作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

書評に対する返信

2014年02月01日 | 書評

 

「書評に対する返信」

 

 かなり昔に橡川一朗氏の著書『近代思想と源氏物語』について拙いながら書評を書いたことがあります。それをネット上に公開していたところ、どうやら著者ご本人のお目に留まったらしく、「書評に対する返信」という形でメールが昨年の十二月の初めに私のところに届きました。読ませていただいて感想と同時にお礼の返信を同じくメールでお送りしました。

その際に、元都立大教授からいただいたメール「書評に対する返信」を、私のブログに公開してもよいかどうかお訊ねするメールもお送りしましたが、音沙汰はなく、その是非はわかりませんでした。もうすでにかなりご高齢になっておられるようですし、ひょっとすれば私のメールも見落とされて気づかれていないのかもしれないと思いました。

それでも、この著者からの「返信」には、戦後マルクス主義の影響を受けられた世代に属する学者の、一つの歴史認識が明らかになっており、元社会党党首の村山富市氏ら世代にも共通するある時代に普遍的な、社会認識も述べられてあると思います。

マルクス主義の影響の濃い戦後民主主義の歴史認識を示すものとして、元教授の許可は得られてはいないですけれども、学問上の議論に資するものとして、このブログに公開しても反対はされないだろうと思い、投稿することにしたものです。

また、この橡川一朗氏からいただいた「書評に対する返信」に対する私の感想とお礼としてお送りしたメールも、追って別の記事として投稿したいと思います。

やや長文ですが、興味や関心のおありの方はお読みいただければと思います。

以下が橡川氏より「書評に対する返信」としていただいたメールの内容です。

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作雨作晴隠士様
                   橡川一朗

先年、小著『近代思想と源氏物語』に懇切な御批評を頂戴いたしましたのに、不覚にも幾年ものあいだ気付きませず、まことに申し訳ございませんでした。つたない小著にわざわざ書評をいただくことなど思い及びませんでしたのと、このところ久しくパソコンに無縁でした所為とは申しながら、御詫びの申し上げようもなく、ひとえに御海容のほど御願い申し上げます。

それに致しましても、御指摘のとおり門外の思想史などに手をつけて、いたずらに恥をさらしましたにもかかわらず、まず西洋史専攻の立場からの小著の意図を御汲み取りのうえ、最終的には源氏物語の思想史的意義の問題にまで御言及いただきましたこと、望外の幸せと存じ、幾重にも厚く御禮申し上げます。

 まず私の専攻分野での仕事にかんする御訊ねに御答え致しますと、『西欧封建社会の比較史的研究』(1972年、増補改訂版1984年)と、それを補う形の『ドイツの都市と農村』が、拙い勉強の所産と申し上げたいと存じます(御取り上げの小著p.253「参考文献」御参照)。

両拙著の要点は、「中世ドイツの農民Bauer は、一種の大家族の家長で、家族員や雇い人を奴隷あつかいした家父長Patriarchだった」ということです。(この、いわば小規模奴隷所有は、フランスでは13世紀頃までに消滅したのに対して、ドイツでは、管見の限り、18世紀半ばまで、農村でも都市でも、存続したと考えられます。〔小著pp.20~23御参照〕。)
 
 この主張は、日本の西洋史学界では異端とされ続けましたが、それはドイツの歴史学者が自国の奴隷制を絶対に認めないからです。しかし戦前の日本マルクス主義歴史学の巨峰山田盛太郎の日本資本主義「擬似」説を、独自のイギリス資本主義成立論から援護した故大塚久雄氏や、その系譜をひく近代ドイツ農村研究の藤田幸一郎氏等から賛同を得たのが励みになりました(この三氏については、それぞれ小著p.165f., p.24, p.26御参照)。

 それとともに自説の証拠として強力な支えとなりましたのは、童話集の編著で有名なグリム兄弟の兄のほう(Jakob)が収集・刊行した膨大な『町村法集』Weisthuemerでした。その解読には手間取りましたが、ドイツ人が読まない記録に取り組むこと自体が面白くて、つい三十余年を過ごしてしまいました。

 では西洋史学徒の身で源氏物語とその古注に深入りした理由は何か、と問われると、返答に窮するのが実情ですが、直接の動機は、歴史関係の専門誌『歴史学研究』の編集部から、当時大評論家とされた小林秀雄の大著『本居宣長』の書評を依頼されたことでした。

