作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

2021(令和3)年クリスマス

2021年12月25日 | 日記・紀行

 

2021(令和3)年12月25日(土)晴のち曇り。クリスマス


今宵はクリスマス。これまでずっと毎年、クリスマスには記事を記録してきたつもりだったけれど、
ちょっと調べてみるとそうでもないことがわかった。これらのブログを開設したのは2005年だけれど、驚いたことに昨年のクリスマスにも記事がない。てっきり毎年書いてきたつもりだったけれど、調べてみると、2010年、2011年、2016年、それに昨年の2020年と合計4回もクリスマスの記事がない。
これまで、それぞれの年にさまざまなクリスマスの記事を日記として書いてきたけれども、ブログやツイッターを利用するようになって、中学生の頃から続けてきた日記帳や大学ノートに日記をつける習慣をやめた。それからずいぶんと時間が経つ。

クリスマスに関連しても、これまであまり直接的にはキリスト教については書いてはこなかったけれども、ここで簡単に私の個人的な「キリスト教体験」とでもいうべきことを記録しておきたい。

私が自分の意識のうちに「キリスト教」を自覚するようになったのは、自我の目覚めもすでに終わった高校生の頃だった。やはり初めは書物を通じてであり、それも時代や土地とも決して無縁ではない。

私より一世代うえで1960年に青年時代を過ごした世代も日米安保条約制定の社会的政治的影響を色濃くうけているが、それよりひと回り下の私たちの世代も1970年の安保改定期の政治的社会的な影響を直接間接に受けている。私たちが高校生の時代にも、校内で「食堂値上げ反対闘争」が組織されていたし、友人たちの間でも生意気にマルクス主義やサルトルなどの実存主義云々するものが多かった。

私が「キリスト教」のことを意識に上せたのは、そうした頃に読んだキルケゴールやヘーゲルの著作を通じてだった。当時の若者たちに圧倒的に支配的に流行したマルクス主義にはとくに惹かれることはなかった。

すでにひと昔の事になったけれど、オーム真理教の松本智津夫の詐欺師教祖に誑かされて、多くの有為な青年たちが死刑に処され、自らの人生を棒に振ったばかりではなく、社会、国家にも深刻な傷跡を残して去っていった。

しかし、私の経験をかえりみても、多くの青少年たちがその青少年時代に自らの生き方を求めて、宗教や政治の世界に足を踏み入れる、そうした気持ちは理解できないこともない。私たちの青年時代にはマルクス主義などの共産主義、社会主義が熱病のような影響力をもっていたし、多くの友人たちも、政治運動や学生運動にのめり込んで、良かれ悪しかれ自らの人生に深刻な影響を被った。私個人としては高校生時代からのキリスト教への「傾倒」から共産主義などの政治思想に直接の影響を受けることはなかった。

高校の剣道部の延長で、大学に進学しても体育会で合気道をやっていたが、一方で私はキリスト教に関する疑問を抱えていたせいか、今ではほとんどの大学生が着ることもない学生服を着て、教会のキリスト教入門講座に数年も通った。神父さんのことも教えを聞いたこともよく覚えている。けれども、どうしても納得がゆかずに、この問題はヘーゲル哲学に行くことによって個人的に解決を図ることになった。それがこの年に至るまで続いている。

青少年時代に受ける思想的な影響力は、自他の経験にてらしても、まことに深刻であると言わざるを得ない。ヘーゲルも「哲学は信仰深くあろうと欲することは戒めなければならない」とも言っている。

いずれにせよ今ここは、私の思想的な遍歴を語る場でもないのでこれくらいに。

武漢コロナ禍も今年も三年に入ろうとしているけれど、その影響は深刻で、連れ合いもコロナの病ではないけれど、この年末体調不良で入院することになってクリスマスも共に過ごせず、また満足に面会にもゆけない。

そうしたさなかにあっても、曲がりなりにもクリスマスの宵を平安のうちに家に過ごせることを感謝しつつ、メリー・クリスマス。みなさんも楽しいクリスマスの宵のひとときをお過ごしください。

 

いくるはいかに とうときかな、
めぐみの神は  ともにませば、
そとなるからだは  やぶるるとも
うちなるひとこそ  日々にあらた。(讃美歌141)

 

J.S.バッハ: クリスマス・オラトリオ 第10曲 BWV 248:シンフォニア(第2部)[ナクソス・クラシック・キュレーション #特別編:クリスマス]

 

 

 

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