凡な感想しか述べることしかできなかった。彼が京都大学を卒業後、建築会社で長くサラリーマン生活を過ごしていたが、東京への転勤の辞令があったのをきっかけに、村に入った。「何も今でなくとも」など上司などから慰留もされたそうである。

今こうして、穏やかな笑みを浮かべ、村を訪れた人を案内すべく、辻に立ちながら、村の正月を過ごしている。建設部で働いているそうである。むろん、これからも試練は避けられないにしても、彼もまた良い決断をしたのだと思った。

立ち話もそこそこに、私はK氏の指さした受付まで行った。木造の校舎のような建物の二階で、そこで財布や免許証、車の鍵などの貴重品を預け、それから私に割り当てられた部屋へ行った。私と合部屋になる六人の名前が、紙に書かれて入口に貼ってある。

すでに到着していた人は、一階のロビーで皆と雑談しながらくつろいでいる風であったが、私は昨夜の寝不足を補うために少し横になった。しかし、半時間ほどの浅い眠りのなかに過ごしてから、夕日の差し込み始めた窓際に寄って、外の景色を眺めた。

何も植わっていない、掘り返された冬の畑の向こうは、伊勢自動車道の土手に遮られており、さらにはるか彼方の伊賀の山々の向こうに夕日は沈もうとしていた。遠くの畦道を、晴れ着に着飾った和服の女性が、裾を風に翻しながらひとり渡って行く。空には名も知らぬ鳥が二羽、西の空に悠々と飛び去ってゆく。



宿舎の端にあった二一五号室で、参加者全員が集まって、オリエンテーションが開かれた。その中で、今回の「新春お父さん研鑽会」のメインテーマとして、「二十一世紀を創る」という標語が明らかにされ、サブテーマとして「光彩輝く将来を画策、施行し・・・」という青本の一節が掲げられた。そして、正月の三日間の日程表が参加者に配られ、研鑽会のスケジュールが紹介された。それが終わると、まだ新しい「豊里温泉」に案内された。

この浴場の外観は、瓦葺きのどっしりした日本建築になっているが、入口はガラス張りで自動ドアである。風呂場には大理石がふんだんに使われている。男風呂はグレーに、女風呂は淡いピンク色で統一されているという。大きな一枚ガラスの向こうに、枯山水の小さな庭を眺め、暖簾をくぐって風呂に入る。

 

 

 


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