突然のことに驚きましたが、「比較史」と言われはじめた私の方法が誇大に伝わった所為かとも思い、それにしても日本思想史専門の高名な方々から断られた末のハプニングかとも思ううち、気持ちが楽になって引き受けることに致しました。同書を通読して、書評のポイントとなりそうな箇所は、宣長の源氏物語評注(玉の小櫛)への小林の批評と見て、両書に頻出する源氏古注の集大成『湖月抄』の物語原文と注釈を、大急ぎで読みました。じつは源氏物語は、大学卒業後間もないころ、兵役を免れて退屈しのぎに谷崎純一郎の現代語訳と某書店刊の原文を一通り読んだことがありましたが、その記憶と、書評を機に読みだした湖月抄源氏の印象との、余りにも大きな違いに、まず嘗ての読みの浅さに恥じ入りました。それと同時に、源氏物語と古注の偉大さに気づき、本気で書評に挑戦する気になりました。

 その折の書評の主旨は、宣長と小林が、ともに湖月抄の重要性を言いながら同抄を軽視して、前者はハグらかし、後者は読んだ振り、という侮蔑ぶりを明らかにすることでした(同誌491号、1981年)。――例えば宣長が「私は戯作者堕地獄説に拠る仏教側からの紫式部非難を退けた」と宣伝するのに対して、小林が無条件で宣長を褒めたのは、彼が湖月抄を読んでいない証拠です(小著p.238)。つまり湖月抄とそれ以前の古注は挙って、仏教の骨格をなす認識論と、日本仏教で特に深化した「罪の意識」とを、源氏物語の二大文学理念と見て、物語と作者を賞讃していますが、宣長はそれを知りながら無視して、儒教化した通俗仏教の式部批判だけを問題にし、小林はその詐術にまんまと嵌ったわけです。

 なお上記拙著の表題中の「比較史」という言葉が、独・仏中世社会の対比という意味を超えて、一人歩きしたらしい経緯は、つぎのように考えられます。――私の中世ドイツ農民の奴隷支配説発表の直前、日本史では故安良城(あらき)盛昭氏が上記歴史学研究誌(163号、1953年)に「中世農民=奴隷所有者」論を展開し、やがて大評判になりました。その安良城ブ-ムの余波で、私のドイツ奴隷制説も日本史学界で注目されはじめ、期せずして、同氏と私と二人で日・欧比較史をやりだした、という風に思われた様子でした。ただ、安良城説の行方は複雑で、中世史学者のあいだでは反対論が圧倒的に優勢となり、他方、江戸時代史(近世史)のほうでは強力な支持者が現れ、さらに日本の後進性を追求する戦後の学界状況のもとで、安良城氏は、若手研究者の間で、天才とまで賞賛されました。

そんな雰囲気のなかで私は、かのグリム町村法集などの解読を楽しんでおりました。しかし日本中世史学界で、マルクス主義を標榜する人たちまでも奴隷制説反対の論陣を張るのを見て、問題の根は深いと感ずるようになっていました。

 そこで私は、安良城氏が尊敬してやまない上記山田盛太郎の理論や、その先駆となった服部之総の明治維新「封建制再編」論を改めて読み、お二人の学説を日本マルクス主義の精華と見るとともに、それと服部の親鸞・蓮如論とを見比べなら、その「日本的マルクス主義の文化史的背景を考えるに至りました(服部については小著p.164f.,  p.194ff.御参照。)そして親鸞から遡って源氏物語、さらに蜻蛉日記に、近代キリスト教的「罪の意識」を見出だした亀井勝一郎の日本文化史論(小著p.192)に接して、服部の文化史構想の全容を想像できるような気がしてきました。

 他方、私は旧制高校(一高)三年生のときカントの主著『純粋理性批判』を原文で読み、ドイツの歴史に興味を持つようになりましたが、もちろんカント哲学の真意が判るはずもありませんでした。ところが大学院在学中、和辻哲郎の大著『原始仏教の実践哲学』を読んで、ようやくカントの認識論の本質を知ると同時に、仏教哲学も理解できたように感じました(小著p.169)。また都立大学に就職してからは、先輩教授(アメリカ思想史の阿部行蔵氏)から、アメリカ東部のエリ-ト層によるデカルト・カントの受容ぶりを教わる一方で、「服部之総の『蓮如』はマックス・ウェ-バ-のプロテスタント倫理論より優れている」などという貴重な示唆も受けました。そして服部の蓮如論が親鸞の「罪」意識から説き起こされているのを知って、高校時代に上級生から薦められて愛読した夏目漱石の『こころ』との関連から、罪の意識というテ-マが西洋近代文学の一大底流ではないか、と思いはじめました。(一高生から大学院生の時にかけて漱石に触発され、岩波文庫のフランス・ロシア文学訳書に親しんで、西洋近代文学に魅せられました。)

