作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

宗教と国家と自由

2006年08月23日 | 哲学一般


現行の日本国憲法は確かに信仰の自由、宗教の自由、良心の自由などは最高の価値として認めている。だからこそ、私たちは小泉首相の靖国神社参拝を否定しなかったのである。しかし、問題はそこにとどまるものではない。さらに、その信仰そのものの、その宗教の、その良心の「真理性」が問われなければならないだろう。少なくとも、私たちが宗教的に、文化的に高級な自由な人間であろうとする限り、さらにその信仰が「真理」であるかが問われなければならないのである。

「鰯の頭も信心から」という言葉があるが、その宗教が真理であるか、その「良心」の内容が真理であるか、が問われなければならないだろう。オーム真理教や靖国神社や創価学会その他の既成、新興の宗教が宗教として真理であるかが問われなければならない。神戸児童連続殺傷事件の酒鬼薔薇少年ですら「バモイドオキ神」を信仰していたではないのか。単に信じればいいという問題ではない。信じる対象が、真理であるのか、それとも「鰯の頭」その他なのかどうかが問題なのである。

真理以外の対象を崇拝することを偶像崇拝という。そして、宗教の自由とは、いかなる「神」をも信じる自由ではなく、真理を信じる自由のことである。憲法で保証されている言論の自由、宗教と思想信条の自由、良心の自由とは、この真理を信じることによってもたらされる自由のことである。

単に形式における自由のみではなく、その内容の自由が、その真理性が問われる必要がある。小泉純一郎氏をはじめ現代日本人にはこの問題意識がほとんどないのではないか。歌手プレスリーに舞い上がる小泉氏その他の政治家を思想家としてはほとんど評価しないのもそのためでる。そこにあるのは盲目的な「信仰」であり、その神が「鰯の頭」か「バモイドオキ神」か、はたまた「松本智津夫」か「毛沢東」か、その神々の内容こそが問われなければならないという自覚と反省はない。

神について劣悪な観念しかもてない民族は悲惨である。旧約聖書でモーゼやエリヤが異教徒の神々を攻撃したのは、それらの神々が人身御供を要求するような劣悪な神だったからである。モーゼは警告して言った。「あなたの主なる神に対しては、彼ら(異教徒)と同じやり方で崇拝してはならない。彼らは主が憎まれ、嫌われるあらゆることを神々に行ったからである。彼らは自分たちの娘や息子さえ祭壇の火に生け贄として捧げたからである。」(申命記第十二章第三十一節)

哲学者ヘーゲルも言っている。「神について劣悪な概念をもつ民族は、また、劣悪な国家、劣悪な政治、劣悪な法律しかもてない」と。また、「人間が絶対的に自由であることを知らない諸民族は、その憲法上でも、またその宗教上でも陰鬱な生活をしている」と。

キツネやヘビを崇拝する宗教をいまだ脱しきれていない日本国民には、この哲学者ヘーゲル氏の言葉に耳を傾けて、その真偽を検証する価値と必要があるのではないだろうか。


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5 コメント

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お~全体主義 (洛南院大法螺噴大居士)
2006-08-23 21:23:05
汎神論、認めてあげないの?

「自分」はとりあえず、横に置いときましょう。でないと、旧約の神さんみたいに、怒ってばかりの人になるよ。神をカントの道徳律と考えたらいかがでしょうか。ヘーゲルがお好きな様ですので、かれの「法」でもいいんだけど。カソリックで言っている「人間の尊厳性」が、良心なんだがな~。
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愛と怒り (そら)
2006-08-24 20:18:42
洛南院さん、いつもコメントありがとう。

あなたのコメントを読んで感じたことを書きます。

まず、あなたはこれまでおそらくきっちり旧約聖書を読んでこなかったのではないか、と思いました。

旧約聖書の神は、あなたの仰るように「怒ってばかりの神(人?)」ではありません。聖書の至るところに繰り返し書かれているように、聖書の神は愛と憐れみの神です。それは、子なるイエスを見ればわかるではありませんか。この父にしてこの子ありです。