上記の小林著への書評には、いま申し述べましたような読書歴を下敷に、「社会科学的思想史」と題する一節を設け、前述大塚・安良城両氏の理論を社会経済史上の基礎構造論として、認識論と罪意識を東西思想史の二本柱とする、いわば新文化史の試みを略述いたしました。お目にとまりました小著は、それを敷衍したものです。 

(小著でもマルクスへの言及が半ペイジ〔p.29〕のみですが、上記書評では僅か1行でした。それが当時の歴史学研究誌読者主流の左派には意外だったらしく、書評は不評で、当然、小著の草稿は出版の当てさえありませんでしたが、前記藤田幸一郎氏のおかげで、ようやく出版に漕げつけました。)
   
 なお小著で、いま一つ御気付きかと思いますのは、現在の西欧でのフランスの政治・文化的地位を最高のものとする愚見ですが、これは滞欧中(1970~71年)の体験の所産でした。それというのも、あるときフランス語で話しかけてきた英国婦人から「コンティネントでは英語は田舎者のアメリカ人の言葉という固定観念が強くて使いづらく、そう言えばイギリス本国の英語だって所詮は田舎言葉ですもの」と聞かされたのが始まりです。(彼女の打ち明け話は、後になって、ドイツの国際的大作家ト-マス・マンが小説『フェ-リクス・クルルの告白』中、語学の才を武器に痛快な身分詐称劇を演ずるドイツ生まれの主人公に「フランス人はフランス語だけが人間の言葉だと信じているが、残念ながら我ら諸国民はフランス人の自負を承認せざるをえない」と言わせたのに通じていた、と感じました。)

そのフランスで、私は下宿の老管理人――今の私から見れば初老の人でしたが――からフランス語の会話を教わり、スイスなど各国に旅行の際、たいへん役にたちました。

 しかも、その管理人が「会話を教えてあげたのは、日本の古い文化のことを知りたかったから」と言うので、いろいろ話すうちに、蜻蛉日記の話になり、上記の亀井説を念頭に、日記の心理描写の背景として「悲しみのト-ン」を挙げ、「悲しんだのは人間という存在そのもの」と話すと、彼は「昔の日本人はパスカルと同じような高級な感情をもっていたのですね」と驚きました。しかし、もっと驚いたのは私のほうで、パリ郊外の一庶民がパスカルをそれほど深く理解しているのには、感嘆のほかありませんでした(小著p.192f.)

 さらに、その管理人が私の話を聞かせたいというので会った彼の教会仲間の医師夫妻に、仏教認識論をデカルト哲学から説明したときの、夫妻の理解力にも、感心しました(同p.197)。また、その後、フランスの国家試験の一つ(大学入学資格試験)で論文問題の題目にデカルト関連のテ-マが度々出るという新聞記事を見て、文化大国としてのフランスの自信に満ちた高等教育方針を理解できた気が致しました。

 以上が私のフランス文化大国論の根拠ですが、これは明治以来の日本人にとっては納得しがたい考え方であっても、英米両国の多くの知識人や現代ドイツの超エリ-ト層には、自明のことではないかと思っております。

 しかもフランス文化大国論を念頭に置きながら、西欧諸国で抽きんでている独・仏両国の国際的地位を見較べてゆくと、フランスの地位の高さに気付かざるをえません。これも多くの日本人には解りにくいことのようですが、フランスの文化的基調が、たとえば第二次大戦初期の対独降伏となり、それが戦後フランスへの信頼の基盤となって、同国の国際政治力を支えているように思われてなりません(小著p.31)。

 さいごに近ごろ気付きましたことを付け加えますと、ドイツの歴史学者が自国の奴隷制を頑強に否定する背景には、自国文化への自信の無さから来る偏狭な愛国心があり、しかも、それが現代ドイツの超エリ-ト層の歴史認識(朝日新聞本年10月3日駐日ドイツ大使の会見談御参照)と懸け離れていることです。それはドイツの平均的な知識人が、かれらの国の生んだ偉大な思想家ルタ-・カントの真価を知らないために演じている滑稽な悲劇にほかなりません。それにつけても、わが日本で、せめて歴史学者だけでも、源氏物語とその古注を理解して、日本文化への確かな誇りに支えられ、そのうえで自国史上の汚点を率直に認めて、その遺制の克服に資するような「真の愛国心」を持ってほしいというのが、私のささやかな勉強のすえの悲願です。

 お詫びと御疑念へのお答えのつもりの一文が、つい長くなりまして、申し訳ございませんが、なお御不審の点は、厳しく御指摘いただきますよう心から御願い申し上げます。


    2013年12月06日
        書評への返信.docx

 

 

 


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