「主に感謝せよ、主はまことに恵み深く、その愛は永遠だから」(詩篇106:1)。主の怒りが永遠と書かれている個所はありません。



ただ、怒りや裁きのない「愛」は、溺愛とも言って、底の浅い愛です。怒りの深いのは、また愛が妬ましいほどに深いからです。その他の民族神と異なって、聖書の神がイスラエルの民族を厳しく裁くのは、この神の愛がそれだけ深く正しく利己的ではないからです。



そして、聖書の神は、父なる神であって、母なる神とは書かれていません。それとも、あなたの父は、現代日本の多くの父親のように、友だちのように甘く、溺愛して怒ることのない父だったのでしょうか。



聖書の理解がもし困難であるとすれば、それは経験や知識の不足から来るのではないと思います。だから、博学な大学者であっても、もし聖書を理解できないとすれば、それは旧約の預言者たちと同じだけの、信仰と愛とモラルの感情を持ち得ないからだと思います。聖書は単なる知識の本ではありません。倫理的な感情なくしては、謎の本に終わるのではないでしょうか。



           そら

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失礼な! (洛南院大法螺噴大居士)
2006-08-27 13:29:03
空さん以上に、読んでると思うがな~

空さん、宗教書、哲学書、読まなすぎかな。

ヘーゲルが哲学の体系作ったそのボロで、実存が出てきた。お願いだからセーレン・キルゲゴール読んでくれ。いかにヘーゲルが、哲学者でないと解るかも。空さん、実存って理解してる?

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洛南院さん、失礼ご免! (そら)
2006-08-28 10:22:55
洛南院さん、コメントありがとう。



あなたのご意見では、ヘーゲルの哲学体系の「ボロ」からキルケゴールらの実存哲学が出てきた、ということですが、確かにキルケゴールはヘーゲルの「非実践的」な性格を批判して出てきたと思います。しかし、ヘーゲル自身は理論家として生きたのであって、それが彼の「実践」でした。彼はその自分の限界を自覚していたと思います。ただ、ヘーゲルのその「実践」はサルトルらの「投機的主体性」それよりも高いものだったと思います。



専門化し多岐にわたる近代、現代哲学の哲学者は、すべての領域で万能であることができません。一つの専門に限定せざるをえないので、レーニンやマルクスのように、理論家と実践家を兼ね備えることは難しいと思います。



といっても、ヘーゲルは世間一般に理解されているほどに非実践的ではありませんでした。彼は、ベルリン大学の学長として、当時のプロシアの国家に、科学と教育に彼自身の哲学で奉仕しました。「急進派」の若造たちからは「保守的だ」などと批判されもしたようですが、彼らの批判が正しいとは必ずしもいえません。むしろ、ヘーゲルの哲学こそが「大人の主体性哲学」だったのだと思います。ヘーゲルはプロシア国家の建設のために、哲学と教育において歴史の発展に貢献しました、それは、ゲルマン民族の自由と独立のために奉仕する生涯だったと思います。もちろん、それに対してもさまざまな評価のあることは知っているつもりですが。



だから、私はキルケゴールその他の二流思想家の「ヘーゲル批判」には組しないのです。したがってまた、サルトルやキルケゴールの実存主義も高くは評価しないのです。彼らの主張する「主体性」は、ヘーゲルの主張する主体性に比べれば主観的で一面的で低いと思います。



以前に、実存主義の祖とされるキルケゴールの思想について論評したことがあります。キルケゴールについての私の評価はまだ基本的に変化はありません。よろしければ、ご参考までにお眼通しください。



私の哲学史(3)──キルケゴール(主体性について)

http://anowl.exblog.jp/911895/



              そら

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ヘーゲルは鰯の群、大海では通用しないのでは? (洛南院大法螺噴大居士)
2006-08-28 20:16:07
キルゲゴールの評論、読ませて戴きました。

美的実存ー倫理的実存ー宗教的実存、コメントなし。且つ、サルトルが実存ですって?

実存主義者はV・E・フランクル、マザー・テレサの領域かと思います。実存はキルゲゴールからと思います。お願いですから、彼の本(岩波文庫にあると思うが)再度?読んで戴きたく存じます。因みに、洛ちゃん思うに、サルトルは、文学者ではないかと。
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